青春と読書
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インタビュー 江國香織『彼女たちの場合は』
江國 香織 自分たちを惜しまないでしている旅を書きたかった
「私たちアメリカを見なきゃ」
「これは家出ではないので心配しないでね」
十七歳の逸佳(いつか)と十四歳の礼那(れいな)。従姉妹(いとこ)同士の二人は、ニューヨークを発ち、旅に出ます。ボストン、ポートランド、ホワイトマウンテンズ、ナッシュヴィル、そして南部へ。様々な人に出会い、思いがけない事件に遭遇し、ヒッチハイクもすれば、働くことにもなる旅のなかで、彼女たちは何を見て、何を感じるのか。一方、子どもたちが突然旅立ってしまった親たちは──。
江國香織さんの二年ぶりの長編の刊行にあたり、お話を伺いました。



目的や、モチベーションを持っていないことが大事

──少女二人が旅に出る物語、着想はどんなところから生まれましたか。
 
 アメリカに留学していた二十代の頃に、友人と目的地を決めずに旅に出たんです。中学時代から仲良しの私たちは、昔から自分たちを主人公にした物語をつくっていたんですけど、そのなかのひとつに、ポーツマス条約が結ばれた時代に、外国人と恋に落ちて結婚しないで子どもを産む、というお話があったんですね。たぶん『はいからさんが通る』に影響されていたんだと思います。留学中にかわいい赤ちゃんの人形を見つけて、二人で買って、その物語の主人公の子ということにしようと部屋に置いたりもしていました。で、周りから見たら異様だったと思うんですが(笑)、私たちはその人形の赤ちゃんを抱いて、旅に出たんです。そんな話をある取材旅行中にしたら、編集者にその話を読みたいと言われたのが始まりです。
 私たちの旅は、学校の休みの間だったので時間に限りがあったし、お金もそんなになかったので、ボストンの少し先までしか行けなかったんです。そして、怖がりで慎重だった。もっと積極的だったら、もっといろんな冒険ができたかもしれない、恋だってできたかもしれないという思いがあって、それを小説のなかで彼女たちにやらせてみようと思いました。でも、彼女たちも思ったほどには大胆なことはしなかったのですが。

──小説の主人公は十七歳の逸佳と、十四歳の礼那です。年齢はどのように考えられたのでしょうか。

 ひとつは、自分が年をとるとともに、小説の登場人物の年齢も上がってきたんですね。別に自分のことを書いているわけではないのにそれもヘンだし、若い人を書けなくなったと言われるのも心外だと思って、今回は若い人の話にしました。もうひとつは、人が固まってしまう前の旅を書きたかったから。大人になってからの旅も悪くはないけれど、未成年の旅とは別のものですよね。子どもの部分を強く残した主人公にしたいと思って、とはいえあまりに幼い子ども同士だと旅は無理なので、十七歳と十四歳になりました。

──そして二人は従姉妹同士です。江國さんは姉妹を書かれることも多いですが、今回は従姉妹ですね。

 友人より近くて、姉妹ほど近くはない関係です。二人の年齢が大人と子どもの間なのと同じで、この小説は、曖昧さや自由度を最大限いかせる設定にしたかったんです。

──ニューヨークを出発し、二人はまずボストンに向かいます。旅の行程はどのように考えられていったのでしょう。

 我ながら無責任だと思うくらい、まったく決めずに書いていきました。ニューヨークは何度も行っていて土地鑑があるので、ここを出発点にすることだけは決めていたんですが、そこからは、私が行ったことがある場所もない場所も含めて、彼女たちが行き当たりばったりで動いてしまった感じです。だから、無駄な行程がすごく多い(笑)。でも、時間だけはあって、どこでも見たいのが若い頃の旅ですよね。目的や、モチベーションすらあまり持っていないことが、この小説には大事だったんだろうと思います。無駄なところに何かがあるというのは、私がずっと思っていることのひとつです。

小さな子だけが持っている大人っぽさ

──二人の性格は対照的なところがあります。不器用で警戒心の強い逸佳に対し、すぐに人と打ち解ける礼那。早起きして朝食のパンを買って、十時のチェックアウトに備えている逸佳に対し、九時半になっても荷物を広げ風呂に入っている礼那。そういう礼那を、逸佳が自分より「人として大きい」と感じているのが印象的です。

 礼那のような人、いますよね。そういう人に会うとびっくりすると同時に、ちょっとうらやましくなるし、心がきれいな人なのかもしれないって思ってしまう。私は逸佳に近いところがあって、逸佳が自分自身を小さいと感じる場面のいくつかに、私自身が投影されています。アメリカ旅行中、デリなどで手に入れた小さなお醬油を、後で必要になるかもしれないと大事にポケットに入れておいて、結局使わなくて、自分をせせこましいと感じる場面とか。

──「友達と長い旅をすると、たいてい喧嘩になるじゃない?」という逸佳の母親の言葉にうなずきました。二人旅には二人旅特有の難しさがあるな、と。

 誰かと旅をすると、次はこの人と旅をするのはやめようとか、一人のほうがラクだったと感じる瞬間があってもおかしくないですよね。でも、彼女たちには、なかったと思います。私にとっては、妹との旅がそうで、喧嘩にならないんです。それは、妹とは過去のある部分を共有しているからじゃないかな。逸佳と礼那も似ていて、逸佳は赤ちゃんの礼那を見ているし、礼那は物心ついたときから近くに逸佳がいた。過去や家族を共有している関係は、それらを共有していない友人や恋人とは、何かが違っている気がします。二人が大喧嘩をしたら、それはそれで良しと思っていたんですが。

──小さな行き違いやすれ違いはあるにしろ、二人にとっては、二人で旅することが大事なんですね。

 最初は、二人が別々になる時間をある程度つくりたいと思っていたんです。逸佳が誰かの家に転がり込んでしまうとか。でも考えてみたら、二人旅で、二人が相手を思いやっているからこそ慎重になって、どちらもあまり羽目を外せなくなるんですね。逸佳は年上で、しかも自分が引っ張り込んだ旅だから礼那を守らなければいけないと思っているし、礼那には、逸佳よりアメリカ生活が長く英語も堪能だから、自分がちゃんとしなければという気持ちがある。むしろ一人旅だったら、二人とももう少し自由だったかもしれません。

──旅の途中で二人は様々な人に出会いますが、なかでも親しくなるのが、アムトラックで編み物をしている三十男のクリスです。逸佳とクリス、応援しながら読みました。

 クリスにはモデルがいるんです。この小説の連載中、アメリカに行ったとき、アムトラックの列車の中で編み物をしている男性を見たんですね。スキンヘッドで、冬なのに半袖のTシャツで、腕にタトゥーが入っているごつい人が、黙々と何かを編んでいる。私、その人の風情をちょっと好きになっちゃって、そのままクリスとして登場させました。
 逸佳とクリスは、ある種運命的な出会いをします。そういうことは現実にあるし、しかも驚くほど多いと思う。たとえば、私には残念ながら経験はないけれど、外国に行くたびに誰かと恋仲になってくっついてしまう友人がいます。また、クリスは日本語を理解していないにもかかわらず、逸佳には彼が理解しているかのように感じられる場面がありますが、そういうことも旅先で普通にありますよね。クリスは三十男だけれど、不器用な子どもの部分をまだ生々しくもっているし、社交的ではないところも逸佳と同じで、二人は出会って良かったなと、書きながら思いました。

──クリスが子どもの部分をもっているのに対し、十四歳の礼那の発言は時に大人びていて、何度もハッとさせられました。

 礼那のもともとの性質もあるのですが、それだけではなく、小さな子だけが持っている大人っぽさってあると思うんです。いつか、なくしはしないまでも摩耗していくような大人っぽさを、礼那はまだ持っているんでしょうね。

多くの結婚はきっかけ待ちの状態にある

──突然家を出た二人を案じ、動揺し、変化していく両親たちの様子が、二人の旅の合間に差し挟まれていきます。

 旅の行き先や顚末は考えずに書き始めたのですが、旅によって何かが決定的に変わってしまうことは書こうと決めていました。絶対に、旅がなかった人生とは違うことにしたかった。それは当の二人にとっても、親たちにとってもそうです。物事は絡まっているから、同じではいられないはずです。

──子どもたちよりも、大人である親たちに起きる変化のほうが、一見、わかりやすく見えます。

 変化の大きさは測れないですが、たぶん、当事者のほうが大きいと思います。ただ、大人のほうが人生の持ち時間が短いから、変化が反映されるのが速いんでしょうね。

──親たちの〝四者四様〟の反応のなかでも、礼那の母・理生那(りおな)と父・潤(うるう)の夫婦の溝が露わになっていく過程が恐ろしくもあり、納得もしました。

 彼ら夫婦にとって、逸佳と礼那の旅は単なるきっかけだったんだと思います。でも、多くの結婚は彼らのように、蓋をあければ何かが眠っているというか、地雷だらけというか。そういう意味で、〝きっかけ待ち〟のような状態に常にあるんじゃないかと思いますね。たまたま一生地雷を踏まなければ、何の波瀾もなかったね、運命だったね、という結末になるんだと思いますけど、客観的に見て、どちらが幸せなのか、不幸なのかは、わからないですね。

──理生那は礼那が旅に出る前から教会に通っています。彼女はキリスト教徒ではないけれど、「いちばん自分らしくいられる場所」だと。宗教に対してはどうお考えですか?

 子どもの頃は、わからないのに信じてしまうということが怖くて、近寄りたくないものの一つでした。けれど大人になって興味が出てきて思うのは、キリスト教に限らず、宗教は個人的なものだということ。個人的でなくなると戦争が起きたりしますが、個人的なものなら問題はないわけですよね。そして人が完全に個人でいられる場所って、存外ないと思うんです。理生那が母でもなく、妻でもなく、娘でもなく、妹でもない自分でいられる場所ってなかなかない。役割に没頭する幸せもありますが、それらからはみ出したところに素の自分があることに気づく幸せもあって、理生那は個人的な場所を教会に見出したんですね。そういう場所を持った人と持っていない人では世界の見え方が違ってくるはずですし、後に理生那がする、ある決心にもつながっていきます。
 旅に出た二人だって、家では娘とか、学生とか、姉とか姪とか、主に役割のなかで暮らしているわけです。旅はそこからの逸脱でもありますから、役割や肩書きを外したときに人はどう感じるか、どう行動するか。これは小説のなかでも、もちろん実生活のなかでも面白いところですよね。

──娘が旅をしている間に、理生那も旅をしていたんですね。

 せざるを得なかったんですね。対照的なのは潤で、彼は頑(がん)として旅に出ない。精神的にも出ないんです。これは人によって差があって、旅に出ない人も多いと思います。

──理生那は潤を「見えるものしか見ない人」と言います。彼の人間性を端的に表す言葉の一つだと感じました。

 そういう人、いますよね。で、そういう人は、どこかに正解があると信じているような気がするんです。だからこそ潤は、礼那がいなくなったことを理不尽だと感じて憤っている。自分は何も悪いことをしていないのにこんな目に遭うなんて、と。でも人生は、良いことをしたから良いことが起こるわけでもないし、失敗したから罰が与えられるとも限らない。正解がないと知った上で、自分なりの正解を探そうとするのはわかるのですが、そのことと、何かを正解と信じることや、誰かに正解と言ってもらいたいと望むことは、まったく別です。私は後者のような正解信奉がきらいで、そもそも正解があったら小説は成立しないし、存在意義もなくなってしまいますね。

──一方、逸佳と礼那も変化していきます。たとえば逸佳は、これまでだったら仲良くなれなかったタイプの人たちと、自然に話をしている自分に気づく。旅は人を成長させるという言い方がありますが、二人に対してはどう思われますか?

 旅はやっぱり人を変えると思うし、成長と言わざるを得ない変化が彼女たちにもあったと思うのですが、成長は、あまり好きな言葉ではないです。良いばかりのものと誤解されている気がするから。子どもの体が大きくなるだけでも成長というわけですが、その過程で失われるものもあるだろうし、必ずしもいいことばかりではないかもしれない。清濁あわせ吞まなければいけないものだと思っています。

世の中は、やっぱり小学生の頃と同じ

──この小説に限らず、江國さんの書かれる少女や子どもを読むと、発見があると同時に、自分の昔の記憶が呼びおこされるような気持ちになります。江國さんのなかに、子どもの頃の記憶はどのように保存されているのでしょう?

 最近のことは、自分でもちょっと危ないんじゃないかと思うくらい憶えていないのに、小さい頃のことはよく憶えています。それは、あの日、誰かがこう言って、私はこう思った、という具体的なことというより、子どものときの、ある状況下においての気分だとか、周囲の気配、世界の手触りみたいなものをすごく憶えていて、だから、礼那を書くのは楽しかったですね。子どもを書くのはとても好きです。
 私は子どもの頃、他人が全員怖かったんです。信頼する理由がないから、疑いばかりをもっていたんです。大人になるにつれて、信頼する理由はないけれど、疑う理由もないから、少しは信じてもいいかなと思うようになりました。でも、世の中は、やっぱり小学生の頃と同じなんだよなと思うときはあります。電車の中で前の人は、トイレで手を洗ってないかもしれないし、家で怒鳴りちらしているかもしれない。想像すると怖くなるのですが、一方で、それぞれが子どもの部分を抱えつつ大人の顔をして頑張っていると思うと、いとおしくも感じます。漏れなく人は、子どもの頃の自分をもっているはずだと思うんですね。私はすべての人に対して、ちょっとだけ子どもの部分を探してしまう癖があるのかもしれません。

──旅の途中、礼那は日記を付けてはいますが、写真におさめようとはしません。そういったところにも、〝彼女たちの場合〟を感じました。

 小さい頃から携帯電話を持つ今は変わってきているかもしれませんが、写真に撮って記録しておこうというのは、わりと大人の感覚だと思うんです。対して二人が、無理とわかりつつとどめておきたいのは、それぞれの場所の空気であり、出会った人の佇まいや会話であり、起きた出来事であって、自分の姿とか、自分がある場所に行った事実ではないんですね。それは彼女たちが、自分たちのことを惜しむ前の年齢だからだと思います。彼女たちは時間も、経験も、若さも惜しんでいないから、自分たちの旅を保存しようと発想しない。大人になってからも、理屈ではそういう旅はできるはずなのですが、永遠に生きるわけではないことを実感してしまうと難しくなりますよね。だから彼女たちがとてもうらやましい。私はこの小説で、そういう、自分たちを惜しまないでしている旅を書きたかったんだと思います。

聞き手・構成=砂田明子/撮影=露木聡子
【江國香織 著】
『彼女たちの場合は』
発売中・単行本
本体1,800円+税
プロフィール
江國香織
えくに・かおり作家。1964年東京都生まれ。著書に『きらきらひかる』『落下する夕方』『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』(山本周五郎賞)『号泣する準備はできていた』(直木賞)『がらくた』(島清恋愛文学賞)『真昼なのに昏い部屋』(中央公論文芸賞)『抱擁、あるいはライスには塩を』『犬とハモニカ』(川端康成文学賞)『ヤモリ、カエル、シジミチョウ』(谷崎潤一郎賞)『なかなか暮れない夏の夕暮れ』等多数。
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