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スラムダンク奨学生インタビュー #4
第10期生 鍵冨太雅

[連載]

#4 第10期生 鍵冨太雅

ニューヨークの競争社会で育ちながら、人と競うより調和を好み、何でもできる才能を持ちながら、すべてに物足りないと悩む。日本とアメリカの二つの文化の間で揺れる鍵冨太雅かぎとみたいがにとって、『スラムダンク奨学金』での留学は自分の原点への回帰だった。

※用語解説は記事末に記載します。

聞き手・構成=宮地陽子


撮影/宮地陽子

バスケットボールの原体験はニューヨークで

「やっと戻れる」
『スラムダンク奨学金』第10期生の合格通知を受け取ったとき、鍵冨太雅は、ほっと安堵あんどしたという。
 歴代のスラムダンク奨学生にとって、合格通知は新しい世界への扉を開いた瞬間だったが、鍵冨の場合は少し違った。人生の新しいチャプターの始まりでもあったが、それだけではなく、自分の居場所であるアメリカの東海岸に戻ることができる機会だった。
 元々、奨学金の合否にかかわらず、日本の大学に進むことは選択肢になかった。アメリカに「戻りたかった」のだ。それに、奨学金に合格する自信もあったという。何と言っても言葉の壁がなく、英語で現地のコーチやチームメイトと問題なくコミュニケーションをとることができる。
「ようやく戻れるんだなって安心感と同時に、ここから始まるみたいな、スタートを切ったような気持ちにもなりました」
 鍵冨にとって、人生の、そしてバスケットボールの原体験はニューヨークにあった。商社勤務の父の転勤に伴い、4歳から11歳までニューヨーク郊外に暮らしていたのだ。ニューヨークに引っ越して間もなく、近くの公園で父に教わりながらシュートをしたのが、記憶にある最初のバスケットボールの思い出だった。父、鍵冨善宏よしひろは元JBL(日本リーグ)丸紅まるべにトレーダーズの選手で、バスケットボールはいつも近くにあった。
 6歳の頃にバスケットゴールを買ってもらい、家の前で好きなときにシュートを打てるようになると、どんどんバスケットボールに夢中になっていった。
「まわりの友達はいろんな好きなスポーツを楽しんだりしていたなかで、自分はバスケが飛び抜けて好きだったんです」
 毎日午後、学校から帰ってくると家の前でシュートを打ち、父親が帰宅するといっしょに練習。そんな毎日だった。父に連れられてレッスンや子ども向けのバスケキャンプにも行き、基礎を教わった。8歳の頃に地元のAAUチーム(クラブチーム)に入り、チームでプレーする楽しさを知った。9歳になるとマンハッタンのハーレムにある強豪AAUチーム、リバーサイド・ホークスのトライアウトを受けた。ハーレムの教会の地下と横にある暗いコート── 子ども心にも、あまり治安がよくない場所だというのは感じたという。ほかにアジア人は誰もいなかった。


リバーサイドでプレーしていた頃の鍵冨少年(23番)。後のセントトーマスモア留学時に再会し、対戦した選手も。撮影/鍵冨雅紀

 それでも、自分の力を試してみたいという気持ちのほうが強かった。
「自分がどこまでできるかっていうのを試したかった。当時は“シティ”に出ないとなかなか強いチームは見つからなかったんで」
“シティ”とはマンハッタンのこと。リバーサイドは、“シティ”の中でもトップクラスのチームだった。
 トライアウトを受けた数十人の中から、合格したのはわずか3人。年齢別のチームで、募集していたのは抜けた選手の補充だったのだ。そして、その3人の中に鍵冨も入っていた。年齢にしては長身で、まわりの選手よりも基礎ができていたところが認められたようだった。
 入った後に知ったことだが、リバーサイドは過去にはエルトン・ブランド(※1)やロン・アーテスト(※2)、ラマー・オドム(※3)など、当時ちょうどNBAで活躍していたスター選手たちを何人も輩出していた。NBAにあこがれていた少年にとって、これ以上刺激的な場所はなかった。
「リバーサイドに入ったことはすごいことだったと思います。普通の親だったら、ハーレムのような怖い地域への送り迎えもできないじゃないですか。親のおかげで、普通の日本人ができないような経験をしているなぁと思っていました」
 それからは、平日2回の練習に土日の試合と、バスケ漬けになった。リバーサイドに入って2年目には地元のクラブと掛けもちするようになり、ほぼ毎日バスケットボールの生活になった。アメリカのバスケットボール文化にどっぷりつかっていた。
 そんな生活が突然終わりを迎えたのは11歳のとき。帰国することになったのだ。本音を言うと帰りたくなかったが、小学生では親について帰るしかなかった。

『スラムダンク』を読んで

 中学は渋谷教育学園渋谷中学校、通称渋渋しぶしぶに進学した。帰国生が多く、専用のクラスがあり、アメリカ育ちにとっては居心地がよかった。外国人の先生のもとで外国文学のクラスを受けるなど、学業面で厳しく叩き込まれた。ここで勉強する習慣が身についたことが、後の進路に影響したことは間違いない。
 ただ、厳しい中学受験を経て入ってきていたチームメイトのほとんどが勉強を最優先にしていて、バスケに対して夢や野心を持っていなくて、バスケ部も弱かった。リバーサイドでは、チームメイトはみな、NCAA(全米大学体育協会)の強豪大に行きNBAに入るという夢を持っていて、実際、後に夢を実現したメンバーもいた。鍵冨自身も名門デューク大からNBA入りを夢見ていた。しかし、渋渋ではプロ選手を夢見る生徒はいなかった。
「割とショックでしたね。それまでアメリカで、全国大会の優勝を目指すようなチームでしかバスケをしたことがなかったので、『それなら、みんなは何のためにバスケやっているんだろう』と思いました」
 チームでは絶対的なエースだった。しかし、それまで区大会を突破したことがなかったチームを都大会出場まで引っ張り上げるのがやっとで、全国大会出場どころではなかった。
 そんななかで、忘れられない試合がある。3年の最後の大会となった都大会1回戦で、当時東京では強豪といわれていた中学と対戦し、一人で約40得点をあげる大活躍でチームを勝利に導いた。チームの総得点は60点ぐらいだったというから、一人で3分の2の得点をあげたことになる。いわゆる“ゾーンに入った状態”だった。
「あの試合は自分でも何か神がかっていて。自分の身体からだを動かしている感じがなくて、テレビゲームみたいだった。面白いぐらいにすべてうまくいって、あんな試合は初めてでした」
 以降、同じ感覚でプレー出来たことはまだないものの、その感覚はいまだに覚えている。それくらい強烈な印象だった。
 鍵冨は当初、高校からアメリカに戻りたいと思っていた。しかし、それをひるがえし、全国大会常連の福岡大学附属大濠おおほり高校に進学することを決めた。その理由の一つに『スラムダンク』があった。日本に帰国してから夢中になって読んだ『スラムダンク』の世界にかれ、自分でも経験してみたかったのだ。
「『スラムダンク』を読んで、日本の高校バスケにすごい憧れを感じていました」
 アメリカにはなかったような先輩、後輩の序列など、戸惑うことも多かったが、ウインターカップやインターハイに出ることができたのは楽しかった。全国大会に出るチームに行ったことで、年代別の日本代表にも選ばれるようになった。U16代表、U18代表でアジア選手権を戦った。高校卒業後にはU19代表のメンバーとして、八村塁はちむらるいらと共に世界を相手に戦い、日本男子代表として過去最高となる世界10位の成績をあげた。
 それだけ輝かしい実績をあげながら、本人は、当時を振り返っていたって冷静に自分を見つめ、分析する。
「高校のときはあらゆるところでリズムをつかみきれないというか、心残りがあるというか。全体的にいいレジュメの中で、少しずつ大事なところが欠けているというか……。自分の代では全国大会の2回戦で負けてしまったり。代表でもあまりプレータイムが長くなかったり。ところどころで自分にとって悔しい場面があって」


スラムダンク奨学金の留学中にU19日本代表として、エジプトで行われた世界大会に出場した。撮影/宮地陽子

 高校時代で一番思い出に残っている試合を尋ねると、高校最後となった試合をあげた。ウインターカップ2回戦の対北陸戦。前半は10点ほどリードしていたのに、逆転されて負けた試合だ。
「もっとリーダーシップを発揮して、最後の勝負どころで欲を出してやっていけたら、もしかしたら勝てたのかな。気づいたら負けていたっていう感じで……」
 この頃から、「自信」は課題だった。自信がなくて、積極的なプレーができず、中途半端に終わってしまう。
「性格もあるかもしれない。積極的にやるって、けっこう簡単に聞こえるかもしれないんですけれど、自分にとっては一番の課題。性格的に平和主義というか、人と争ったりというのがあまり好きじゃなくて、割と平和にやっていきたい人なんで。そういう、ガツガツしなきゃいけないときにできないのかもしれないですね」
 小学生の頃から、アメリカの競争社会の中でプレーしてきたとは思えない言葉だ。
 だからといって、夢や野心がないわけでもない。自分の目標のための努力は惜しまなかった。まわりに流されない芯の強さもある。
 たとえば、部活の練習が大変ななかでも、アメリカの大学に進学するための勉強は欠かさなかった。練習に多くの時間がとられるため、まずは授業に集中し、メモの取り方をくふうして、少しでもあいた時間には暗記をしたりしていた。移動のバスの中も大事な勉強時間だった。
「チームメイトといっしょに遊びに行くことも魅力的でしたけれど、そもそも、彼らとは目標が違う。自分はアメリカの大学に行きたかったので、そのためには授業で扱わないような内容のSAT(アメリカの大学に進学するための標準試験)を受けて大学に入らなきゃいけないというのを意識するようになって。何が大事なのかとか、優先すること、選択をさらに考えるようになりましたね」
 勉強に限らず、いつでもそうだった。目の前のことだけに専念するのではなく、先のことを考え、準備する。
「近い将来の自分がハッピーな状態でいたいじゃないですか。満足していたいので、後悔がないように色々やっておきたいなと思って」

チームの接着剤的な存在

 セントトーマスモア(STM)は、日本の高校とは全く違う世界だった。
 トライアウトのときから驚かされた。当時のチームにいたオマリ・スペルマン(現NBAミネソタ・ティンバーウルブズ)といっしょにピックアップゲームをしたのだが、それまで同じコートに立った選手の中でも別格だった。
「めちゃくちゃでかくて、速くて、ハンドルもすごくうまい。こんな選手とやるんだ、みたいな。日本の高校バスケとここじゃ、またさらにレベルが違うんだなと思ってびっくりしました。自分が1年後、ここに戻ってきてプレーできるのか、不安になりました」
 不安になったのは、トライアウトのときだけではなかった。STM時代を振り返ると、一番に浮かんでくるのは、足元が浮いたような気持ちだという。それは、自信のなさの表れだったと分析する。
「STMというと、試合に出たときに足元が浮いていたというか。そういう気持ちを思い出しますね。たとえば、自分に自信があるときや、いいプレーができそうだと思えるときって、床をしっかり踏みつけて、思い切って蹴れる。スピードにも乗りやすい。STMを思い出すと、自分にはそういう感覚が足りなかったのかなって、振り返って思います。やっぱり少し自信がなかったのかな」
 STMでのシーズン序盤、特に自信を失っていたときがあった。シーズン序盤2試合で、先発として出ていたのにもかかわらず、相手選手のアグレッシブなプレーに怖気おじけづき、ターンオーバー(※4)やシュートミスを連発。そこから後ろ向きになってしまったのだ。
「自分がそれまでやってきたことを疑って、自分を信じられなくなったことがあった。ジェリー・クインコーチが、『大丈夫だ。お前はできるから心配するな』って、何回も声をかけてくれて」
 そこから毎日、努力を重ねた。早朝6時からシュート練習をし、シュートフォームの改善にも取り組んだ。コーチからディフェンスを評価されていたこともあり、チーム練習ではディフェンスに力を入れ、そこからオフェンスにつなげるようにした。身体能力でかなわない相手に対して、頭を使い、タイミングを考えたプレーをすることで対抗しようとした。
「筋トレしないのに、ものすごいダンクをするようなやつには、身体能力の面ではかなわない。フェイクを使うタイミングだとか、フォーメーションの中でスクリーン(※5)をガチッとかけることや、相手のスクリーンに対する対応を見て次の行動を考えたり、味方のスペースをあけるために自分がどう動けばいいのかを考えてプレーした。そういったところでは絶対に他の選手には負けたくなかった。そこがいずれ、自分の中での一番の強みになっていけばいいかなと思ってます」
 そんな鍵冨を、クインコーチは「チームの接着剤的な存在」と評価していた。無理なプレーをすることなく、自滅することもない。自信をなくしがちなことについても、「不安になるということは、それだけうまくやりたいと思っているということだからね。悪いことではない」と強調した。
 STMに入ったときに目指していたのはアイビーリーグ所属の大学に進学することだった。学力のレベルが高く、バスケットボールでもNCAAディビジョンⅠ(※6)で戦うことができる。文武両道で頂点を体験したかった。子どもの頃の夢だった強豪デューク大に代わる新たな目標となった。
 これも、ニューヨークにいたときの原体験からきていた。リバーサイドの練習に通っていた頃、そこからほど近くにアイビーリーグ所属のコロンビア大のキャンパスがあった。そして、その頃ちょうど、コロンビア大のチームで一人の日本人選手がプレーしていた。現京都ハンナリーズの松井啓十郎まついけいじゆうろうだ。リバーサイドでの練習の帰りに何度か試合を見に行き、「こういうチームでやるのも悪くないな」と思うようになった。
 STMで進学先を探していたときに、コロンビア大のアシスタントコーチから声をかけられたこともあった。
「でもリクルートのプロセスってけっこう大変で、残酷で。巡り合わせだったり、早い段階から地元の選手には声をかけていて、先に決まった子がいると連絡がこなくなるとか、そういう厳しい世界だった。実力がちょっと足りなかったのもあると思うけど、アメリカでの活動がSTMの1年だけだとタイミングだとかアピール不足もあって、結局、その話はなくなっちゃって……」
 その後、一般生徒としてコロンビア大とダートマス大に応募したが、入学には至らなかった。
 そこで次に選択肢として考えていたのが、NCAAディビジョンⅢの中でも、学業の高いレベルの学校が集まっているNESCAC(ニュー・イングランド・スモールカレッジ・アスレチック・カンファレンス)の大学。ディビジョンⅠのような大規模校ではないが、学業面ではアイビーリーグと変わらないレベルで学ぶことができる。むしろ、大学の規模が小さい分、教授とのコミュニケーションが取りやすいというメリットがあった。バスケットボールにおいても、ディビジョンⅢの中では最もレベルの高いカンファレンス(※7)だと言われている。結局、夏のショウケースキャンプで鍵冨のプレーを見てくれたヘッドコーチから最も熱心に勧誘されたこともあり、NESCAC所属のボウディン大を進学先に選んだ。
「バスケでは1年からローテーションに入り、2年からはスタート(先発)に定着してガードとして経験を積めているし、バスケ以外の生活でも良い友人や教授陣にも恵まれて充実しているので、結果的に、よかったと思います」と、今ではボウディン大での環境に満足している。

完璧なこれだっていう選択肢が自分にはない

 鍵冨の試合を見ていたとき、どのプレーもそれなりのレベルでできる彼は、ときに、何をしたらいいのか迷っているように見えることがあった。アメリカでは平均的とはいえ、それなりの身長がある。オールラウンドにスキルを持っていて、大きな欠点もない。その一方で、勝負どころで使う武器が何なのか、まだ見つけられていないようだった。
 実は、鍵冨は人生のうえでも、それと同じことを感じ、悩んでいた。
「バスケではD1(ディビジョンⅠ)に行ったわけでもないし、勉強でもハーバードに行ったわけじゃない。すべてにおいて、自分の中で物足りなさを感じるんですよね。そこが皮肉なんですよね。総合的に見ればいいと思うんですけれど、『だから何?』って思っちゃうんですよ」
 今の自分に満足していない。まわりから褒められても嬉しくない。それは、クインコーチが言っていたように、もっと上を目指している証拠であり、悪いことではない。それでも、そんなことを考えると不安になる。
「たとえば就職だったら成績で競争するし、バスケでプロになるんだったら、バスケだけの実績で競争するじゃないですか。そうなると、今の自分はどっちつかずで、どちらの道だったら成功出来るんだろうって不安しか浮かんでこないんですよ。それで、自分が嫌になっちゃって」
 もっとも、最近になって、少し考え方が変わってきた面もあるという。
 きっかけとなったのが、今年の年明け、大学の試合中に腰から落下したこと。落ち方によっては大きな故障になった可能性もあった。しかし、実際には1週間ほどで痛みもなくなり、1試合欠場しただけで、翌週の試合から復帰することができた。
「前は、こんな大変な道のりを歩んできているのに、まわりからは楽をしてここまで来たって思われがちと、マイナスな方面から自分をとらえていた。でも、故障してから振り返ってみて、自分って意外とラッキーなんだなって思うようになった。自分一人でここに来たわけじゃなく、いろんなサポートがあって来ることができたと気づくことができました」


日常生活は右利きだが、バスケでは初めてシュートしたときから左で打ち、気づいたら左利きに。撮影/宮地陽子

 それでも、悩んだり、迷う種は色々とある。たとえば最近は、将来何をしたいのかわからなくて、考え込んでしまうという。
「情熱がないとかじゃないんですよ。できることがたくさんあると自分では思っていて。なので、何が正しいのか、何を選んでいいのかがわからない」と、これまた冷静に分析する。「Bリーグでバスケのプロ選手を目指すのか、大学院に行くのか。今、数学を勉強しているんですけれど銀行に行くのか、あるいは少し働いてからMBA(経営学修士)を取るのか。バスケの分析や戦術も好きで、そういうのを勉強したいのか。すごい悩みどころですね。たとえば、アメリカで銀行に就職するならバスケは諦めることになりますし、日本でBリーグに入ったら、その後アメリカに戻ってきてそういう仕事に就くのもさらに大変になるだろうし。日本に住むのはちょっと息苦しい。でも、バスケはしたい。完璧なこれだっていう選択肢が自分にはなくて、悩みどころですね」
 人間は誰しも、悩みを抱えて生きている。それを隠して強がる人もいれば、さらけ出して前に進む人もいる。考えないようにしてその日、その日を生きている人もいれば、ごまかすことなく正面から取り組む人もいる。
『スラムダンク奨学金』をきっかけに、アメリカに「戻った」男は、きょうもまた、明日のことを考えて悩んでいる。強がることもなく、ごまかすこともなく、明日の自分がきょうより成長できるように。

文中敬称略

■用語解説
※1 エルトン・ブランド:NBAロサンゼルス・クリッパーズなどで活躍。現在フィラデルフィア・セブンティシクサーズGM。
※2 ロン・アーテスト:NBAロサンゼルス・レイカーズなどで活躍。2011年にメッタ・ワールドピースに改名。現在の名前はメッタ・サンディフォード・アーテスト。
※3 ラマー・オドム:NBAロサンゼルス・レイカーズなどで活躍。
※4 ターンオーバー:ドリブルやパスの最中にボールを奪われたり、反則を犯すことにより攻撃権が相手に移ること。
※5 スクリーン:相手ディフェンスの進行方向に立って壁になることで動きを制限すること。ピックともいう。
※6 NCAAディビジョンⅠ:アメリカの大学バスケットボールで最高レベルのリーグ。D1ともいう。NCAAにはD1~D3があり、D1には353校が所属する。
※7 カンファレンス:ディビジョンに所属するいくつかのチームで構成されるリーグ。D1には32のカンファレンスがあり、1カンファレンスあたり8~15校でレギュラーシーズンを戦う。

COLUMN
#4 鍵冨太雅

「SLAM DUNK」で
好きなキャラクター、シーンは?


『SLAM DUNK 新装再編版』5巻より

「最初は桜木や流川に憧れていたんです。でも、高校の頃から自分が目指す選手像が変わっていって、視野が広くて、ポイントフォワード的に試合を支配する仙道に憧れるようになりました。自分もガードを目指してやっていたので。印象に残っているシーンは、バスケに関係ないんですけれど、三井寿が戻ってこようとしているときに体育館の中で喧嘩があったじゃないですか。『SLAMDUNK』を最初に読んだのはアメリカから帰国した小学校の終わり頃だったんですけれど、高校でヤンキーが喧嘩するっていうのが自分が見てきた世界とは違いすぎて、日本ではそんなことがあるんだって、びっくりしました」

© 井上雄彦 I.T.Planning,Inc.

■スラムダンク奨学金とは

『スラムダンク』の作者・井上雄彦の「この作品をここまで愛してくれた読者とバスケットボールというスポーツに、何かの形で恩返しがしたい」という志から始まり、高校卒業後、大学またはプロを目指しアメリカで競技を続ける意志と能力を持ちながら、経済的その他の理由でその夢をかなえられない若い選手を支援することで、その目的を果たそうと設立された。2008年から毎年、高校卒業見込み、またはそれに相当する学生を若干名選考し、現地でのセレクションを経てアメリカのプレップスクールに送り出している。これまでに14名が留学し、多くの選手がBリーグやアメリカの大学などで活躍している。

スラムダンク奨学金
主宰:井上雄彦、アイティープランニング有限会社、株式会社 集英社
協力:公益財団法人 日本バスケットボール協会

鍵冨太雅

かぎとみ・たいが
1999年3月8日生まれ。4歳から11歳までニューヨーク州で過ごす。ニューヨークのクラブチーム、リバーサイド・ホークスに入り、全国大会出場を果たす。2014年福岡大学附属大濠高校に入学。同年インターハイ優勝。ウインターカップ準優勝。15年よりU16、U18日本代表に選ばれ、U16ではキャプテンを務める。U19日本代表では世界選手権を戦い、世界10位を記録。17年スラムダンク奨学金でセントトーマスモア校入学。18年メイン州ボウディン大学に進学。シューティングガード。193cm、89kg。

『PLUS/SLAM DUNK ILLUSTRATIONS 2』

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