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スラムダンク奨学生インタビュー #7
第2期生 谷口大智

[連載]

#7 第2期生 谷口大智

バスケットボールというスポーツにおいて、高さは絶対的な強みになる。幼少時から高さを武器に重宝されトップであり続けた谷口大智たにぐちだいち。しかし、武器は諸刃の剣でもあった。そして憧れの地・アメリカで待っていたのは、避けては通れない自己との格闘だった。

※用語解説は記事末に記載します。

聞き手・構成=伊藤 亮


撮影/伊藤 亮

ビッグ・ダイチの憂鬱

 人目が気になってしょうがない。それは性格でもあるし、思春期の入り口で経験したことが助長させたともいえる。
「もともとグイグイ前に出るタイプではなかったんです。それが取材で取り上げられ、メディアに出るにつれて、嬉しい反面、思春期だったので“他人にどう見られているんだろう?”と気になって……。いろんな話が耳に入ってきたりもしたので、あまり調子に乗りたくない、いろんな人に何か言われるのが怖いと思っていた時期がありました。それこそ魚住うおずみじゃないですけど」
『SLAM DUNK』で“ビッグ・ジュン”こと魚住じゆんが、
「デカいだけじゃんアイツ」
 という仲間の陰口を聞いてショックを受けるシーンがある。“ビッグ・ダイチ”と呼ばれていた谷口大智にとって、他人事ではなかった。
 小学6年生で191㎝。ミニバスではセンターで敵なしだった。当然目立つ。テレビで取り上げられ、一躍有名に。しかしテレビに出ると、家に見ず知らずの人から「あまり調子に乗るな」という電話がかかってきた。以来、新たな取材依頼は断るようになった。進学予定だった中学でも、入学前から「目を付けられている」という話が。そのこともあって、ミニバス仲間のいる別の中学校へ転校した。
 小学校、中学校と全国大会へ進出し、京都の洛南らくなん高校ではウインターカップ3連覇。ベスト5にも選ばれ、U15、U18と世代別代表でもプレー。代表チームではキャプテンを任されたこともある。強豪チームで常に中心選手—— 誰もが羨む栄光の数々。しかしその陰で“人目”は常について回ってきた。
「バカなところで真面目というか、そこまで考えすぎなくてもいいのに自分で自分を追い詰めてしまう。周囲は『気にすることじゃない』『もっといい部分を見てもらえるようにしていけよ』と言ってくれます。でもヘンなところを気にするというか、八方美人というか。みんなに好かれる自分を目指していたんですね」

『スラムダンク奨学金』第2期で選出された二人

 アメリカは、ずっと憧れだった。NBAのスター選手に憧れていたわけではない。
「バスケを本格的に始めたのが小学4年生の時。その時、親に『アメリカはトップ選手が集まるバスケの本場なんだ』とちらっと言われて。どうせやるならトップレベルでやってみたい、というシンプルな動機です。でも、そこからマインドが変わりました」
 実は、アメリカの高校進学を志して中学3年時に1カ月アメリカを巡っている。バスケ一家の谷口家、人脈は広い。父のつてでロサンゼルスの日本人の知り合いの家にホームステイし、同世代のアメリカ人選手とともに練習した。
「誘ってくれた現地の高校もあったんですけど、あまりにも英語が喋れなかったのと、バスケの基礎をもっと身につけないといけない、と大人たちが判断して。それでビッグ・マンを育てることが上手で、基礎をしっかり教えてくれる洛南に行こう、と決めました」
 この決断は正解だった。
「中学生になって、自分より能力の高い選手が出てきていたのは感じていました。全国レベルでは、背が高いだけでは通用しない。どうにかしたいけど、どうにもできなくて悩んでいました。その時、ただガムシャラではなく頭を使わないといけない、と教えてくれたのが洛南の恩師、吉田裕司よしだゆうじ先生と作本信夫雄さくもとのぶお先生でした」
 全国トップのチームで基礎をしっかり積み上げ、世代別代表に。そして、U18でともにプレーした並里成なみざとなりとが『スラムダンク奨学金』第1期生に選ばれたことを知り、「アメリカでプレーしたい」という目標への道筋が具体的に開けた。作本監督には「日本の大学でプレーした方がいいのでは」と言われたが、第2期の奨学生に自ら応募した。
「最終トライアウトではピックアップゲームをしたんですが、自分をはっきり出せたかというと納得いってなくて。帰国する時は“これはジミーに取られたかな”という感覚でした」
 ともに応募していた早川はやかわジミーは福岡第一高校。全国レベルの大会で何度も対戦し、代表チームでもいっしょだった。おちゃらけてはいるが、ことバスケットに関する熱心さは群を抜いている。だから彼に奨学生の座を取られることも覚悟していた。が、結果は二人とも合格。心強い戦友とともに希望の地・アメリカでプレーするチャンスを得た。
「でもまあ、どん底からのスタートでした」
 期待に胸を膨らませサウスケントスクールの門をくぐったとたんに、谷口はコーチからショッキングな一言を突き付けられる。
「初日にコーチ・ジェフから『お前はセンターでは出られない』と言われて。練習でもピックアップゲームでも僕とジミーだけ最後に残る。仲間外れにされるんです。当然開幕戦もプレータイムは0。試合に出られない苦しみを初めて味わいました」

自らに課した我慢

 アメリカに来ていきなりセンター失格の烙印を押されたことは、意外にすんなり受け入れられた。
「日本でも外国人留学生がセンターを務める高校はありましたし、当時の実業団でもインサイド(※1)は外国人の選手が多くて。日本人のインサイドの選手の需要ってどうなんだろう、とはもともと考えていたことでした。それに変にプライドがあると足枷あしかせになる、とはずっと思っていて。プライドを持っている選手は当然リスペクトしますが、当時学生の僕がそんなものを持っている場合じゃない。もっと上手うまくなるために来たのだから、と切り換えました」
 人目を気にすることで、あまり調子に乗っていると思われたくない。この深層心理からくる謙虚さがここでは吉と出たか。しかし—— 。
「ジミーはジミーで悩んでいるから、一人で悩まなきゃ、自分で解決策を見つけなきゃ、とヘンにこだわってました」
 問題を自分で抱え込んでしまう習性が、この先自身を苦しめることになる。
 たしかに、日本では際立っていた高さもアメリカでは埋もれてしまう。他のビッグ・マンとの違いを見出みいだそうと考え抜いた結果導き出したのは、「シュートレンジ(※2)を広げる」ことだった。入学後まもなく訪れることになるサマースクールでは、受け入れ先の大学で練習参加を直訴。自由に使えるウエイトルームでは先輩・並里直伝の「めちゃめちゃキツい」メニューで身体からだをいじめ抜いた。時間があればまず練習した。
 センターとしてゴール下に君臨し続けてきた谷口にとって、シュートレンジを広げる=アウトサイド(※3)からのシュートの修得はほぼ0からのスタートになる。
「いきなり打てるものではないんです。スリーポイントシュートなんて練習でも届かなかったですね。1年かけてミドルレンジ(※4)でロングツー(※5)まで打てるようになるのが精一杯でした」


練習に明け暮れた体育館。気晴らしに日本人留学生たちと夜に忍び込み、鬼ごっこをしていたという意外なエピソードも。撮影/宮地陽子

 ここで「打つ」とは、ただのシュートではない。シュートを「決める」までを含めて「打つ」だ。
「決めて当たり前、というマインドでないとなめられるんですよ。所詮相手じゃないから好きにしていいよ、みたいな態度をとられていたので。そこでインサイドを攻めると『あらよ』って感じで簡単にブロックされる。さらにアウトサイドでボールを持つと、『いいよ、そこから打ってみろよ。外したのをリバウンド(※6)で取るから』って、小ばかにした空気が生まれる。こっちからすると、その空気感がすごく悔しくて。だから、わざとマークを外された時のミドルレンジのシュートは絶対決め切ってやる、決め切らなきゃいけないと」

 必死だった。なのに、結果は空回りするばかり。日本では自分の思い通りになることの方が多かったのに、全く逆の状況に陥ったアメリカでギャップに苦しんだ。
 当時を思い出すと、全てが「我慢」という言葉に集約される。
「思い通りにならないことだらけのなかで、自分では変えられないこともある。価値観や、自分と周囲の認識の差はどうしようもない。コーチに『こんなに頑張ってる俺をなんで使わないんだ』と言ったところで何も変わらない。ぐっとこらえて結果を出すしかない。学校生活もそうです。英語が分からないからって、投げやりになっても何も変わらない。先生の話を聞き続けながら、分からないことと向き合う。耐えて、地道にちゃんとステップを踏んでいくしかない。もちろん楽はしたいけどできない。我慢するしか選択肢はなかったんです」
 英語も難しかった。トイレへ行くにも翻訳機を携行するほど心細かった。目標とするディビジョン1(D1)の大学へ行くためにTOEFLを受けるも、コンピュータが話す出題の内容がまず聞き取れない。最終問題で2択が出たのでとりあえず「No」と答えたら最終スコアを表示するかどうかの質問だったらしく、点数が分からないまま試験を終えたこともあった。今では笑い話だが、当時は何をすべきかすら分からなかった。その不安たるや、察するに余りある。


コーチの子どもたちと。校内にはコーチの住宅もあり、子どもたちとの戯れが憩いだった。よく谷口の部屋まで訪ねてきたとか。撮影/スラムダンク奨学金事務局

「心が折れてしまうことは何度もありましたね。ルームメイトにばれないように何度も泣いてましたし」
 寮では1年間、ラニー・マックという陽気なルームメイトに助けられた。腕にスコーピオンのタトゥーを入れているいかつい外見とは裏腹に優しかった。練習で不調な時や試合に出られなかった時は、かたわらに来て肩を叩き、いつも「You can do it.」と励ましてくれた。
「でも女々しいと思われるのが嫌で涙は見せませんでした。だから彼がシャワーに出た時とかに泣いてましたね」
 曰く、サウスケントスクールの寮は「『アルプスの少女ハイジ』に出てくるような山の斜面にポツポツと点在している」。本来は家族や友だち、そして子どもたちとたわむれることが好きな仲間思いの谷口にとって、孤独を深める環境は己を追い詰める性格も重なり悩みをより複雑にしていった。

アメリカ生活最初で最後の事件

「当時は悩みすぎて食事ものどを通らないことがありました。壁にぶち当たるたびに、周期的に悩みに襲われる。僕は結構顔に出る方なので、へこみすぎると『大丈夫?』と本気で心配されてました」
 後述するが、谷口は『スラムダンク奨学金』以後も5年、計6年アメリカで生活した。なかでも「特に苦労した」のが最初の1年間だったという。
 英語や文化にまだなじめない状態で、人付き合いもままならない。加えて人目を気にして自分を表に出すことに対し消極的だったことで、自ら状況を難しくさせた。
 限界だった。その発露として「6年間アメリカにいて最初で最後」の出来事を引き起こす。
『スラムダンク奨学金』奨学生は、みな「アジア人」という言葉をよく使う。「日本人」ではなく「アジア人」。現地の学生からすると日本、中国、韓国かんこく台湾タイワン、どの留学生の顔も見分けがつかないので「アジア人」と一括りにされるからだ。そして一線を引かれる。一方で、アジア人はアジア人のなかで事情がある。
「僕が留学してた時は、アジア人のなかでも中国人が多く、プライドが高く気の強いやつが多かったんです。それで学校が休みの時、帰るところがない僕ら留学組はフィールドトリップでバスに乗って公園へ行くことになったんです。先生たちがバスケットボールやバドミントンの道具などを持ってきてくれて。すごく楽しかったんですけど、その帰りにテンションの上がった中国人がボールでふざけだして。いきなり僕にぶつけてきたんです」
 何を言っているのかは分からないが、どうやら谷口が先に中国人へボールをぶつけたと、ありもしない因縁をふっかけてきたことは察知した。精神的に追い込まれるなか、つかの間の憩いを味わったばかりというタイミングも悪かった。さらに、アジア人の間で威張っている彼らの態度が普段から気に入らなかったのもある。しかもぶつけてきたのは、あろうことかバスケットボール。谷口のなかで何かが弾けた。
「バスは先生が運転しているので事を荒立てられない。それで『おまえ、バス降りたらおぼえとけよ』とだけ言って。到着してみんなで寮の談話室に入っていく時に、バスが去ったのを確認した瞬間にそいつを引き倒して。馬乗りになって関西弁で『きさま、なにさらしとんじゃこらあ!!』って。焦ったジミーに引き離されました」
 以後、中国人が二度とちょっかいを出してこなくなったのは言うまでもない。
「普段なら絶対しない。気持ちに余裕がなかったんでしょう。いろんなものが一気に爆発したといいますか。僕は怒るイメージを持たれていないから、あまりこの話はしないですし、話しても『噓だ』と言われるんですけどね」
 アメリカ生活6年でキレたのはこの一度だけ。つまり、この時期が最も精神的に追い込まれていたということだ。ただ、「逃げ出したい」と思ったことは一度もない。けず、逃げず、どんなにネガティブになろうと、徹底的に「自分と対話」を続けた。
「何か言い訳が浮かんだ時は、そのたびに『なんでここに来た?』と自問するようになりました。きっかけは日本で大学生になった仲間のSNSを見たことで。みんなすごく楽しんでる。“楽しそうだな”“いいな”と思う自分がいる。その時に『なんで自分はこっちに来たんだ?』と。バスケットを上達させるためにアメリカに来た。であれば、そのためにすべきことを最優先にしろ、と言い聞かせるようになりました」
 それでも心が折れそうな時は、文章にしていましめた。パソコンで綴った日記のデータは、今はない。だが、途中から覚悟を公開して「有言実行」するために始めたブログには、当時の心境の一部が残っている。

耐え忍んで果たしたブレークスルー

 報われるかは分からない、でも続けるしかなかった努力。目に見えるスピードではなかったかもしれない。しかし実力は地道に、そして着実に培われていた。
「わざとマークを外された際のミドルシュートは絶対決める。その意識を持ち続けた結果、残り時間わずかのなか途中出場して、本当に決め切れた試合がありました。そこからジェフの評価が少しずつ変わっていって。スタメンのパワーフォワードがケガしたタイミングもありましたけど、スタメンで起用されるようになって。やっと持ち味を出してスタメンの奴らと同等に戦えるようになりました。ただ、とにかく必死だったので勝ち取った実感なんてなかったんですが」


チームでは愛すべきいじられキャラ。留学時の詳細をおもしろおかしく語れるのも、数々の苦しみを乗り越えられた今だからこそだ。撮影/伊藤 亮

 サウスケントスクールでの1年で、何かを成し遂げた感触までは正直得られなかった。そして、まだ足りない何かを求めるように、谷口とジミーは奨学金事務局の協力を得て大学に売り込み、2年制のアリゾナウエスタン大学に進む。そして谷口はさらにその後、ジミーと別れて単身4年制のサウスイースタンオクラホマ州立大学へ進学した。
『スラムダンク奨学金』初となるアメリカの4年制大学への進学。しかもサウスイースタンオクラホマ州立大学は、NBAのシカゴ・ブルズで黄金期の中心選手だったデニス・ロッドマンの母校である。ただし、奨学生としてではなくアリゾナウエスタン大のコーチのつてもあっての、自費での進学だった。
 アリゾナウエスタン大2年時には主力としてリーグ優勝に貢献したかと思えば、サウスイースタン大では練習生からのスタート。浮き沈みが激しくなった。それでも避けず、逃げず、自分と真正面から向き合うことを意地でもやめなかった。そして—— 。
「サウスイースタン大で日本人一人になってから、英語のレベルが一気に上がりましたね。最終学年では全額免除の奨学金をもらえました。学食でバイトをしてたんですが、3年間下っ端の皿洗いだったのが、シフトリーダーに昇格して。卒業1週間前に、サンディっていうボスのおばさんに『正社員にならないか?』と真剣に誘われたのをよく憶えています」
 サウスケントではミドルレンジから打つのが精一杯だったシュートも、その後スリーポイントシュートが打てるように。シュート力をかわれて、スモールフォワードやシューティングガードのポジションも任されるまでになった。
 時間をかけて、ゆっくり、一歩ずつ。6年かけて果たしたブレークスルー。決して芯の強い人間でないことは自覚している。辛かったことを挙げればきりがない。でも、乗り越えられたのはなぜか。
「めちゃめちゃしんどい。苦しい。痛い。でもそれもひっくるめた大前提として、バスケが楽しかったです」
 両親は高校バスケット部のヘッドコーチ。弟は現役プロ選手。妹も高校時代はウインターカップに出場。バスケ一家にあって、2歳の頃から遊び場は体育館だった。弟と妹もミニバスを始めると、両親が教えるチームと合同練習をさせてもらった。一番の思い出は、練習後の両親対子ども、2対3の家族ゲーム。子どもチームが勝てば帰りにアイスクリームを買ってもらえる約束だった。
「本気で挑むんですけど、親には勝てませんでしたね」
 懐かしそうに笑う顔には、本来の優しさが溢れている。子どもの頃から生活の中心にあったバスケット。人生と伴走してきたバスケット。一切揺らぐことのなかったバスケットへの想い。谷口大智がギリギリで踏みとどまれた理由はここにある。

自分は自分

 最終学年で負傷した右肘のこともあり、サウスイースタン大卒業後帰国した谷口は、秋田ノーザンハピネッツ(当時bjリーグ)に入団。その後、2019-20シーズンからB2リーグの広島ドラゴンフライズに移籍しリーグ昇格に貢献。2020-21シーズンからは、同チームで国内最高峰のB1リーグを舞台にプレーする。インサイドだけでなくアウトサイドからスリーポイントシュートを決める姿は、身長201㎝の日本人ビッグ・マンには稀有けうなプレースタイルだ。
「サウスケントでの1年間は、自分のプレースタイルを確立させる試練を与えてくれました。僕のバスケ人生のなかでは確実な変化をもたらした1年です」
 でも、まだ満足はしていない。
「今はパワーフォワードです。悩みは尽きなくて、ポジションの幅は得たものの、逆にインサイドに関して現状ではプロレベルで通用しないと思っていて。また変わっていかないといけないかなと。外からも打てるし、内でも点を取れるところを目指しています。まだまだ伸びしろはありますよ」
「チームに必要とされる選手でありたい」と考える30歳は、まだまだ成長を志す。以前同様、周囲の期待に応えたい。しかし以前とは違い、人目を気にする自分はもういない。
「高校までは周りにどう思われているのか、すごく気にしていた自分がいました。でも『スラムダンク奨学金』で留学して、自分との対話を続けた結果、今の自分の立ち位置やレベルを客観視できるようになりました。そして“周囲が何を言おうが自分は自分”と思えるようになった。いまだに感情が入りすぎると客観視できなくなる場合もありますが、いったん落ち着いて考えるように心がけてます」
 周囲に求められて合わせるのではない。自分から動いて周囲に応えたい。
「自分のバスケットの可能性を伸ばせる5~6年にしたいですね」
 客観的に見て、現役はあと5~6年と踏んでいる。一方、自分次第でどこまでも成長を続けられると信じている。アメリカでの自分がそうであったように。その意志を示すかのように、サウスケントでもらった背番号55を今に至るまでずっとつけ続けている。

文中敬称略

■用語解説
※1 インサイド: ゴール下のエリア。
※2 シュートレンジ: シュートを打てる範囲のこと。
※3 アウトサイド: ゴールから離れたエリア。主にスリーポイントライン付近。
※4 ミドルレンジ: スリーポイントラインより内側でゴール下のペイントエリアよりも外側のエリア。
※5 ロングツー: 距離の長い2ポイントシュートのこと。
※6 リバウンド: シュートが外れリングやボードに当たって跳ね返ってくること。

COLUMN
♯7 谷口大智

「SLAM DUNK」で
好きなキャラクター、シーンは?


『SLAM DUNK 新装再編版』9巻より

アメリカに行って好きになったのは、海南大附属バスケット部に神宗一郎が入部して、センターからシューターになったエピソードです。高頭先生にも期待されないなか、きれいなシュートフォームを磨いて、No.1のスリーポイントシューターになる。そこまでの努力に、すごく共感するものがあります。高校までは読んでいても流していたのが、留学して帰国したタイミングで読み直したら目に留まって。『SLAM DUNK』はいつ読むかで心に残るシーンは変わるんですね。

© 井上雄彦 I.T.Planning,Inc.

■スラムダンク奨学金とは

『スラムダンク』の作者・井上雄彦の「この作品をここまで愛してくれた読者とバスケットボールというスポーツに、何かの形で恩返しがしたい」という志から始まり、高校卒業後、大学またはプロを目指しアメリカで競技を続ける意志と能力を持ちながら、経済的その他の理由でその夢をかなえられない若い選手を支援することで、その目的を果たそうと設立された。2008年から毎年、高校卒業見込み、またはそれに相当する学生を若干名選考し、現地でのセレクションを経てアメリカのプレップスクールに送り出している。これまでに15名が留学し、多くの選手がBリーグやアメリカの大学などで活躍している。

スラムダンク奨学金
主宰:井上雄彦、アイティープランニング有限会社、株式会社 集英社
協力:公益財団法人 日本バスケットボール協会

谷口大智

たにぐち・だいち
1990年4月15日生まれ、奈良県出身。2006年洛南高等学校に入学し、ウインターカップ3連覇を達成。この間にU15、U18日本代表にも選出される。卒業後、スラムダンク奨学金2期生としてサウスケントスクールに入学。10年、2年制のアリゾナウエスタン大学を経て4年制のサウスイースタンオクラホマ州立大学に進学。卒業後、15年に秋田ノーザンハピネッツ(bjリーグ/Bリーグ)に所属。19年より広島ドラゴンフライズ(Bリーグ)に。センター、パワーフォワード。201cm、105kg。

『PLUS/SLAM DUNK ILLUSTRATIONS 2』

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