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スラムダンク奨学生インタビュー #3
第4期生 山崎稜

[連載]

#3 第4期生 山崎 稜

ギラギラの野心を隠さず、厳しい競争の中へがむしゃらに飛び込んでいく。それが若者らしい夢を追う姿だとすれば、この男は一線を画す。寡黙にして粛々しゆくしゆくと事を成す。自己主張が激しいアメリカの風土と対極的な性格の持ち主、山崎稜やまざきりよう。彼が辿った成長の軌跡とは。

※用語解説は記事末に記載します。

聞き手・構成=伊藤 亮


撮影/伊藤 亮

激しい競争社会の中の平和主義者

 物事の中心から一歩退いて後ろから全体を見る。幼い頃からそうだった。
「ミニバスの時も、選抜チームに呼ばれた時にコーチの話を後ろの方で聞いてたりとかして、よく両親に怒られてました。『もっと前に出て話を聞け』と。消極的というか、自分から行けないタイプでした」
 2019-20シーズン、所属するBリーグ1部の宇都宮ブレックスを取材させていただいた際も印象は大きく変わらない。練習時に座る椅子は一番端。円陣も最後方。発する声は必要最小限。しかし、だからといって緊張しているわけでもなければ孤立しているわけでもない。ゲーム練習でも効果的なプレーを随所に見せる。阿吽あうんの呼吸でのパスの受け渡しや、すれ違いざまにタッチする自然な流れからチームに溶け込んでいるのが伝わってくる。寡黙だが確実にチームの中にいる、不思議な存在感の持ち主だ。
「マイペースといいますか。かといって引っ込み思案というわけでもなければ委縮しているわけでもありません。今まで人付き合いが難しいと感じたことはないですね」
 自分のことを「平和主義者」と言い切る。プロスポーツの激しい競争社会に身を置きながら「どこかで平凡な日常を望んでいる」のだそうだ。
「これまでずっとそうなんですけど、怒ったりとかしないですね。沸点が全然ないんですよ」
『スラムダンク奨学金』第4期生の山崎稜。彼は、それまでに選出された3期生までとは明らかに異なるタイプの選手だった。

先輩に救われたトライアウト

 生粋のマイペース人間。だから、埼玉の昌平しようへい高校2年時に『スラムダンク奨学金』へ応募することになった時も、過度に期待することはなかった。
「恩師の畔川秀雄あぜかわひでおコーチのもとにパンフレットが届いたみたいで、僕に話を持ってきてくださったんです。当時、第1期生の並里なみざとなりと)さんの留学記事を専門誌で読んでいたので奨学金制度のことは知っていました。ただ、自分にとって現実的な話ではないな、というのがあり。並里さんも、第2期生の(谷口たにぐち大智だいちさんも(早川はやかわ)ジミーさんも国内トップクラスの選手でしたから、そういう人が選ばれるんだろうと。ただ、第3期生の(矢代やしろ雪次郎ゆきじろうさんは練習試合もした身近な存在だったので、自分にも少しだけチャンスはあるのかなと感じましたけど」
 無事書類選考を通過し、現地(サウスケントスクール)での最終トライアウトへ。必要以上にアピールする性格ではない山崎にとって、救いとなったのは先輩だ。
「僕がトライアウトに行った時は、まだ2期生、3期生の方々がいて、いっしょに交ざって5対5のゲームをしたんです。僕は外からのシュートが持ち味なのでそれを狙っていました。そしたら、たまたま同じチームになったジミーさんがめちゃめちゃパスをくれて。そこからのシュートが結構入ったんです。まぐれかどうか、打てば入る状態になって。だから手応えは感じていました。でも実際合格した時は驚きましたけどね。〝あ、マジか〞みたいな」
 もともと高校を卒業したら日本の大学へ進学するつもりだった。大学側からスカウトされることはなかったという。だからあわよくば指定校推薦で、無理なら一般受験で大学に入り、バスケットボールを続ける予定だった。それが、高校2年時でアメリカ行きが決まった。
「高校は自宅から通ってましたし、渡米して初めての寮生活など多少は不安もありました。でも、それよりワクワク感が上回っていたのを憶えていますね」
 ちなみに、高校を卒業して渡米したのは2011年3月下旬。日本は東日本大震災直後で、日常が日常でなくなっていた時期だ。もちろん世間の状況を目にして耳にもしていたが、急な不安に襲われるなど、動揺することはなかったという。

留学生活の方向性を決定づけた先輩のアドバイス

「僕が渡米した時、2期生の方はもういなかったのですが、3期生の雪次郎さんとは2カ月くらいいっしょだったので、本当に頼りっぱなしでした」
 山崎が、初めてのアメリカで生活をスムーズに始められたのは、改めて先輩の存在が大きかったという。『スラムダンク奨学金』の留学期間は14カ月。3月に入学し、翌年5月に卒業するのが一つの流れだ。つまり新期生は3月から5月の間の約2カ月間、前期生と生活が重なる。
「ずっと後ろについて『今、英語でなんて言ったんですか?』とか質問しまくってました。雪次郎さんと僕とではだいぶ性格が違います。彼は自分からぐいぐい話しかけて、練習の時も積極的に声をかけられる。僕にはそのぐいぐいさがない。実際、雪次郎さんがいなくなってからは一人でシューティングの練習しかしてないですし、自分から他の選手に話しかけて練習に付き合ってもらったこともありません」
 そうなることは分かっていたし、不安だった。だから先輩が去る前、正直にその思いをぶつけた。
「そうしたら『自分らしくやればいいんじゃない』と言われまして。『自分に合わないことを無理してやってもストレスになるだけだから』と。結局、チームメイトには最初に自分がどういう性格か伝えられなかったぶん時間はかかりましたが、徐々に感覚で理解して接してくれるようになりました。適度に距離を取ってくれたので、人間関係で苦になることはなかったです」
 サウスケントスクールへの留学は最終学年での編入になる。山崎の時は、最終学年の生徒は希望すれば寮の一人部屋をあてがってもらえるようになっていた。マイペースの彼にとっては、それも大きな助けになっただろう。さらに、バスケット以外の仲間の存在が孤独感を打ち消してくれた。
「学年は一つ下なのですが、日本から交換留学生が二人来ていました。彼らと日本語で会話していたので、孤独感はやわらぎましたね。あと、留学して2カ月くらいするとすぐ夏休みになるんですが、そこで台湾タイワンの子と仲良くなって。話し相手としてとても貴重でした」


留学当初、面倒を見てもらい心の支えになった第3期生の矢代雪次郎(左)と。 撮影/根本真吾

 チー・チェンという名の台湾からやってきた生徒は一般留学。お互い英語が不得意な間柄なら、逆に気兼ねなく話しやすいというもの。さらに食事面でも助けてもらったという。
「現地の食事は、ほぼジャンクフードなんですが、最初のうちは美味おいしく食べられたんです。でもメニューが約1週間でローテーションしていくのですぐ飽きてしまう。そこで彼がよくデリバリーで注文していたチャイニーズのボックス弁当を、僕も頼ませてもらっていました」

冷静に考え、無理なく遂げていった成長

 留学した当初は頼りになる先輩がいて、次に同じ日本人と出会い、さらに同じアジア圏の友人ができて……。無理なく、自然と居心地のよい環境が形作られていくのは、屈託のない人柄によるところも大きいだろう。スムーズな成長曲線は、学業、そしてバスケットにも通じていくことになる。
「アメリカでの英語は最初、全然分かりませんでした。返答もYesとNoばかりで」
 それまでも奨学生を苦しめていたのが英語の習得。そこで、奨学金事務局側もトライ&エラーを経て、新たな試みを始めていた。
「学校が夏休みになってからロードアイランド州の語学学校へ行ったことで、徐々に耳が慣れてきました。留学して間もない時期にネイティブでない生徒たちだけで集まって学べたことで、ゆっくり余裕をもって英語に向き合えました」
 サウスケントスクールの学生は、ほとんどがネイティブのアメリカ人。なので、いきなり授業に参加すると英語レベルに格差がありすぎついていけない。そこで入学後すぐにやってくる6月からの夏休みで集中的に英語の基礎レベルを上げておく。この試みのおかげで、「意外なほど」すんなりと英語が身体からだに染み込んできた。
 不安だった英語習得の見通しが立った一方で、肝心のバスケットはどうだったのだろう。先輩達のように国内で名が売れるほど実力が飛び抜けていたわけではない。しかも競争の激しい闘争心むき出しの世界で一人、目立って主張することをしない性格で、どうやって評価を得ていったのか。
「高校時代からシューターへ徐々にシフトしていました。シュートのほとんどが外からのスリーポイントシュート。分かりやすいプレーであるぶん、アピールもしやすかったんです。実際に留学してプレーしてみると、ドライブ(※1)で切れ込んでいっても、みんな高くて手も長くてジャンプ力もあって止められてしまう。特に当時、同じチームのセンターがめちゃくちゃでかくて。それでドライブよりスペースが空いたら外からシュートを打つ方により選択肢が寄っていきました」
 チームには将来NBA入りを夢見る若者ばかり。日本よりレベルは当然高い。でも山崎は、そんな現実に圧倒されることも動揺することもなく、ただただ冷静に自分が勝負できるポイントを見極めていった。
「チームにはめちゃめちゃ上手うまい選手がいたんです。リカルド・リドーって名前だったと思うのですが、ドライブもできてダンクも決めまくって、外のシュートも決めるみたいな。大会ではいつも注目されてスポットライトを浴びる存在でした。彼と同じプレーをしても見てもらえない。であれば、外からのシュート一本で勝負できたらちょっとは目立つかなと思ってプレーを絞っていたのもあります」
 それからというものの、個人練習のすべてをスリーポイントシュートにあてた。とはいえ、練習時間はそんなに多く設けられていない。それならば、と率先して取り組んだのがウエイトトレーニングだった。
「体育館が閉まっている時も、ウエイトルームは開いていたんですよ。なので練習後のホームワークの時間をいて行ったりしてました。とりあえず体重を増やして当たり負けしないようにしないと、なめられますし話にならないので。トレーナーはいなかったのですが、試合の時に入ってくれるコーチの人にメニューを聞きました。上半身しかトレーニングしなかったので、今よりもっとすごい筋肉がついて。帰国後同級生に会って言われた第一声が『ごつっ』でした」
 自分の強みを見出みいだし、必要なことを抽出し粛々と遂行していく。すべて自分で考え試行錯誤し、答えを出していく。
 結果、どうなったか。シーズン開幕当初は途中交代で申し訳程度にしか試合に出場できなかったのが、徐々に外からのシュート力を買われスタメンで出場するようになった。資料を見ると、他の選手のスリーポイントシュート成功率が30%台であったのに対し、山崎のそれは60%台で、これは驚異的な記録であるとサウスケントスクールのコーチが証言している。

腹を据えて決意した覚悟を貫く自分

 スリーポイントシュートに活路を見出した山崎。しかし、当然最初からすべてが上手くいったわけではない。
「最初は高い壁にはばまれ、めちゃくちゃ外す時もありました。でも、そこでしか勝負できないと思っていたので。ブレなかったというか、〝外しても次決めてやる〞という気持ちで打たなければ勝負にならなかったといいますか。誰かに言われたとかではなく、勝手に退路を断っていたんです」
 どの分野にも共通して言えることだが、成功と失敗を分ける大きな要因の一つにメンタルがある。特にフープ(※2)の中心から6・75mも離れたスリーポイントラインの外側から放つスリーポイントシュートは、距離が遠いぶん些細な気持ちの揺れで生じるミリ単位のズレ、コンマ単位の角度の違いで成否が分かれるデリケートなシュートだ。だからこそ成功率の高い選手は評価され重宝されるのだが、なぜ山崎は失敗しても群を抜いて高い成功率を維持できたのだろうか。
「失敗しても切り替えが上手にできたのはあると思います。もともとあまり深く考えない性格だったのもありますが、とにかく自分がアピールできるのはスリーポイントシュートだけと割り切っていたので。であれば、いくら外そうと打っていかない限り入らないじゃないですか」
 今でも持ち続けている「成功の感覚」というものがある。
「同じ指にひっかけて、アーチが高く描けるように放つ最後の調整みたいな動作が自分の中にあるんです。最後、指にちゃんとかかれば必ず同じ軌道で飛ぶ。だから、ボールが指から離れた瞬間に入るかどうか分かるんです」
 本人にしか分からないこの繊細な感覚も、メンタルが少しブレるだけで見失ってしまう。すると感覚を信じられなくなり、スランプに陥っていくのはよくある例だ。しかし山崎は、いついかなる時もこの感覚がブレたことはないという。
「いい意味で自分があったと思います。いくら周囲が変わろうと、自分は自分の世界を持っていたといいますか。周りのことはあまり気にしなかったですね」


高校時代からこだわってきたスリーポイントシュート。アメリカでさらに磨きをかけた。 撮影/スラムダンク奨学金事務局

 腹を据えて決意した覚悟を忘れず、周囲に惑わされることなくひたすら貫く。話していると、どうしても物腰が柔らかい印象を抱くが、じつは何事にも動じない確固たる自我の持ち主だということだ。だから、いかなるプレッシャーの下でも練習で培った通りの実力を発揮できる。極めて高い安定度でのパフォーマンス。これぞ、山崎稜という選手の武器であり、強みかもしれない。自身、アメリカに留学して初めて気付かされた事実だった。『スラムダンク奨学金』で得られた最大の収穫は、「自分をよく知れたこと」だという。

「アメリカに行ってみて、自分が思っている以上にマイペースなんだと実感しました。日本にいた時も薄々感じていましたけど、バスケット漬けだったのでそこまで意識することはなかったんです。でもアメリカに行って勉強や日々の生活を通して、自分って考え方も含めてすごいのんびりしているんだと知りました」


留学中は仲間のマネをして「dammit!」(ちくしょう! の意)という英語が口癖だったとか。 撮影/伊藤 亮

 チームは自己主張型の選手ばかり。試合では相手と、練習では仲間ともしょっちゅう喧嘩けんかになる。先輩達もその喧嘩に巻き込まれたという話は聞いていた。
「でも僕はいつも我関せず、見ているだけで。一度、試合中に相手のダーティなプレーで倒されたことがあるんです。そしたら味方が相手に詰め寄って審判が必死に止めに入ってたんですけど、くらった僕自身は『いってー』と倒れながらずっと見ているだけでした。〝周りが盛り上がってまたなんかやってるなあ〞と思いながら」
 ケガとは無縁だったが、一度だけ試合中に相手の肘が入り、目の上を切ったことがある。急いで病院へ運ばれたが、どんなに待っても診療してくれない。いい加減コーチがブチ切れる一方、本人は暇を持て余して当時すでに整備されていたWi-Fiの電波を探し求めていたのだとか。本来なら自分が激昂するところなのに、まるで他人事だ。
 ほかにもエピソードを聞いたが、なんとも落ち着かない毎日だ。それでも飄々ひようひようとしていた日々が、本人ですら知らなかった内面の発見に結びついたのだった。

ゴールを設定せず高みを目指し続けて

「身体能力が高い選手たちと対しても外からのシュートを決めてアピールできたのは自信になりました。こういうプレースタイルならアメリカでも通用するのかなと」
 当初はアメリカでプレーする希望はなかった。しかし卒業が近づくにつれ、アメリカでプレーを続けたいと考えるようになった。実際、リクルートを担当していたコーチの元には複数の大学から誘いが来ていたという。また、進学できる学力も備わりつつあった。だが、なぜか本人に知らされることはなかった。
「進路が定まらないまま、遂には卒業して帰国してしまい。〝え、進路決まってないけど?〞と。そこで奨学金事務局の人に問い合わせてもらって、複数の選択肢の中から2年制のタコマコミュニティ大学に進学を決めました。大学から誘いが来ていたのは後から知ったんです」
 重要な進路を決める際のすったもんだも、あっけらかんと話すのがなんとも〝らしい〞。そして進学した大学も、1年で退学してしまう。
「ちょうど夏休みに地元の埼玉ブロンコス(当時bjリーグ(※3))でトライアウトがあることを知って。アメリカに荷物を置いたまま試しに受けに行ってみたんです。そしたら声をかけていただいて。当時大学でもそんなに試合に出られていなかったし、アメリカでプレーを続けることに迷いもあって。日本でならまだ大学生の年齢から早めにbjリーグでプレーを始めるのもいいかなと」
 山崎は己の人生を「俺はこれで生きていくんだ! と決めつける感じではなく、なんとなくなあなあで進んでいっている」と笑う。そして、自然の川の流れに乗るように進路を選択してきた彼は今、4年前に開幕した日本の男子プロバスケットボールリーグの最高峰、Bリーグ1部の宇都宮ブレックスで3シーズン目を終えた。宇都宮ブレックスはBリーグ初代王者にして、チャンピオンシップにも毎シーズン進出する日本を代表する強豪チームだ。
 目標の設定方法には大きく分けて二通りある。一つは将来のゴールを決め、そのゴールから逆算して日々の取り組みを見出していく帰納的な方法。もう一つは日々できることを最大限行い、その積み重ねでどこまで結果を伸ばせるか追求していく演繹えんえき的な方法。後者のタイプであろう山崎稜という男は、『スラムダンク奨学金』の留学を終えてから8年後の今、日本最高峰のチームに欠かせない存在までになった。
 争いごとを好まない寡黙な愛されキャラ。でも自分で突き詰めた考えを頑なに貫き通し、粛々と結果を出していく。どこか『SLAM DUNK』の神宗一郎じんそういちろうとキャラクターが重なってくるのは気のせいか。『スラムダンク奨学金』を通じて確立された、強烈な自我を内に潜める個性。最終的にどの高みまで到達するのか――それは本人にも分からない。

文中敬称略

■用語解説
※1 ドライブ:ドリブルで素早く攻め込むこと。
※2 フープ:ゴールの対象となるバスケットのリングの部分こと。
※3 bjリーグ:2005~16年に存在した日本プロバスケットボールリーグの通称。Bリーグの前身となった組織の一つ。

COLUMN
#3 山崎 稜

「SLAM DUNK」で
好きなキャラクター、シーンは?


『SLAM DUNK 新装再編版』20巻より

「『SLAM DUNK』は何回も読み返してますね。アニメも繰り返し見てます。好きなキャラクターは何度か聞かれたことがあるのですが、毎回悩みどころで。ポジションがかぶる三井寿も好きですし、神宗一郎の努力家な部分も好き。仙道彰もあの脱力感が好きです。ただ、一番好きなシーンとなると、山王戦の最後に見せた花道と流川のタッチのシーンが、何度読んでもマジで鳥肌が立ちます。そういえば、中学生の頃は流川の沸点が高いクールなところに憧れてたりしました」

© 井上雄彦 I.T.Planning,Inc.

■スラムダンク奨学金とは

『スラムダンク』の作者・井上雄彦の「この作品をここまで愛してくれた読者とバスケットボールというスポーツに、何かの形で恩返しがしたい」という志から始まり、高校卒業後、大学またはプロを目指しアメリカで競技を続ける意志と能力を持ちながら、経済的その他の理由でその夢をかなえられない若い選手を支援することで、その目的を果たそうと設立された。2008年から毎年、高校卒業見込み、またはそれに相当する学生を若干名選考し、現地でのセレクションを経てアメリカのプレップスクールに送り出している。これまでに14名が留学し、多くの選手がBリーグやアメリカの大学などで活躍している。

スラムダンク奨学金
主宰:井上雄彦、アイティープランニング有限会社、株式会社 集英社
協力:公益財団法人 日本バスケットボール協会

山崎 稜

やまざき・りょう
1992年9月25日生まれ、埼玉県出身。昌平高等学校3年の2010年、ウインターカップに出場し初戦で敗れるもチーム最多の21得点を挙げる。11年3月スラムダンク奨学金第4期生として、サウスケントスクールに留学。12年にタコマコミュニティ大学に進学するが、翌年帰国し、埼玉ブロンコスに練習生として加入。以後、14年バンビシャス奈良(bjリーグ)、15年富山グラウジーズ(bjリーグ)、17年に栃木(現宇都宮)ブレックス (Bリーグ)に所属。2020-21シーズンより群馬クレインサンダーズ(Bリーグ)への移籍が決定。シューティングガード。182cm、80kg。

『PLUS/SLAM DUNK ILLUSTRATIONS 2』

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