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スラムダンク奨学生インタビュー #2
第9期生 酒井達晶

[連載]

#2 第9期生 酒井達晶

目の前の道は一つではない。大事なのはどの道を選ぶかではなく、選んだ道で全力を尽くし、思い切り楽しむことができるかどうか。酒井達晶さかいたつあきは子どもの頃の夢を追いかけ、海を渡った。彼はアメリカでどんな努力をし、どう楽しんだのだろうか─ 。
※用語解説は記事末に記載します。

聞き手・構成=宮地陽子


撮影/宮地陽子

お前の目が一番輝いていて、バスケを楽しんでいたからだ

 スラムダンク奨学金のことを知ったのは、小学6年のときだった。ちょうどスラムダンク奨学金がスタートし、1期生の並里成なみざとなりとが渡米した頃だ。そのことを『月刊バスケットボール』で読んだ酒井達晶は、自分も将来はスラムダンク奨学金でアメリカに行くと心に決めた。
「月刊バスケットボールで、並里さんがスラムダンク奨学金で留学したのを知った。スラムダンクもずっと読んでいたし、必然的に、自分も絶対行くんだろうなっていう感じで思っていました」
 並里は酒井にとって憧れの選手の一人。福岡第一高校時代のプレーを、動画サイトでよく見ていた。『スラムダンク』も子どもの頃から何度も読んで、大好きだった漫画だ。好きなことが二つ繫がったことで、運命のように感じた。
「小学校の卒業文集に、『スラムダンク奨学金に受かって、アメリカに行って、NBAに行きたい』って書いていました」と振り返る。
 もっとも、その後しばらくはスラムダンク奨学金のことも、アメリカ留学のこともすっかり忘れていた。中学、高校と、自分のチーム、目の前の試合に無我夢中だったのだ。
 そんな彼に小学生のときの思いがよみがえってきたのは、高校2年の冬、ウインターカップが終わった頃のこと。学校の先生とコーチからスラムダンク奨学金募集の話を聞き、昔の自分の夢を思い出した。とりあえず、「だめもとでもいい」と申請書を書いた。
 書類による一次選考と、留学先のヘッドコーチによるビデオ選考を通った酒井は、同じように選考を通った選手たちと共に、最終トライアウトでコネチカット州のセントトーマスモア校を訪れた。
 初めて訪れたアメリカは、それまで見たことがないぐらい広くて大きかった。空港のレンタカー乗り場の広大さに驚き、学校の体育館で汗だくになってプレーしていたアメリカ人選手たちの身体からだの大きさに「ヤバイ」とも思った。
 それでも、トライアウトを兼ねたピックアップゲームが始まるとサイズの差は気にならなくなり、むしろ楽しくてしかたなかった。酒井の身長は170㎝。日本でもバスケットボール選手としては小柄なほうだ。そして、このときにマッチアップしたのは、自分より20㎝も大きい選手だった。
「正直、『でかいな』って思った(笑)。でもなんとなくやりあえて、やっているうちに、センターのやつがピック(※1)してくれて、シュートを打ったりして。なんかけっこう、ワクワク楽しくできた。意外と適応できたなと思っていた」
 日本にいたときでもまわりの選手よりは小柄だったから、程度の差はあれ、できること、できないことは変わらなかった。
「サイズのディスアドバンテージがわかっていて、逆に言えば自分のアドバンテージもわかっている。だから『すごいな』って思う気持ちと、『やってやろう』っていう思いがいっしょに来た。不安もなかったし、一番楽しんでやっていました」
 あとから知ったことだが、ヘッドコーチのジェリー・クインも、酒井が楽しそうにプレーする姿に注目していた。留学後に、「あのとき、なんでお前を選んだかって言ったら、お前の目が一番輝いていて、バスケを楽しんでいたからだ」と聞かされた。


末っ子ながら、長男だと思われることも多いという。ハキハキした口調で留学経験を語った。 撮影/宮地陽子

 それぐらい、このときの酒井はポジティブなオーラを出していた。知らない世界で委縮することもなく、新しい経験を楽しんでいた。ゴールの近くに何気なくパスを出したら、いっしょにプレーしていたアメリカ人選手が空中でボールをキャッチして、そのままダンクを決めたこともあった。人生で初めてのアリーウープ・パス(※2)だ。
「ロブパス(※3)を上げたらダンクしちゃったよ、みたいな」
 間違いなく、手ごたえがあった。

バスケ一家に生まれ育つ

 合格は、母親からのLINEメッセージで知った。バスケ部の遠征で京都にいたときだった。母からのメッセージが来る少し前に顧問の先生と進路の話をして、指定校推薦で国内の大学に進学することもできると聞かされたところだった。「今、スラムダンク奨学金の結果を待っているので、もしだめだったらお願いします」
 そんな話をした少しあとに、母からLINEでメッセージが届いた。
 酒井によると、母とのLINEでのやり取りはこんな感じだったという。

母「来たよ、来たよ、封筒」
達晶「あ、そうなの?」
母「開けちゃった。受かっているよ」

 自分で封筒を開ける緊張感もなく、母が封を切るのを待っている間にドキドキするひまもなく、あっさりと結果がわかった。
「開けてくれたのはよかったですけれど、でも正直、『そんな早々と開ける?』って思って。LINEで聞いたから、僕は実物見てもいないんですけれど、でも、嬉しかったです」と、当時を思い返して笑う。

 酒井のまわりには常にバスケットボールがあった。生まれ育ったのは石川県野々市ののいち市。金沢市の隣、日本海近くにある北陸の町。酒井にとって、大好きな故郷だ。
 記憶にある最初のバスケットボールの光景は、体育館で、ミニバスの練習の合間に、あいたコートに出ていき、シュートを打っていたことだ。5歳ぐらいのときだ。ミニバスのチームには2歳上と4歳上の兄たちがいた。両親もバスケットボールをしていて、父はミニバスのコーチ、母もママさんバスケをしていた。バスケ一家だったのだ。
 そんな環境だったから、酒井自身もバスケットボールを始めるのはごく自然なことだった。小学校1年のときに自分もミニバスのチームに入りたいと親にせがんだが、父から「まだ早い。2年生になるまで待ちなさい」と言われた。しかし、結局待ちきれず、1年の終わりにはチームに入っていたという。その頃から思ったことは貫き通し、行動に移すところがあったようだ。
 中学は地元にある布水ふすい中学に進学。全国大会に毎年出場する強豪校だ。酒井は2年でゲームキャプテン(※4)となり、チームを率いる立場になった。3年のときも、もちろんキャプテン。バスケ部だけでなく、クラスでも学級委員を任された。
「『バスケ部のキャプテンやっているんでできないです』と言ったけれど、先生から『学級委員、決まんないからやって』って言われてやったりしました。人を率いるのは好き、かもしれないですね」
 バスケットボールでも、中学に入った頃からチームの司令塔の役割を担うポイントガードのポジションをやるようになった。
「布水中に入ったとき、3年に森井健太もりいけんたさん(現新潟アルビレックス)がいて、まさに『ポイントガード』という感じの人だったんです。その人に憧れて、追いかける感じでやっていたら、気づいたら(自分のポジションも)ポイントガードだと決まっていました」
 もう一人、好きで影響を受けたポイントガードの選手がいる。NBA選手のクリス・ポール(現オクラホマシティ・サンダー)だ。選手としてのスキルも抜群なオールスター常連選手だ。現在NBAの選手会長も務めるほどリーダーシップにもけている。
「運命的だったって思えたのが、クリス・ポールと干支がいっしょで、誕生日も同じ5月6日だったんですよ。クリス・ポールが自分の12個上で」
 アメリカ人のポールにとって干支は無縁のはずだが、12歳の酒井少年にとっては、そんなことは関係なかった。スラムダンク奨学金のときと同じように運命を感じて、ポールにもますます惚れ込んでいった。
「プレースタイルも好きだし、人間としても好き。(ポイントガードをもじって)ポイントゴッドって言われてもいる。すごいなって思ったら、もうぞっこんになって。今もずっと好きです」

地元で新たな伝統を作る

 高校は、男子バスケットボール部が新設されたばかりの地元石川の北陸学院高校に進んだ。県外の強豪校からも勧誘はあったが、地元で新たな伝統を作ることを選んだ。地元愛もあった。顧問の濱屋史篤はまやふみあつ先生から熱心に勧誘され、いっしょにやってみたいと思ったというのもある。思えば、酒井にとって人生の岐路に立ったとき、いつでも大切な人との出会いがあった。このときもそうだった。
「石川県に恩返しする……じゃないんですけれど、石川県のために戦えたらいいなと思っていた。ずっといっしょにやってきた大倉龍之介おおくらりゆうのすけ(現東海大学バスケットボール部)と石川県に残ってやろうとなって。若いけれど、情熱を持っている濱屋先生と会って、いろんなことを考えているのを知って、この人といっしょにやりたいなと思った」
 新設された部の1期生だったので、上級生はいなかった。伝統を作るといえばかっこいいが、実際に1年生ばかりで、3年生が主力の他校と戦うことは、思っていた以上に大変だった。
「中学のときも高校と試合をするときはあって、勝ったり負けたりだったので、できるんじゃないかなと思ったんですけれど、意外と壁があって、自分の中でも大きなチャレンジでした」
 だからこそ、実力差を埋める努力は惜しまず、2年、3年とウインターカップに連続出場することができた。卒業後のチームがウインターカップ3位になっている。
「自分らの代からずっと全国大会に出ていて。自分たちが築いてきたものが続いていくことの嬉しさはあとになってわかる。そのときは本当に苦しかったですけれど、今はすごくよかったなと思っています」

丘を走る早朝トレーニング

 高校では地元石川にこだわっていた酒井だが、スラムダンク奨学金9期生に選ばれると、県外どころか、一気に国外に飛び出た。
「出るなら大きく出たいと思っちゃって」
 不安はまったくなかった。トライアウトのときに垣間見た世界に飛び込み、その中でバスケットボールができることが楽しみでしかたなかった。
 スラムダンク奨学金で留学していた14カ月で、忘れられない思い出がある。
 留学して最初の1カ月、前の年からセントトーマスモアに留学していた角野亮伍すみのりようご(2020年5月にサザンニューハンプシャー大学卒業)と共に早朝トレーニングをしたときのことだ。もともと角野が一人でやっていたトレーニングで、そのことを知った酒井はすぐに「いっしょにやらせてください」と頼みこんだ。しかし、角野からは断られてしまった。
 人によってはそこで諦めるところかもしれないが、酒井は粘った。早朝、角野がトレーニングに出る時間の前から部屋の前で待ち構えていたのだ。
 部屋から出てきた角野は、酒井がいるのを見て、「まじか」と一言。そこから、二人の早朝トレーニングが始まった。
 朝5時半に部屋を出て、学校の敷地内にある丘を毎日走った。ランニングに、ダッシュやフットワークを繰り返した。
 まもなく角野はセントトーマスモアを卒業して去っていったが、その後も酒井の早朝トレーニングは続いた。セントトーマスモアが夏休みの間は、フロリダ州のIMGアカデミー(※5)に移ってキャンプに参加した。このときも、まずは早朝に走る場所を探した。
「IMGアカデミーに行ったときも、まずは丘を探さないとと思って、朝5時半に起きて、ドアの鍵がどこから閉まるとか、どこが最初に開くとか、全部調べたんですよ。体育館がいつ使えるのかとかも。そこから逆算して、自分のスケジュールを全部決めました。でも、あそこがだめだったのは、スコールが降って丘が水浸しに濡れちゃうんです。『これ、走れねえ』って思って」
 濡れた丘を走るのを諦めた酒井は、それでも早朝に起きることはやめず、ランニングの時間を単語勉強にあてた。その後、6時から開くカフェテリアでヨーグルトを食べて、6時半に開く体育館でシュート練習。8時に他の選手が来るまで、1時間余り、シュートを打つことができた。そうやって自分で予定を組み、タイムマネージメントすることで、無駄なく1日を過ごすことを考えるようになった。


酒井が毎朝走っていたという、セントトーマスモア校に隣接する湖の砂浜。 撮影/スラムダンク奨学金事務局

 夏が終わり、再びセントトーマスモアに戻ってからも、朝5時半からのトレーニングは続いた。毎日続けることで、地面にその跡が残るようになった。
「最初、丘が緑だったんですけれど、最終的に土の色になっていて。あと、(校内の)湖のところにある砂浜も走ったんですけれど、最初、砂浜がめっちゃ固かったんですよ。でも、ザッザッと蹴るように走ったら、そこが軟らかくなっていって。そういう変化が、セントトーマスモアにいた間の一番の思い出かもしれないです」

涙の丘

 トレーニングに励んだのと同じ丘で、涙を流したこともあった。
 セントトーマスモアでのシーズンが始まってしばらく、ほとんど試合に出られない時期があった。そんなとき、夏の間にキャンプに行っていたIMGアカデミーのチームとの対戦があった。結果はぼろ負け。しかも、酒井自身は試合に出ることもできなかった。
 実は、酒井は夏が終わる前にIMGアカデミーのコーチから「秋になってもうちに残らないか?」と打診されていた。1年前に8期生の猪狩渉いがりわたるが同じように勧誘され、猪狩はIMGアカデミーに残っていた。
 しかし酒井はその誘いを断り、当初の予定通りにセントトーマスモアに戻った。
「俺にはもうSTM(セントトーマスモア)スピリットがあるからとかって言って断ったんです。ジェリー・クインコーチも好きだったし」
 そんないきさつがあったのに、試合ではコートにすら立てなかった。
「試合が終わったあとに列になって挨拶するじゃないですか。IMGのコーチや選手はみんな知っている人たちで、『うちに来ればよかったのに』というようなことを言われて。正直、自分でもIMGに残ったほうがよかったのかって思いました」
 その後も出番がほとんどない試合が続いた。IMGに残ればよかったのだろうか。あるいは日本の大学に行ったほうがよかったのだろうか。そんな自問自答をしながら丘に行き、一人涙を流した。


小柄ながら、司令塔として声とプレーでチームを引っ張り、存在感は抜群。2020年1月、ボーディン大学との試合にて。 撮影/宮地陽子

「あのときが一番つらかったですね。勉強も大変だったけれど、バスケをやりに来ていて、それができないっていうのが一番悔しかったです」
 自信がなかったわけではない。むしろ、自分では、この中でもできるという自信があった。サイズこそ小さかったが、それを補えるスキルやゲーム理解力があった。それだけに、実力を発揮する場がないことがもどかしくてしかたなかった。
「絶対できるっていう自信があった。やれると思ったから来た」

 悔しい思いを抱きながら、毎朝、5時半に起きて丘でのトレーニングを続けた。勉強も、チーム練習も全力で取り組んだ。
 そうしているうちに、転機が訪れた。勝てないチームを変えようと、クインコーチがラインナップを大きく変えたのだ。酒井もスターターに抜擢ばつてきされた。裏で努力し、練習でも手を抜かなかったところを見ていてくれたのだ。
「練習をしっかりやっていて、朝練とかに来ているやつを出すって言われて、スタメンになりました。そこから、シーズン最後までスタメンでした。こうやって、人はもがいて続けることが大事なんだなって思いました」

 スターターとして試合に出るようになった直後に、もう一つの転機があった。クインコーチは、毎試合、開始前に最初のセットプレーを指示するのだが、その指示をきちんと聞いていなかったチームメイトが別のプレーをコールした。酒井が違うプレーだと指摘したが、「タツは英語わからないからだめだよ」と押し通されてしまった。
 結果、指示と違うプレーにコーチが怒り、酒井が言ったプレーが正しかったことがわかった。間違ったプレーをコールした選手は、一度ベンチに下げられた。
「そのあと、そいつが交代して出てきたときに、横に来て『お前が正しかった、ごめんな』って言われました」
 それ以来、酒井はポイントガードとしてまわりからも信頼されるようになった。一度、きちんと役割を果たせると証明すれば、外国人であっても信頼を勝ち取り、リーダーとして認めてもらえる。そう自信をつけた。
「最初は言葉の壁もあったけれど、何が必要で、何を言うべきかとかはそんなに変わらない。練習をしっかりやっていれば見てくれるし、それを感じ取って、聞いてくれる、そうやって信頼関係は築けているなと思う。今はそんなに、難しいな、とは思わないです」

最終的にコーチになりたい。それが自分の道だ

 スラムダンク奨学生に選ばれたことで、人生が180度変わったと酒井は言う。それまでは、日本で大学に進学し、ふつうに就職して働く将来を思い描いていた。それが、スラムダンク奨学金でアメリカに行ける、アメリカでバスケットボールができるとわかったことで、「バスケットボールで生きていこう」と考えるようになった。自分自身の意識、そして覚悟の変化だった。
「バスケットボールで生きていく」といっても、思い描いていたのは、小学校の文集に書いたような、NBA選手になることではなかった。
「最終的にコーチになりたい。それが自分の道だ」と酒井は言う。
 父がコーチをしていたことも影響していた。さらに、憧れのクリス・ポールが、夏の間に子どもたち向けのクラブチームでコーチをしていたことも刺激になった。
 目標を定めると、大学のディビジョンへのこだわりもなくなり、進路も自然と見えてきた。酒井が選んだメイン州セントジョセフ大は、NCAAディビジョンⅢに所属している。ディビジョンⅢは小規模の大学が多く、ディビジョンⅠのようにスポーツで名前が知られているわけでもなく、エリートレベルの選手もいない。しかし、コーチを目指す視点から見ると、選手視点とは違う宝箱のような場所に思える。
「最初はディビジョンⅠの大学に行って、上のほうを目指したいなと思っていた。コーチになりたいと考えるなかでも、ディビジョンⅠやディビジョンⅡに行くっていう道もあったんですけれど、でもディビジョンⅢの人たちって、コーチになりたい、教える側になりたいという熱意もった人たちが多くて、勉強熱心な人が多い。そうやって学んでいる人と会えるのがいい」
 実際、卒業生のなかには、NBA選手のためのスキルコーチ(※6)をしている人や、ディビジョンⅠの強豪大学でストレングスコーチ(※7)をしている人もいる。ヘッドコーチも、常に勉強し、新しい戦術を積極的に取り入れようとしている。そういった人たちとの出会いがすべて、将来に向けての財産だ。
 そして、そういった出会いのきっかけとなったスラムダンク奨学金は、酒井にとって、間違いなく「運命」の糸だ。
「それまでもバスケに集中してやってきたけれど、それがより強固になった。そういう人生、運命なんだって思った。だから、自分にとってはすごくスラムダンク奨学金は大きいです」

■用語解説
※1 ピック:味方プレーヤーのマンマークを振り切らせるため、そのディフェンスの近くに立って壁を作ること。スクリーンとも言う。
※2 アリウープ・パス:着地せずにダンクシュートをするために空中で受け取るパス。
※3 ロブパス:山なりに放るパス。
※4 ゲームキャプテン:試合中のチームをまとめる役割を持ったキャプテン。
※5 IMGアカデミー:フロリダ州にあるスポーツ選手のための寄宿学校・トレーニング施設。
※6 スキルコーチ:バスケットの技術を教えることに特化したコーチ。
※7 ストレングスコーチ:筋力トレーニングなどのサポートをするコーチ。

COLUMN
♯2 酒井達晶

「SLAM DUNK」で
好きなキャラクター、シーンは?

  • 『SLAM DUNK 新装再編版』18巻より

  • 『SLAM DUNK 新装再編版』17巻より

「好きなのはやっぱり、同じポイントガードの宮城リョータ。山王戦のときにプレス・ディフェンスに当たられて、ボールを持ったリョータが『流れは自分たちでもってくるもんだろがよ!! 』っていう場面が好きです。やっぱすごいなって思って。
 この試合中に、彩子さんがリョータの手に書いた『No.1 ガード』は自分のラップトップの壁紙にもしています。自分も一番のポイントガードになりたいと思って。ナンバーワンガードってどんなガードだろうって考えて、チームを勝たせられるポイントガードだと思った」

©井上雄彦 I.T.Planning, Inc.

■スラムダンク奨学金とは

『スラムダンク』の作者・井上雄彦の「この作品をここまで愛してくれた読者とバスケットボールというスポーツに、何かの形で恩返しがしたい」という志から始まり、高校卒業後、大学またはプロを目指しアメリカで競技を続ける意志と能力を持ちながら、経済的その他の理由でその夢をかなえられない若い選手を支援することで、その目的を果たそうと設立された。2008年から毎年、高校卒業見込み、またはそれに相当する学生を若干名選考し、現地でのセレクションを経てアメリカのプレップスクールに送り出している。これまでに14名が留学し、多くの選手がBリーグやアメリカの大学などで活躍している。

スラムダンク奨学金
主宰:井上雄彦、アイティープランニング有限会社、株式会社 集英社
協力:公益財団法人 日本バスケットボール協会

酒井達晶

さかい・たつあき
さかい・たつあき1997年5月6日生まれ、石川県出身。2013年に創部された北陸学院高等学校の主将を務め、創部2年目でウインターカップ出場を果たす。その翌年15年にはインターハイにも出場。2年連続で出場した同年のウインターカップではベスト16に。16年、スラムダンク奨学金第9期生として、セントトーマスモアスクールに留学。17年にメイン州セントジョセフ大学に進学。ポイントガード。170cm、70kg。

『PLUS/SLAM DUNK ILLUSTRATIONS 2』

井上 雄彦 著

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