第16回開高健ノンフィクション賞を受賞した『空をゆく巨人』は、著者・川内有緒さんの言葉を借りれば「不思議なおっちゃんたち」の国境を越えた魂の触れ合いの物語である。
「おっちゃん」の一人は、中国福建省出身の世界的現代美術家、蔡國強(ツアイグオチヤン)氏。もう一人は、福島県いわき市の会社経営者、志賀忠重(しがただしげ)氏。80年代の終わり、この国籍も生き方も異なる二人がいわきで運命的な出会いを遂げ、以降30年にわたり二人三脚で世に「作品」を生み出してきた。蔡氏がアイデアを出してスケッチを描き、志賀氏とその仲間たち(いわきチーム)がそれを具現化するという形で。
蔡氏が9年間滞在した日本を離れ活動の拠点を海外に移してからも、二人の関係は途切れることなく続き、東日本大震災を経て、いわきの地に生まれた「いわき万本桜プロジェクト」や「いわき回廊美術館」に結実する。この二人の交流の物語を書き上げた川内さんに、彼らとの出会いや取材の苦労、そしてこの作品に託した思いをお聞きしました。
物語の主人公は
二人の「おっちゃん」
─ まず、開高健ノンフィクション賞の受賞、おめでとうございます。いまや現代美術界の巨星として活躍するアーティストと、アートに全く興味のなかったいわき在住の会社経営者のおじさんがタッグを組んで、人々を魅了する作品を生み出していく過程がおもしろくて、どんどん二人の物語に引き込まれていきました。何より素敵だなと感じたのは、川内さんがこの二人を常に対等な視点でとらえていることです。それは意識されていたのですか。
ええ、二人を主人公にしようというのは、最初から自分の中で決めていました。蔡さんと志賀さんの関係って、ほんとうに不思議な関係なんですよ。男同士の友情というのも違うし、苦労しているアーティストと善意でサポートする人というのでもない。30年間という長い間、彼らが途切れずに温めてきたものってどういうものなのかなと私もずっと考えてきました。お互いをすごく必要とする中で、できることをお互いにやってあげているという感じがします。
でも、全然べたべたしていない。とにかく、さっぱりした関係なんです。けんかをしたというのも聞かないし、志賀さんには「あの時はすごくムッとしたよ」という話は聞きましたけど、それもごく普通のことで、人間がつき合っていたら、そのくらいのことはある。さっぱりしているけど、すごく強い密な関係という感じで。そこが不思議で魅力的な「おっちゃん」たちだなと思ったんです。
─ 29歳で来日した蔡さんがまだ売れずに苦労していた時、いわきで志賀さんと出会い、そこから交流が始まります。志賀さんたちが蔡さんの作品作りに協力するシーンは心が温まりますが、やがて巨匠になる芸術家だけあって、海岸から見た水平線に炎を走らせたいなど、無理難題ばかり言いますね。
そうそう、蔡さんはアーティストだから自分のアイデアが最優先なんです。海を走らせる炎の時もそうですが、作品作りのために海岸の砂の中に埋まっている廃船を掘り出してほしいとか、それをポーランドに送ってほしいとか、え? それって費用は? 人手はどうするの? って感じで(笑)。いわきに建てた塔だって、「こんな塔を建ててください」と、蔡さんはスケッチを渡すだけ。志賀さんたちいわきチームがその塔を建てる過程を私も見てきましたけど、めちゃくちゃ大変だったんですよ。費用だってすごくかかりましたし。でも、蔡さんはそういうことは何も考えない。
「わくわく」を共有したい。
二人にあるのはそれだけ
─ けれど、そうして生み出された廃船を使った作品《リフレクション─いわきからの贈り物》(本誌口絵Vページ参照)は、世界7カ国の美術館で130万人以上の人々に鑑賞され、蔡さんの代表作となりました。
はい。ただ、志賀さんと蔡さんの関係は、蔡さんがどんなに成功し有名になろうと変わっていません。志賀さんは蔡さんをずっとサポートし続けてきましたけど、歯を食いしばって、頑張ってボランティアするというのとは違う。一緒に楽しめそうだったらやるというのが志賀さんのスタンスで、楽しいかどうかというのがすごく大きな基準なんですよ。多分、蔡さんがわくわくしないことを言い始めたら、一瞬で彼はやめると思います。「いや、それは俺たちにはできねえよ……」と。
例えば、この本には書きませんでしたが、蔡さんがまだ売れていなかったころ、いわきでギャラリーをやっている藤田さんという方と志賀さんの二人に蔡さんが自分のマネジメントをしてくれないかと依頼したことがあるんです。その時に、志賀さんは「いや、俺はそういうのはわくわくしないからいいわ」「友達のままが一番楽しいんじゃねえか」と言って、お金が発生するようなやりとりはやりたくないと断っているんです。藤田さんも自分は地元の作家を大事にしたいからということでお断りしている。その後に、蔡さんはニューヨークを拠点にしてスターになっていったわけですが、こうしたやりとりが二人の関係を象徴しているように思います。お金ではなくて、一緒に「わくわく」したいという関係だったからこそ、作品作りのパートナーになり得たのだと思います。
─ 川内さんは、2015年にたまたまいわき回廊美術館の存在を知り、そこで初めて志賀さんと出会います。本の中では第一印象から、その器の大きさにどんどん惹きつけられていく様子が書かれていますね。
志賀さんは、他者(ひと)との距離がすごく近いんですよ。私が最初にお会いしたのは、旅をテーマにしたネット記事の取材の時でしたが、普通は一回記事を書いたらおしまいじゃないですか。ところが志賀さんはすぐ電話してきて、「よかったよ、あの記事」「また遊びに来ない?」と言ってくれて。私もじゃあ、行きますねという感じでまた会いに行くわけです。志賀さんは一度その人を気に入ったら、すごくまめに連絡してくる。今だって、LINEが1日5通ぐらい来ますよ(笑)。今日、こんなことしたとか。
そういう親しみやすさの中に、いろいろな人との出会いから始まったスケールの大きな冒険もあって、知れば知るほど奥深い人だなと思います。開けても開けても次の扉があるみたいな感じ。扉はすぐそこにあって、開けやすいんだけど、開けていくともっともっと奥がある。それが彼の魅力かなと思います。
─ 初めて志賀さんを取材した時、志賀さんの「一歩を踏み出したら、それが冒険なんでねえの」という言葉に、川内さんが思わずぽろりと涙するシーンが印象的でした。
そうなんです。でも、その時点では私は彼に自分のことは何にも話していないんですよ。なのに私の今まで生きてきた人生が見えたかのような言い方だったので、すごくびっくりして、涙が出てしまった。私自身が今まで迎えた転機もすべてお見通しで、それを丸ごと肯定してくれている気がしました。それが志賀さんが人とつき合うスタンス。だから厄介な頼み事ばかり舞い込んでくるんですが、それをいとわず軽々と引き受けてしまう。天性のポジティブな人だと思います。
人間の中にある
故郷とは何なのか
─一方の蔡さんは、中国で文化大革命と共に少年時代を過ごし、その後の天安門事件で故郷に帰るのを諦めています。そうした経験が、核やテロという社会問題と向き合う作風に大きく影響していますね。
蔡さんは中国でも日本でも不遇の時代を長く過ごした人です。でも、彼はすごく頭のいい人で、あの文革の時代にあっても、自分の世界を見失わなかった。小さいころからのアーティストになりたいという夢を追って、少しでもそれに近づこうとプロパガンダの宣伝隊の劇団に入り、舞台の背景画を描く作業をしていた。不遇の時代が長い芸術家は屈折しがちですが、彼はそうならず、宇宙との対話とか独自の世界を作り出していくんですね。多分彼の中には生来明るくて健康的なものが宿っていて、それが自由な魂を育んでいる気がします。会うとわかりますが、ほんとうに爽やかな人なんです。アーティストがこんな爽やかでいいのかと思うくらい(笑)。
蔡さんは、とにかくアイデアがすごくて、こんな作品作ろうかなとか、ああいうのをやってみたいというと、すぐその場で筆ペンを取り出して、さらさらっと絵に描いて見せる。そういうアイデアを無尽蔵に持っているんですよ。いつもアイデアに満ちあふれていてわくわくしている感じ。ほんとうに少年のままという感じで、幸せそうです。
─ 取材でのご苦労は何かありました?
それはあります。とにかく蔡さんの取材が大変で難しかった。まず、彼の拠点がニューヨークで物理的にすごく遠いし、なかなか直接連絡がとれない。誰かを通じて連絡をするしかないし、いつもどこにいるかわからない。だから、追いかけていくのがすごく大変でした。この本を読んで、蔡さんとは最初から仲良しでツーカーだったと思われるかもしれませんが、それは違います。むしろ最初は、蔡さんにとっての私は煙たいというか、面倒くさい存在だったと思います。こういう本を書きたいと蔡さんに申し出た時も、そんな本は絶対にできない、自分の人生もそう簡単に本にできるものではないと一蹴されました。それでも、めげずにしつこく説得して。日本中どこへでも、アメリカにも追いかけて行って、蔡さんがリラックスしているタイミングを見計らって、ここまでの話を聞いたんです。
─ まさに作家魂ですね。志賀さんと蔡さんの関係が東日本大震災を経てさらに濃密になり、「いわき万本桜プロジェクト」や「いわき回廊美術館」など、新しい計画が立ち上がるきっかけとなったプロセスも非常に丁寧に書かれています。
じつは、1年以上志賀さんと蔡さんから膨大なお話を伺って、二人を主人公にしようとは決めたものの、どう書いたらいいのか難しくてなかなか方向性が見えなかったんです。志賀さんはすごく故郷を大事にしている人で、いわきという場所に特別な思いがある。でも自分たちの世代の人間が原発や放射能という負の遺産で故郷を瀕死の状態にしてしまった。怒りと共にそれを激しく悔いて、彼はいくら時間がかかっても故郷の福島に99、000本の桜を植えようと思い立つんですね。
一方、蔡さんも、作品を知っていくと故郷というものがすごく大きなテーマとして見えてきます。彼は生まれ育った泉州(中国福建省)を離れて久しいけれど、気持ちは泉州から離れていない。むしろどんどん故郷への思いは強くなっている。いわき回廊美術館は泉州の風景も再現されていて、二人の思いの詰まった場所になっていると思います。
取材をしていてそんな二人の思いがよくわかってきて、人間の中にある故郷って何だろうというテーマに行きついた。その時、二人の人生について、またちょっと違う見方ができるようになってきたんです。それからだんだん書くエンジンがかかってきた気がします。
二人のビッグフットは
軽々と分断を乗り越える
─『空をゆく巨人』というタイトルは、蔡さんが2008年の北京オリンピックの開会式で手掛けた打ち上げ花火の作品「ビッグフット」から来たものですよね。花火で表現された巨人の足が国境や差別、あらゆる分断を軽々と乗り越えていく……。志賀さんも蔡さんも、そういう巨人のような人たちという意味でしょうか。
ええ、文字通りこの本は二人の巨人を書いたものです。国籍も職業も生き方も違う志賀さんと蔡さんがなぜ対等なパートナーでいられるかというと、同じスケールを持っているからなんですね。同じスケールの人間性や器を持っているから、互いに対等につき合える。私から見ると、二人とも巨人のように大きな存在だと思います。
この二人が非常に似ている部分を一つあげると、どちらも失敗を苦にしないんです。失敗したり、何かに行き詰まったりすると、普通なら加減したり、規模を小さくしますよね。ところが二人は逆なんです。規模を小さくするのではなく、逆に大きくする。志賀さんも蔡さんもそのほうがうまくいくと思っていて、実際そのやり方で困難を乗り越えてしまう。二人はそういう点でもすごく似ています。
─ 蔡さんが巨匠になった後も、志賀さんをはじめとするいわきチームに寄せる信頼は厚いですね。
それは揺らぎませんね。蔡さんの作品には、人々の協力を仰ぐいわゆる「参加型芸術」の作品も多いのですが、志賀さんたちとの交流はそれとは一線を画しています。蔡さんにとって、いわきの人たちは特別な存在です。それは、アメリカ・ニュージャージー州にある蔡さんの邸宅の広大な庭造りをまるまるいわきチームに託したことからもわかります。この邸宅は、世界的建築家フランク・ゲーリーが設計したもので、今も志賀さんたちが泊まり込んで少しずつ庭造りを進めています。これって蔡さんが志賀さんたちをフランク・ゲーリーと対等に見ているってことじゃないですか。それくらい彼らは大事な存在なんです。
─ 川内さんは、12年間働いてきた国連のお仕事を辞めて、フリーのライターに転身なさっています。パリでのお仕事の合間にご自身のライフワークとしていろんな人に会って聞いた話を書いていらしたそうですね。
ええ、人生で何が大切かといえば、自分を表現することだと思うんです。アーティストや物書きだけでなく、多分会社にお勤めの人も、何らかの形でその仕事の中で自分を表現しながら生きているんだと思う。パリでも、みんな自分の仕事以外に写真を撮ったり絵を描いたり、いろいろな形で自分を表現している人はたくさんいました。私もそういう思いで、面白い人を見つけてはインタビューして、それを書き溜めていたんです。
でも自分の場合は、組織の中ではどうしても自分なりの表現ができない。制限された場所にいると、どうしても自分が自分らしく生きられていない、これでいいんだろうかとずっと思い悩んできました。そういう悩みと折り合っていくのが社会人だと自分を納得させようとしたけど、そうできなかった。今思い返せば、思い切って転身してよかったなと心底思います。
お金の面は確かに大変かな(笑)。受賞の賞金、けっこう助かります(笑)。だけどお金の苦労なんて大したことない。自分が会いたい人に会って、書きたいものを書く。それ以上の喜びってないですよ。これからも会いたい人に会って、その出会いを大事に書いていければと思っています。
聞き手・構成=宮内千和子
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【川内有緒 著】
『空をゆく巨人』
2018年11月26日発売
本体1,700円+税
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川内有緒
かわうち・ありお●1972年東京都生まれ。日米の民間企業やフランスの国連機関に勤務し、国際協力分野で12年間働いた後にフリーのライターに。誕生と死、人生、アートがメインテーマ。著書に『パリでメシを食う。』『バウルを探して 地球の片隅に伝わる秘密の歌』(新田次郎文学賞)『晴れたら空に骨まいて』等。
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