青春と読書 本の数だけ人生がある ─集英社の読書情報誌青春と読書 本の数だけ人生がある ─集英社の読書情報誌

新連載/本文を読む

#1 並里成

[新連載]

♯1 第1期生 並里 成

『スラムダンク奨学金』の審査を通過し、バスケットボールへの大きな夢を胸にアメリカへ渡った若者たち……。そこで待っていた知られざる葛藤や苦悩、そして喜び。新連載の青春ノンフィクション・インタビューが、「挑戦の美学」を浮き彫りにします。
※用語解説は記事末に記載します。

聞き手・構成=伊藤 亮


撮影/伊藤亮

パーフェクトなタイミング

『月刊バスケットボール』にあった一片の広告。何の変哲もない限られた枠のモノクロ広告だったと記憶している。しかし、当時高校2年生の並里成なみざとなりとは「運命だ」と感じた。見せてくれたのは福岡第一高校の井手口孝いでぐちたかし監督だ。
「僕がアメリカに挑戦したい思いでいることを井手口先生は知っていて、ずっと動いてくださっていました。面と向かっては言われないんですけど、裏で『先生は本当にお前のこと考えてくれてるぞ』とか『アメリカへの道を探してくれてるぞ』という話は聞いていたので。そうしたらある日、先生が『これ、応募してみるか』と見せてくれたんです」
 井手口監督が差し出したページにあったのは、『スラムダンク奨学金』第1回奨学生募集の広告だった。
「たしか高校3年に進級する前の2月くらいでした。ちょうど僕が卒業する年から始まるということで、先生が見つけてくださったんです。見てすぐ『はい、挑戦してみたいです』と返事をしたら、すぐ動いてくださって」
 並里成は沖縄市コザで生まれ育った。兄の影響で、幼稚園の頃には既にバスケットボールをついていた。同地域には米軍の嘉手納かでな基地がある。並里が幼少期の頃は、地元の人が「6チャンネル」と呼ぶアメリカ軍放送(AFN)をテレビで視聴できた。
「6チャンネルで中継されるNBAを、テレビ越しでありながら身近に感じて育ちました。だから小学校低学年くらいにはNBAに憧れてましたね。これは僕に限った話ではなく、同級生もみんなそうで、憧れの選手のマネをしたりして、NBAへの夢をよく話してました」
 バスケットに夢中になる環境がそろっていた中で、並里はその実力をぐんぐんと伸ばす。
「バスケットへの愛は誰にも負けなかったと思います。一番になりたい、上手うまくなりたい向上心で小学生の頃は24時間365日、ずっとバスケットのことだけを考えて、身体のメンテナンスもしてました。正直、中学生の時は思春期でもあり、プライベートを削ってまでもバスケットはしていなかったんですけど」
 コザ中学校3年時に全国中学校バスケットボール大会でベスト8。複数の高校から誘いを受けた中で、福岡県にある全国屈指の強豪・福岡第一高校へ進学することを決意する。
「井手口先生が2、3回沖縄に足を運んでくださった熱意と、チームの試合をDVDで見て。あと当時、沖縄で九州大会があったのですが、そこでなま観戦して団結力を感じさせるチームカラーに惹かれました。そして最後の決め手は、留学生がいたことです」
 将来NBAでプレーするならば、早いうちから海外の選手とともにプレーした方が得策だろう、という判断だった。
「自分の夢はアメリカでバスケットをすること。中学生の時は沖縄を代表して県外か海外に挑戦したいと思い描いていました。そしたら福岡第一高校に声をかけてもらってスムーズにいった。なので、同じように高校を卒業したら今度は海外に出ようと考えていたのですが……」
 並里成には、憧れを憧れのまま終わらすのではなく、実現するために動く行動力があった。そして道筋も考えていた。だが、高校卒業後の具体的な道筋までは考えられなかった。「それまでは『アメリカに挑戦したい』と口では言っていたものの、コネクションもなく、どうしたらいいのか分からなかったんです。決めていたのは日本の大学には行かずに海外に出よう、ということだけ。でも、そんなタイミングで『スラムダンク奨学金』設立の話が出て。“井上いのうえ先生、これからこんなこともやるんだ”と不思議な感覚も覚えつつ、まるで自分のタイミングに合わせて設立されたような気もして。本当にパーフェクトなタイミングでした。だからすごく感謝しているんです」

トライアウトで相対したのは後のNBAプレイヤー

『スラムダンク奨学金』と出会った時点で、「並里成」の名前は全国区になっていた。強豪・福岡第一高校で1年からポイントガードとしてレギュラーを勝ち取り、いきなり高校バスケット界の頂点を決めるウインターカップ制覇。大会ベスト5にも選ばれた。身長172㎝と上背はないが、類まれなクイックネスを持っていた。当時の映像を見れば一目瞭然だが、抜群のスピードに複雑なフェイントを組み込んだドライブ(※1)に、相手はディフェンスどころか、ファウルすらできない。まさに「手が付けられない」とはこのことだ。一瞬の爆発的なスピードと豊富なイマジネーション。いったい次にどんな技が飛び出すのか予想できないプレースタイルは「ファンタジスタ」と呼ばれるほどだった。
 そしてもう一つ、みなぎっていたのが自信だ。派手なペネトレイト(※2)やダブルクラッチ(※3)を決めた後に拳で胸を何度も叩きアピールする。
「自信に満ちた表現を、あえてしていたのはあります。そうすることによってさらに自信が増幅され、どんどん調子に乗っていくという。特に高校1年で出たウインターカップは自信になりました。その後もインターハイや国体などで強豪チームと対戦するたびに、相手のプレーを見るじゃないですか。その時に“この選手ならマッチアップしても倒せるな”という感覚が生まれるようになりました」
 ビッグマウスではない。たしかにそう言い切れるほど、当時の高校バスケット界で並里の実力は抜きん出ていた。


並里の苦楽が詰まったサウスケントスクールの体育館
撮影/スラムダンク奨学金事務局

 そんな実力者が『スラムダンク奨学金』に応募したのだから、書類選考はスムーズに通過した。審査は書類選考の後、最終選考として現地でのトライアウトに参加することになる。並里は高校3年になった2007年の10月、アメリカはコネチカット州にある留学先のサウスケントスクールに飛んだ。
 そして最終トライアウトで相対したのが、後にNBAプレイヤーとなるアイザイア・トーマス(2011年サクラメント・キングス入団)だった。

「最終トライアウトの時は、やってみるまで合格する自信はなかったんです。それで実際行ってみたら、アイザイア・トーマスとディオン・ウェイターズ(2012年クリーブランド・キャバリアーズ入団)がいたことをバッチリ覚えています。トライアウトはピックアップゲーム(※4)形式だったのですが、アイザイア・トーマスとは同じポジションだったのでマッチアップすることに。同じサイズの選手で初めて自分よりも上手い選手をたりにして衝撃でした。なので、最初は雰囲気にも慣れず消極的なプレーが続いていたんですが、勝負している相手なのに彼が『もっとシュート打てよ』『どんどんいけよ』などとパッと声をかけてくれた。おかげでトライアウト後半は自分のリズムもつかめたし、合格する手応えは得ていました」
 トライアウト終了直後にヘッドコーチから賞賛され、校長先生も視察に訪れ喜んでいる様子だった。「ぜひうちに来てほしい」。「また会えるのを待っているから」。そう声をかけられたことで合格を確信したという。だから合格が通知された時のことは覚えていない。アイザイア・トーマスやディオン・ウェイターズといった、とんでもない実力者といっしょにバスケットができる。既に“次に渡米するのはいつになるのだろう”という方に気持ちが向いていた。

想定通り楽しかったアメリカのバスケット

 見事『スラムダンク奨学金』第1期生に選ばれた並里成は、高校3年時にウインターカップ準優勝&自身2度目となる大会ベスト5という成績を残して、2008年3月、日本を飛び出した。18歳以下の日本代表に選ばれた時にアメリカ遠征は経験していたが、14カ月に及ぶ海外長期留学は初体験となる。


「体育館へ徒歩1分」という距離にあった寮は二人部屋
撮影/スラムダンク奨学金事務局

「NBAに近いアメリカに行ける。今までは観るだけだったNBAだけど、これから行くサウスケントスクールには、ゆくゆくNBAプレイヤーになる選手がいるだろうから、絶対バスケットが楽しくなる。がんばるぞ! と思いつつ、言葉の壁、文化の違い、日本人一人という環境に不安もありました」
 寮の部屋は二人一部屋。最初は韓国から来た留学生と同部屋だった。彼は普通にアメリカの大学へ進学を希望して、学業のために来ていた。バスケット選手でアジア人は並里ただ一人だったのだ。
「平日はまず朝6時に朝練があった後、8時30分までに朝食や支度を済ませチャペルに集合します。そして9時から授業。昼食もろくにらず17時まで授業が詰まっていて、そこから食堂でピザやチキンといった食事をかきこんで、18時から練習。それも1時間くらいで、19時からはホームワークがありました。それが2時間くらい。で、21時から1時間だけがフリー時間。そこで体育館に行けたりするんですけど。でも22時になったらインターネットの回線も全部切られるんです。で、その後、生徒たちがちゃんと部屋にいるかどうか見回りに来るという」

 意外だったのは、練習時間の短さと授業時間の長さ。福岡第一高校でのそれに比べれば、サウスケントスクールでの練習は楽に感じられた。でも、だからこそバスケットがより濃密に、楽しく感じられた。
「やっぱり派手な選手が多くて、自分より大きくて速い選手ばかり。いろいろな部分で劣っている自分がいるのですが、上手い選手をどうやってやっつけるかって考えるのが楽しかったですね」


チームにアジア人は並里一人。実力で仲間の信頼を得ていった
撮影/宮地陽子

 欧米に渡った日本人選手は、当初パスを出してもらえないなど、相手にされないという話はよく聞く。並里も同じ目に遭ったが、それは想定内だった。
「最初はバカにされるんです。小さいしアジア人だし。でもシュートを決めたり、ドライブでかわしたり、技を見せるとすごい盛り上がってくれる。それが嬉しくて、無駄にいろんな技を見せていたかもしれません。ハンドリングも普通に抜くのではなくビハインドザバック(※5)したり、レッグスルー(※6)したり、スピン(※7)したり。パスも、しなくてもいいのにノールックパスしたり。でも、それでだんだん認めてもらっている感触がありました。練習後にみんなが寄ってきて『1対1しようぜ』とか『お前のあの技、どうやってやるんだよ』って声をかけてくれるんです」
 そして、深いため息をつきながら言うのだ。
「唯一、楽しいのがバスケットの時間でした……」
 小学生時から抱いていたNBAプレイヤーとなる夢。そこへ一歩一歩近づいている実感があった。バスケットも自分を認めてもらうまでに多少の時間を要したものの、想像通り楽しくてしかたがない。想定外だったのは、学業の方だった。

本当に自分がここにいて正しいのか

「学業はかなり難しかったです。もともとサウスケントスクールは、ハーバード大に進む生徒がいるほどレベルもかなり高かったみたいで。授業の中の一つに単語から教えてもらえる基礎英語のようなものがありましたが、それ以外の数学や歴史といった本格的な授業も全部英語。何を言っているのか全く分からないんです。しかも追い打ちをかけるようにホームワークが出る。ひたすら勉強に追われました」
 授業形態は留学前から把握していた。サウスケントスクールは大学進学に足る学力を身につけるための学校だ。アメリカの大学へ進むためには、大学進学適性共通テスト(SAT)などで一定の成績をおさめなくてはならない。これが、日本では高校までバスケットボール一筋だった並里にとって、高い壁となった。しかも、当たり前だが授業も議論もテストも解答も、全て英語なのだ。
 言葉の壁は最初から予想していた。しかし実際は、そんな不安を上回る苦しみが待っていた。
「英語に関しては自信がなかったんです。正直、もっとできないと思ってました。でもやらざるを得なかったので、ひたすら勉強しました。勉強、勉強、勉強。でもどんなに勉強しても、授業で言っていることが理解できるようにならないし、そもそも聞き取れない。『いったい、いつになったら……』と絶望的な気分になりました。会話も成り立たないレベル1の自分が、レベル2、3、4……と段階を踏まずいきなりレベル10の中に放り込まれた感じ。沖縄にいる時から英語は身近でしたが、実際に英語圏に入ると全く違ったものになるんです。地域によって発音や言葉の使い方も全然違ってくる。僕が勉強していたのはニューヨーク寄りの英語でしたが、進歩している感触がさっぱり得られませんでした」
 英語に堪能な人からは「最初はどれだけ勉強しても分からない。でも半年くらい経つと、ふとした時に突然聞き取れるようになる。すると質問ができるようになるから、英語力が伸びるのも多少早くなるよ」というアドバイスをもらっていた。その言葉を信じて、ひたすら勉強するしかなかった。


豊かな緑に囲まれたサウスケントスクールのキャンパス
撮影/スラムダンク奨学金事務局

 サウスケントスクールは1923年に創立された由緒正しき学校である。敷地面積は650エーカー(約80万坪)。この広大な敷地に大学進学を志す若者が180名ほどつどう。施設も充実し、キャンパスには瀟洒しようしやな雰囲気が漂う。しかし、一歩敷地を出れば延々と林道が続き、買い物をするには数十分も車を走らせなければならない。加えて冬の寒さは厳しく、雪に閉ざされる。まさに、人生をかけて大学進学に専念するためのストイックな閉鎖空間と見ることもできる。
 南国・沖縄出身の並里にとって、コネチカット州の冬はこたえた。
「気候にしても……雪が積もるとやる気が起きない、というのはありました」
 夜22時に外部との接触を断たれ、消灯したキャンパスの暗闇の中で、しんしんと降り積もる雪を感じながら襲ってきた孤独感はいかばかりのものだったか。
「いっぱいいっぱいでした。ストレスも相当溜まっていて。“本当に自分がここにいて正しいのかな”とすら考えるようになっていました」

心の底からすがった“唯一の救い”

 並里は自身のことを「やんちゃだった」と言う。
「中学生の時は思春期でもあり、プライベートを削ってまでもバスケットはしていなかった」と先述したが、ではプライベートで何をしていたかといえば—— たとえば喧嘩だ。
「小学生の時もそれなりのやんちゃでしたけど、中学生の時は他校との喧嘩が増えましたね。中学3年生の時、僕らの中学校は平和だったんですが、周囲の中学校が団体で仕掛けてくるんですよ。で、放課後に公園などで喧嘩するんですけど。僕は、おそらくバスケットで名前を知られていたんだと思います。『並里連れてこい』と言われて。そう言われたら出向かざるを得ないじゃないですか。当時はそんな環境だったんです。え、結果ですか? そこはほら、スポーツ選手だったので。鍛え上げているんで、ね(笑)」
 結果は推して知るべし、である。
 自分から喧嘩を仕掛けることはないが、売られた喧嘩は買う。そんな向こうっ気の強さも持ち合わせていた並里が、一人アメリカの学校で臨界点を超えたストレスをおとなしく消化できるわけもない。
「男子校ですし、喧嘩はありました。それこそ、チームメイト同士でもパスを回さなかったら、それだけで喧嘩になったり。チームメイトもみんな10代後半の若者ですから。人をリスペクトする姿勢などはまだ身につける前の年代で。だからなめられたり、冗談の度が過ぎたりするということもありました。これは僕だけに限った話ではないですが、ロッカールームなどで遠くからいきなりリンゴをぶつけられたりする。頭にパーン! と。冗談だというのは分かるんです。コミュニケーションの一種だというのも分かる。でも度が過ぎるんですよね。そこはなめられたらたまらないですから。僕もキレて喧嘩になるんですけど、みんなに羽交い絞めにされて止められました」
 多くの日本人は同じ目に遭ったら、委縮してしまうかもしれない。しかし、“やんちゃ”並里は敢然と立ち向かっていった。この気持ちの強さは、時にトラブルになることはあったとしても、ポジティブに作用した面は少なからずあったのではないか。
 少なくとも、たとえ喧嘩であろうと自分の気持ちを表に出せる場所があった。そこは本人にとって孤独感を癒してくれる心の拠り所だったのだ。
「正直、器用なタイプではないので。ただでさえバスケットで勝負したくて、そこに頭を使いたいのに、学業に頭を持っていかれる。バスケットにも学業にも頭をフルで使って、もうパンク寸前でした。言葉が通じないので悩みを打ち明けるのも難しい。でもそんな時に、チームメイトにはよくしてもらいました。“あ、アメリカでバスケットするのって楽しいんだな”と、本当に、心の底から感じられた。そう思えたのが“唯一の救い”でした」
 何度も心が折れそうになった。苛立ちもした。だがギリギリで踏みとどまれたのは、そこにバスケットがあったからだ。この時の並里にとって、バスケットは、ただのスポーツではなくなっていた。唯一、人と心を通わすことができる手段になり、自分のアイデンティティになった。
 より強めていったバスケットへの愛。しかし皮肉なことに、バスケットが楽しくなればなるほど、反比例するように学業へのもどかしさは増し、焦りは募っていった。

バスケットの評価を高めて生じた疑念

 待望の瞬間が訪れたのはアドバイス通り、留学してから半年が過ぎようとした頃だ。
「最初は相手の言っている内容をニュアンスで感じ取るレベルだったのが、本当にワードとして聞き取れるようになってきたんです。まだ全部は聞き取れないまでも、なんとなく言っている英語自体が分かる感覚になりました」
 すると、チームメイトともコミュニケーションが図れるようになっていく。ポイントガードは司令塔のポジションだ。仲間に自分の意図を伝え、また仲間の意図を汲くむことができるようになったことで大きな変化が訪れた。
「僕、最初はガードでも3番手の選手だったんです。やっぱり英語が喋れなかったですから。だから出してもらえない試合もありました。でもその中で、死に物狂いでやっていたらシーズン後半は2番手まで上がったんですよ」
 シーズン終盤の10試合は1試合40分のうち、プレー時間を20分ほどまでに延ばした。
「シーズン終盤のある試合でMVPになったんです。その試合は最初負け試合だったんですけど、僕が前から相手のガードに仕掛けてスティール(※8)したり、勝負所で得点したりして最後には勝った。その時には胴上げではないですけど、みんなに囲んでもらって。アウェーの試合だったんですが、遠征帰りには必ずバーガーキングに寄るんですよ。その帰りのバスの中でもみんながずっと褒めてくれました」
 ハンバーガーとポテトを頰張りながら仲間に祝福され、和気あいあいとした雰囲気の中顔をほころばせる姿が思い浮かぶ。そう、コート内での英語のコミュニケーションは確実に図れるようになっていたのだ。
 しかし、肝心の学業面の成績が伸びない。シーズンが進むにつれて、サウスケントスクールにはNCAA(全米大学体育協会)のスカウトがやってくるようになった。並里のバスケットの実力が評価されていることは耳に入ってきた。ヘッドコーチもその点はお墨付きを与えている。でも、学業面が足りないという理由で大学進学の道が断たれるかもしれない。その可能性に、正直疑念を抱いた。
「バスケットで使う英語とテストで点を取るための英語は別物。そう感じてしまっている自分がいました。実際、バスケットではみんなとコミュニケーションできるようになっているのに、“なんで勉強しているんだろう?”と思ってしまった。今、懸命にしている英語の勉強が、NBAプレイヤーになる自分の夢に繫がっているとは、どうしても思えなかったんです」
 NBAへの登竜門となるNCAAでバスケットをプレーするためには、学業で一定の成績をおさめることが条件だということは十分すぎるほど分かっていた。分かってはいたが、心の底から納得することはできなかった。
 2009年春、結局「学業面で難しい」という理由で、並里の大学進学は叶わなかった。彼は今、メディアに対して『スラムダンク奨学金』第1期生としての挑戦を「挫折した」と語る。大学へ進学できなかった事実のみを拾い上げれば、それは挫折なのかもしれない。しかし一方で、テストの点数には反映されない部分で成長を自覚できたこともまた事実だ。
「シーズンが終わった後、卒業まで2週間ほどの間にブレイク期間があったんです。みんなは帰省するんですけど、僕はできなかったので、ニュージャージーやニューヨーク、フィラデルフィアのバスケットのキャンプに参加していました。それで卒業前に戻ったら、みんなが一番に駆け寄ってきてくれて。『元気だったか?』とシェイクハンドしてくれて。最初に来た時とは比べ物にならないくらい英語も上達していたので会話もできて、『そんなに喋れるようになったのか』と言われました。アジア人だし、なめられて少し距離があったところから始まって、でも最後には言葉、文化、人種を超えて僕を知ってもらえたことがすごく嬉しかったんです」

12年後、血肉になっている教訓


留学中に「身体を強くしよう」と励んだ筋力トレーニング。そのフィジカルの強さは今に通じる
撮影/伊藤亮

 帰国後の並里は当時JBLのリンク栃木ブレックスに入団。その後も日本でプレーを続け、現在は地元に戻りBリーグ1部の琉球ゴールデンキングスでプレーしている。
「ファンタジスタ」ぶりは相変わらずだ。一人でゲームの流れを変えられる強烈なエゴ。だがエゴを出すのは要所に絞られていて、むしろ仲間を活かすプレーが多いことはBリーグ2018 -2019シーズン日本人アシスト王という記録が裏付けている。周囲を活かし周囲に活かされ、エゴと協調が絶妙なバランスで調和している点が、リーグに二人といない独特な個性を際立たせている。
 これらは全て、留学で得た教訓が血肉となっているからに違いない。今回、12年前のことを思い出してもらうにあたり、次のように言っていた。
「『スラムダンク奨学金』第1期生として留学した日々は、つい最近のことのように感じています。というのも、あの経験が今バスケットをするうえでも、コミュニケーションの部分でもベースになっていますから」
 そしてもう一つ、忘れてはならないのがNBAプレイヤーとなる夢だ。12年前、アメリカに渡りNBAに向けて伸ばした手は、まだ引っ込めていない。並里は帰国後、日本でプレーしながらじつに3度のNBA挑戦をしている。2016年にはNBA下部Dリーグのドラフト指名対象選手に名を連ねるところまでいった。
 じつは、これまで支えてくれた恩師たちへ正式に挨拶しに行ったことがない。
「成功してから『成功しました』と言いに行きたい変なプライド、というか美学があるので」
 並里成にとっての成功とは。それは『スラムダンク奨学金』での留学前から一貫している。
「飛び出したいですね、日本を」

文中敬称略

■用語解説
※1 ドライブ:ドリブルで素早く攻め込むこと。
※2 ペネトレイト:瞬間的に加速したドリブルで、ディフェンスの間を突き抜けてゴールに進むこと。
※3 ダブルクラッチ:空中で一度シュートモーションに入った手を下げ、逆の手に持ち替えて決める高難度なシュート。
※4 ピックアップゲーム:その場にいるメンバーで、即席でチームを作って行うゲームのこと。
※5 ビハインドザバック:自分の背中側にボールを通し、逆の手に持ち替えて突破するドリブルテクニック。
※6 レッグスルー:股下でボールをバウンドさせ両足の間を通し方向転換するドリブル。
※7 スピン:正式名称はスピンムーブ。身体を素早く360度回転させディフェンスをかわすドリブル。
※8 スティール:ディフェンスの選手が相手のドリブルやパスの最中にボールを奪うこと。

COLUMN
♯1 並里 成

「SLAM DUNK」で
好きなキャラクター、シーンは?


『SLAM DUNK 新装再編版』6巻より

「僕は三井寿が好きです。ずっとグレてて喧嘩をしに体育館へやってきて問題を起こした後、安西先生に『バスケがしたいです……』と発したあの言葉。僕もやんちゃだったので、心に本当に刺さったシーンといいますか。本当はバスケットがしたいのに、意地を張っていて、でも勇気を振り絞って気持ちを表した部分に共感しました。彼も嫉妬が先にきてしまう、ある意味不器用なタイプ。僕も不器用で、昔はたまに周りに変ないたずらをして嫌な思いをさせていましたから(笑)……何度見ても感情的になるシーンですね」

©井上雄彦 I.T.Planning, Inc.

■スラムダンク奨学金とは


© Inoue Takehiko,I.T. Planning lnc. / Shueisha lnc.

 スラムダンク奨学金は、『スラムダンク』の作者である井上雄彦の「この作品をここまで愛してくれた読者とバスケットボールというスポーツに、何かの形で恩返しがしたい」という志から始まり、高校を卒業後、大学あるいはプロを目指しアメリカで競技を続ける意志と能力を持ちながら、経済的その他の理由でその夢を果たせない若い選手を支援することで、その目的を果たそうと設立された。
 奨学金の原資は、『スラムダンク』の印税の一部と、アイティープランニング有限会社、株式会社 集英社の拠出金で成り立っている。スラムダンク奨学生の派遣は2008年から実施されており、毎年、高校卒業見込み、またはそれに相当する学生を募集。その中から若干名を選考し、現地でのセレクションを経てアメリカのプレップスクールに送り出している。これまでに14名が留学し、多くの選手がBリーグやアメリカの大学などで活躍している。

スラムダンク奨学金
主宰:井上雄彦、アイティープランニング有限会社、株式会社 集英社
協力:公益財団法人 日本バスケットボール協会

■プレップスクールとは


セントトーマスモアスクールの体育館

 スラムダンク奨学金の派遣先であるプレップスクールとは、大学進学の準備や、より高度な教育のためのポストグラデュエイト学年(高校4学年目)のある私立の中高一貫校のことで、全寮制であることが多い。
 NCAA(全米大学体育協会)あるいはその上のプロでプレーすることを目指す留学生も多く在籍し、選手は大学コーチなどがスカウティングに足を運ぶことの多いプレップスクールで活躍することによって、米大学からの運動部奨学金のオファーを受けるチャンスが与えられる。NCAAでは規則として最低限の学業成績をおさめていないと公式戦でプレーすることができない。スラムダンク奨学金が奨学生をプレップスクールに派遣する理由は、英語を母国語としない日本の選手が、大学あるいはプロを目指すためにはまずプレップスクールが現実的であり、最も適した留学先であると考えるためである。

:現在のスラムダンク奨学生の派遣先、セントトーマスモアスクールの外観
:セントトーマスモアスクールの寮内

並里成

なみざと・なりと
1989年8月7日生まれ、沖縄県出身。福岡第一高校1年生時にウインターカップで優勝し、ベスト5に選出される。卒業後、スラムダンク奨学金第1期生として、2008年3月にサウスケントスクールに留学。09年に卒業し、帰国後は、リンク栃木ブレックス(JBL)、琉球ゴールデンキングス(bjリーグ)、大阪エヴェッサ(bjリーグ)、滋賀レイクスターズ(Bリーグ)に所属。18年に琉球(Bリーグ)に復帰。ポイントガード。172cm、72kg。

『PLUS/SLAM DUNK ILLUSTRATIONS 2』

井上 雄彦 著

愛蔵版コミックス・発売中

本体3,600円+税

購入する

  • twitter
  • Facebook
  • LINE

TOPページへ戻る