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スラムダンク奨学生インタビュー #8
第11期生 小林良

[連載]

#8 第11期生 小林 良

12歳のときに巡り合った夢は、見るものではなく信じるものだった。自分の武器を磨き、留学したところまでは計画通り。アメリカに出て見えてきた困難な道に真剣に向かい合い、一つの答えを出した。

※用語解説は記事末に記載します。

聞き手・構成=宮地陽子


撮影/和田篤志

夢を信じる力

「いっしょに夢を見ないか? NBAを目指してみないか?」
 そう言われたとき、当時12歳だった小林良こばやしりよう躊躇ちゆうちよすることなく「やりたいです!」と即答した。
 漫画の中に出てくるような、そんなセリフを小林に投げかけたのは、所属していたバスケットボール・スクールのコーチ、白澤卓しらさわたかし(現Bリーグ横浜Bコルセアーズの育成チーム・ヘッドコーチ)。呼び出されて、母といっしょにファミレスに行ったときには「僕、何か悪いことして怒られるのかな」と思っていたという。それが、怒られるどころかワクワクするような誘い言葉。これが、すべての始まりだった。
 白澤とは、当時すでに長い付き合いだった。その5年前に3歳上の兄が通い始めたスクールのコーチとして出会い、小林自身も小学校高学年に上がると教わるようになっていた。
 それにしても、白澤はなぜ、小学校を卒業したばかりの小林にそんな声をかけたのだろうか。
「良は標準以上の良い選手でしたけれど、プレーにおいて特別光るものを感じたわけではないんです」と白澤は振り返る。
 それでも、小林にはほかの子にはない可能性を感じた。その一つが『夢を信じる力』だ。白澤自身、12歳の子に向けて突拍子もないことを言っているという自覚はあった。しかし小林にはそれを真剣に受け止め、一途に目指す純粋さがあった。それはどんなにすばらしい能力やスキルにも代えられないものだった。
 実は小林は、その少し前まで何度もバスケットボールをやめようと思っていた。バスケットボールを始めたのは小学1年のとき。兄が入っていたミニバスのチームの人数が足りなくなったときに誘われ、大好きな兄といっしょにいたいという思いで始めた。そんなきっかけだったから、小学校の頃は体育館に遊びに行っているような気分だった。特に向上心もなく、練習では怒られることも多かったので、何度もやめたくなった。近くで見ていた母も、兄がミニバスを卒業したときに小林もやめると思っていたという。
 それが、小学校を卒業した頃に白澤から「夢を見ないか」と言われたことで、目の前がパっと開けた。見えている世界も、バスケットボールに対する思いも一変した。
「白澤さんがいなかったら、僕、今、バスケットボールやっていないと思います。それぐらい大きな出会いでした」と小林は感慨深げに語る。

 以来、小林は白澤と二人三脚で、NBAを目標とした準備を始めた。学校の部活に所属しながら、白澤のスクールにも通い、アメリカでプレーするときに備えた練習をしていた。「白澤さんは、バスケットボール小僧がそのまま大人になったみたいな人なんです。勉強熱心で、熱量と愛があって。おかげで、それまでの日本にはなかったようなコーチングを受けてきました」
 目指している世界を確認するために、中学の間に二度、白澤と共に渡米し、NCAAやNBAの試合を見た。小学生の頃からずっと憧れの存在だったコービー・ブライアントは、タイミング悪くアキレス腱断裂で欠場していたときだったが、その試合で自分との身長差が10㎝もない175㎝のアイザイア・トーマス(当時サクラメント・キングス)が208㎝のオールスター選手、ドワイト・ハワード(ロサンゼルス・レイカーズ)を吹っ飛ばしてダンクを決めた場面に遭遇した。それを見て、「この身長でも戦えるんだ」と衝撃を受けたことは、今でも鮮明に覚えている。
 アメリカの熱いバスケシーンに刺激を受けた小林は、このとき、白澤ら同行した人たちに向かって「日本一になります」と宣言。その言葉通りに、帰国後、ジュニアオールスターの神奈川県選抜のメンバーとして1年生ながら試合に出場し、全国優勝を果たした。
 中学の間は順調に前進している手ごたえがあった。中学1年のときに関東地区のトッププレイヤーが集まる関東エンデバーに選ばれ、アンダー世代の代表ヘッドコーチを務めていたトーステン・ロイブルがクリニックに来ると猛アピール。その甲斐あって、中学2年のときにはU14トップエンデバーに選ばれ、中学3年でU16日本代表候補入りを果たした。
「本当に、着々とステップを踏んでいって、なんとか代表候補まで最終的にはたどりついたっていう感じでした」
 しかし高校に入ってから、いくつか失望や挫折を味わう。
 当初小林の計画では、アメリカの高校に進学する予定だった。中学のときに渡米したのは、その下見のつもりだった。
「自信もあって、アメリカに行くぞと思っていたんです」
 しかし、それは実現しなかった。高校までは日本で進学してほしいと願う父親から反対されたのだ。泣いて、喧嘩もして懇願したが、説得することはできなかった。
「現実的にはそうですよね。最終的には、桐光とうこう学園への進学を決めました」
 桐光学園は兄も進学し、インターハイに2年連続出場していた強豪校だった。それ以上に地元、神奈川の高校ということが決め手になった。地元の高校なら、それまで同様に部活の合間に白澤にバスケットボールを教えてもらうことができる。それなら、もっと準備を整えて高校卒業後の渡米を目指そうと、気持ちを切り替えた。
 高校に入って楽しみにしていたことの一つが、U16日本代表としてアジア選手権に出場することだった。中学3年の10月に選ばれたときには24人いたU16代表候補は、強化合宿を重ねるにつれて人数が絞られていった。小林は12人に絞られるまでロスター(※1)に入っており、高校1年の夏にはドイツ遠征にも行った。ところが、秋の大会直前にメンバーの入れ替えがあり、そこで外されてしまった。
 このときのことを、小林は「人生初の挫折」と表現する。高校の先生からメンバーに入れなかったことを告げられると、すぐに母親に電話をかけ、電話越しに泣いた。代表として世界を相手に戦おうと意気揚々としていただけに、失望は大きかった。さらに、合宿のために度々練習を抜けていたことで、高校のチームのほうでも居場所がないような気分にもなり、すべてを失ったように感じていた。
 少しして、ようやく「鼻を折ってくれたのはいい機会だった」と考えられるようになると、ゼロから再スタートするつもりで、アメリカに向けてのトレーニングを再開した。
『スラムダンク奨学金』に応募したのは、それから間もなくのことだった。ある日、高校の顧問の先生がチーム全員を集めて、応募用紙を手に「スラムダンク奨学金に応募するやついるか?」と聞いてきた。小林はまっすぐ上に手をあげ、「それ、僕にください」と言った。

でも、試合になったらお前がチームで一番うまいんだぞ

 封筒をあけて「合格」の二文字が見えた瞬間、思わず飛び跳ね、「ワー!!」と歓喜の声をあげていた。『スラムダンク奨学金』の合格通知だ。中学1年の「夢を見ないか」から目指してきたアメリカにやっと行けるという喜びだった。
 もっとも、そうなる予感は、最終選考で現地、セントトーマスモアスクールを訪れたときから感じていたのだという。
「学校を見て、最初の練習を終えた時点で、『あぁ、俺、ここに来るんだろうな』って思っていました。あまり人には理解されない感覚なんですけれど、トライアウトとかをしていると、たまにそういう感覚になるときがあるんです」
 中学に入ったときから6年、誰よりも真剣にアメリカを目指して準備してきたという自負もあった。白澤との練習はもちろん、動画サイトを見るときも、アメリカの同年代選手たちのサイズやスピードを意識して見ていた。
 実際にスラムダンク奨学生として渡米して留学生活が始まった後も、アメリカ人選手たち相手でも驚くことはなく、予想通りと感じることのほうが多かった。
 試合にも最初から出してもらえていた。その理由を小林は、「コーチから言われたことに対する反応が早かったので」と説明する。10期生の鍵冨太雅かぎとみたいがから「ディフェンスを頑張れば試合に出られるよ。コースに入ればチャージング(※2)も取れる」とアドバイスを受けていたことも役に立った。
 高校のときは2番(※3)、3番(※4)でプレーしていたが、セントトーマスモアではポイントガード(※5)にコンバートした。コーチとのコミュニケーションが一番必要なポジションだ。子どもの頃から英語教室に通っていたことや、『スラムダンク奨学金』の留学準備として、英語塾に通ったこともあって、問題なく会話できるようになっていたことが大きかった。
 セントトーマスモアのヘッドコーチ、ジェリー・クインは、前のシーズンに通算1000勝をあげ、バスケットボールの殿堂入り候補にあげられたこともあるベテランコーチだ。試合中や練習中は厳しいが、コートを離れると優しい表情になる。


セントトーマスモアスクールではポイントガードを務めたが、自らシュートを打つ場面も。写真提供/小林 良

 小林は、自ら積極的にクインコーチとコミュニケーションを取るようにしていた。コーチがポイントガードだったと知ると、現役時代の話を聞いて、コーチから見た理想のポイントガード像を知ろうともした。ディフェンスがよく、シンプルなプレーを的確にできるポイントガードだとわかると、そこを目指し、苦手な左手ドリブルも練習した。
 最大の課題は、能力の高いチームメイトたちの中で、自分の持ち味をどう出すか。練習でも試合でも、チームで自分が一番下手だと思っていた小林は、自分がシュートを打つよりチームメイトにパスを出したほうが成功率は高いと考えすぎてしまっていた。そのたびにクインコーチからは「もっと自信を持て」と怒られていたが、自分本位になりすぎないことと自信をもって攻めることをどう両立したらいいのかわからずに、戸惑いを感じていた。
 そんなあるとき、クインコーチから、練習コートのすぐ横にあるオフィスに呼び出された。そこで、こう言われた。
「練習中は自分が一番下手だと思っていい。でも、試合になったらお前がチームで一番うまいんだぞ」
 味方にパスを出すことも大事だが、自分で攻めなくてはいけない場面もある。特に試合ではもっと思い切ってやれ、というアドバイスだった。
「そこからちょっと吹っ切れたというか、気が楽になった。すごく助けられた言葉ですね」と振り返る。
 同じ11期生として留学したホール百音もねアレックスの存在も心強かった。妹がいて兄貴的な性格のホールと、兄が大好きな弟気質の小林は相性もよかった。
「お互い負けず嫌いな部分はあるので、オフの日に1対1をしているとバチバチとなることはよくありましたけれど、それでお互いの関係が悪くなるっていうことではなかった。アレックスはすごくいいやつで、優しくて、お兄ちゃん気質。色々と助けてもらいました」

目標に向けての逆年表

 日本にいたときから、小林はNBAへの道筋を考えていた。何しろ、中学生にとってNBAはとてつもなく遠い世界。夢で終わらせないためには計画が必要だった。白澤や両親からアドバイスを受けながら、目標に向けての逆年表を作るようになった。
「NBAに入るという目標が何歳のときで、そのためにこのときに何をするという逆年表を作り、最初の目標を達成するためにはどうすればいいかと計画を立てました。それが習慣になって計画性を鍛えられ、当時から5~6年先の自分をちゃんと見ることができていました」
 そのときからの計画で、大学はNCAAディビジョンⅠ(以下D1)に進学するつもりだった。しかし、セントトーマスモアでのシーズン中に奨学金のオファーは来なかった。
 シーズンが終わって、春休みに入った頃、クインコーチから、同じコネチカット州にあるディビジョンⅡ(以下D2)のブリッジポート大学が興味を示していると聞き、ホールやニュージーランド人の選手と共に大学を訪れた。キャンパスを案内してもらった後にトライアウト兼ピックアップゲーム。そこで活躍した小林には、次の日にフルスカラシップ(全額奨学金)のオファーが届いた。
 目標としてきたD1の大学ではないが、D2の中ではNCAAトーナメントの出場を狙えるレベルの大学。訪問したときに出会ったのはいい人たちばかりで、キャンパスの雰囲気や海沿いという立地も気に入った。何より、フルスカラシップを出すほど評価してくれていたことは重要だった。
「日本に帰るという選択肢は僕の中ではなかったんです。なんとかしてアメリカに残ってやろうと思っていた。D1に行きたいという葛藤はあったんですけれど、タイミング的にラストチャンスという時期だったこともあって決めました。これはアメリカで学んだことの一つでもあるんですけれど、選択がベストかどうかよりは、自分が選択したものをベストに変える努力をしようと考えるようにしているんです」

 大学1年目は順調に進んでいた。勉強面ではビジネス・アドミニストレーションを専攻。大学に入るまでは、NCAAでバスケットボールをするためには規定以上の成績が必要だという理由で勉強をしてきたが、大学に入って、自分の将来を考えたときに、現役を引退した後の人生も考えて、ビジネスを学びたいと思うようになったのだという。それは、アメリカでの経験で人間として成長した表れでもあった。
「今までは、自分のキャパではバスケットボールに集中することしかできなかったんですけれど、アメリカに来て、自分を知って、バスケットボール以外の世界を初めて見た。セントトーマスモアで人として成長できたことで、バスケと勉強を両立しながらやれるようになったんだと思います」


ブリッジポート大では1年生ながら、全試合に近い25試合に出場し、ほぼ毎試合3ポイントシュートを決める活躍を見せた。ロバーツ・ウェスレヤン大との試合にて。写真提供/小林 良

 バスケットボールでも、1年生の中では唯一ローテーション入りし、ほぼ全試合に近い25試合に出場。チームはD2の大学の中で全米ランキング13位と好成績をあげていた。出場時間が1試合平均7分と短かったのは悔しい部分だったが、その限られた時間の中でシューターとしてほぼ毎試合3ポイントシュートを決める役割をこなし、成功率も42・6%と高かった。
 シュートは日本にいたときから、誰にも負けない自分の武器として磨いてきたスキルだ。
「小さい頃から白澤さんに教えてもらったことの一つに、平均的にいいプレイヤーよりは、何か欠けていても、誰よりも強いものを持っているプレイヤーのほうが成功するということがあったんです。僕にとって、県選抜や日本代表候補に入れてもらいながら見つけてきた武器がシュートだった。そこは昔から変わらず、今でも大切にしています」
 大学1年のシーズンはNCAAトーナメント1回戦の前日に突然の終わりを迎えた。新型コロナウイルス感染防止のために中止となったのだ。地区第1シードでのトーナメント出場で胸躍らせていたのに、予想外のエンディングだった。

ここの5年間は本当に死ぬ気でやりたい

 人生、すべてが計画通りにはいくわけではない。小林が逆年表で立ててきた計画も、現実にあわせて、少しずつ修正が必要になっていた。中学1年のときは「やりたいです!」と純粋に言えていたことや、NBAの試合を見て「あそこでプレーする」と純粋に信じていたことでも、年を重ねるうちに、本当にできるのか疑いを持つ瞬間もある。高い目標に向かって進んでいるからこその葛藤だ。挑戦というのは夢と悩みの積み重ねなのだ。


日々挑戦を続ける小林選手の近況はnote(note.com/ryokobayashi)に綴られている。撮影/和田篤志

「アメリカに実際に来てみて、バスケットボールをして、同年代でどうしても勝てないやつらはいる。その現実の厳しさを知ったんですね。正直、挑戦するっていう自分の姿勢に疑いの意識をもったこともありました」と本音を明かす。
 自分には無理だと諦めてしまうことは簡単だった。一方で、NBA自体が中学1年のときに会場で感じたのとは違う世界だということも見えてきていた。NBA選手といえども最初から何でもできたわけではなく、どの選手も自分に足りないところを埋める努力をし、成長してきたことでそこにいるということがわかってきたのだ。
「平凡なプレイヤーがNBAという輝かしい世界に行けるかどうかは、誰もわからないと思うし、別にわかる必要もないと思うんです。ただ、そこに僕がチャレンジしたいだけ。現実的な話かどうかっていうよりは、僕の夢として、トライせずにはいられないっていうモチベーションなわけで。もちろん、努力でかなう部分とかなわない部分があるのもわかるんですけれど、でも努力で勝てる部分があるのをもう知っている。だったら、その努力で勝ちきってやりたいっていう、負けず嫌いな部分が出ている」
 そんな葛藤や不安の末、最近、一つの覚悟を決めた。
「NBAに行くリミットが25歳だとすると、あと5年しかない。この5年間にバスケ人生すべての熱量を持って、灰になるぐらいまでやりきらないとかなわないような夢だと思う。挑戦しないまま何か別のことをしたり、挑戦しないままバスケットボールをすることは、僕自身が許せなくなるし、バスケットボールに対しても失礼なこと。僕の中でのけじめとして、ここの5年間は本当に死ぬ気でやりたい。それが、自分の中で出した答えなんです。やっと気持ちが固まりました」
 自分で悩みながらも結論を出せるようになったのも、アメリカで一人の人間として過ごし、成長したからこそだった。
「『スラムダンク奨学金』は、自分を人間として成長させてくれるきっかけだったと思います。いろんな世界に触れて、一人の人間としての価値観を持ったり、アイデンティティをしっかり確立させることのきっかけになりました」
 奨学金に合格したときに「これがスタートラインだ」と思った。今から思うと、それはNBAという夢に向けてだけでなく、小林良という人間の、人生のスタートラインだった。

文中敬称略

■用語解説
※1 ロスター: 出場資格のある選手の名簿。
※2 チャージング: オフェンスの選手がディフェンスの選手に突っ込んだり体を押さえつけたりする不当な接触。
※3 2番: ポジションの呼び方の一つでシューティングガードのこと。
※4 3番: 同じくスモールフォワード。
※5 ポイントガード: バックコートからフロントコートへのボール運びや、フォーメーションの指示など、司令塔の役割を果たすポジション。1番。

COLUMN
♯8 小林 良

「SLAM DUNK」で
好きなキャラクター、シーンは?


『SLAM DUNK 新装再編版』14巻より

安西先生が桜木花道のシュートの個人合宿をしたときに『下手糞の上級者への道のりは、己が下手さを知りて一歩目』という格言を言うシーンがとても印象に残っています。僕自身、今でも自分は下手糞だと思いますし、自分が平凡だということを知っているのがまず一歩目だというのをあの場面に重ねて、大事にしているシーンですね。
キャラクターはみんな好きすぎて一人選ぶことはできないんですけれど、あえて絞るとしたら流川か沢北。アメリカ志向で、有言実行していく感じだったり、負けず嫌いな感じが好きです。

© 井上雄彦 I.T.Planning,Inc.

■スラムダンク奨学金とは

『スラムダンク』の作者・井上雄彦の「この作品をここまで愛してくれた読者とバスケットボールというスポーツに、何かの形で恩返しがしたい」という志から始まり、高校卒業後、大学またはプロを目指しアメリカで競技を続ける意志と能力を持ちながら、経済的その他の理由でその夢をかなえられない若い選手を支援することで、その目的を果たそうと設立された。2008年から毎年、高校卒業見込み、またはそれに相当する学生を若干名選考し、現地でのセレクションを経てアメリカのプレップスクールに送り出している。これまでに15名が留学し、多くの選手がBリーグやアメリカの大学などで活躍している。

スラムダンク奨学金
主宰:井上雄彦、アイティープランニング有限会社、株式会社 集英社
協力:公益財団法人 日本バスケットボール協会

小林 良

こばやし・りょう
2000年1月8日生まれ、神奈川県出身。2012年、中学1年でジュニアオールスターの神奈川県選抜メンバーに選ばれ全国優勝。U14関東エンデバーにも選出され、3年時にはU16日本代表候補に。15年桐光学園に入学。2年生時にインターハイベスト8。18年スラムダンク奨学金第11期生として、セントトーマスモアスクールに入学。19年コネチカット州ブリッジポート大学に進学。ポイントガード、シューティングガード。185cm、85kg。

『PLUS/SLAM DUNK ILLUSTRATIONS 2』

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