二十代の半ば頃、男性の生きづらさをテーマに小説を書こうとしたことがあった。ぼく自身、ちょうどその時期に漠然とした生きづらさを感じていて、その原因と脱け出し方を小説の中で探ってみたかったのだ。
なぜ生きづらさを感じるようになったのか、正確な理由はわからない。当時のことを振り返って自分なりに推察するならば、仕事の評価や年収や社会的地位が男性の価値を決める、というような考えがまだまだ幅をきかせているこの日本の社会で、いまいちそこになじめない自分がどうすれば自信を持って生きていけるのかがわからなくなったのだと思われる。世の中は男性優位と言えど、普通に働いていても昔みたいにそれなりの暮らしができるわけではないし、でもその割には自分自身が旧来的な男性像をなぞろうとすることにとらわれてしまっていて、そういうどちらにも進めない状況に辟易していたのだろう。
あとはメディアで見聞きする、女性たちの男性に対する不満の声が、気分を重たくさせていたところもあった。男の人は気遣いが足りない、精神的に幼稚だ、勘違い男が多すぎるなど、メディアに限らずとも、仕事やプライベートの場で、女性が男性の言動に眉をひそめているのをしょっちゅう見てきた。まぁ本来、そうした不満は、思い当たる節があるところは気をつけて、あとは適当に聞き流せばいいのだが、ぼく自身が父親のいない女家族で育ったせいか、女性たちの言い分を過剰に気にしてしまうのだ。家事や育児の分担、セクハラの撲滅など、声を上げて当然のところはともかく、あらゆる要求を無条件に、かつ際限なく呑まなければいけないような気がして、どうにも息苦しかった。
そんな経緯もあって、ぼくはその生きづらさから逃れる、新しい生き方を必要としていたのだと思う。誰かを支配することにつながりがちな一昔前の男性の生き方や、妥当な要求と勝手な願望が入り交じった女性の声から距離を置き、自分にとって納得のできる男性としての立ち位置を見つけたかった。
でも、結局そのときは、小説として納得のいく形にすることができなかった。書こうとしてもうまく言葉が出てこず、自分の中で頑(かたく)なに首を振るもう一人の自分がいて、どうしても書き進めることができなくなってしまったのだ。だから、そのことは頭の隅に残しつつも他のものを書いたりしていたのだが、今回、「小説すばる」から連載の依頼があった際に、ふと「今なら書けるかもしれない」と思い立って、再挑戦してみることにした。あれから十年近く経っているのだから、何かしら違う切り口が見つかるかもしれない。それで前に書いたものは一切参考にせず、気持ちも新たに取り組んだのが、今回上梓する『たてがみを捨てたライオンたち』だ。
最初は、生きづらさを抱えている男性の暮らしをできるだけ可視化することから始めた。歳を重ね、書き手としてもほんの少しだけ成長したのか、前に書いていたものよりも形になりそうな気配はあった。でも、ノートの上でいろいろと構想を練ったり、実際にいくつかの場面を書いてみたりしているうちに、男性の生きづらさだけを個別に取り上げるのはフェアじゃないような気がしてきた。ついさっきも触れたように、この国では男性よりも女性の方が不平等な地位に置かれている現実がある。実際、ぼくも自分が男性として生きていることで得をしたり楽をしたりしている部分が少なからずあるのだから、まずはそれを認めて、自分が日々の暮らしの中で女性に何を押しつけているかを知らなくてはならないのではないかと思った。その上で男性の生きづらさについて書かなければ、わがままな子どもがあれも欲しいこれも欲しいとわめいているのと同じになってしまう。
それからは大きく舵を切って、女性との関係性を軸に物語を組み立てていった。本作にはタイプの違う三人の男性の主人公が出てくるが、彼らと深く関わる女性たちがそれぞれ何に苦しんでいるのかを見定めて、その苦しみに三人が向き合っていくような形をとることにした。結論から言えば、そういった流れに変えて本当に正解だったと感じている。自分でやってみて気づいた部分もあるのだが、ぼくが思い描いていた男性の新しい生き方を見つけるには、家庭内の夫婦の役割や、恋愛における支配被支配の関係などを見直す必要があった。できるかできないかを別にした自分の理想を口にしてもいいのなら、ぼくは男性が女性の居場所を奪うことなく生きていく道を模索したかった。
そしてそのためには、作品に登場する女性たちが、男性にとって(もちろん書き手であるぼくにとっても)都合のいい存在にならないようにしなくてはいけない。今作でもっとも苦心したのは、あるいはそこだったかもしれない。リアリティーのある女性にするために、何度も書き直して自分の感覚を疑うことを厭(いと)わなかったし、ときには一番身近な異性である妻にも意見を求めた。それからこの作品の連載を担当してくれた女性編集者には、最後までシビアな目線で原稿をチェックしてもらい、ぼくの中にある女性に対する幻想や甘えをなくすための手助けをしてもらった。おかげで、男性が問われるべき問題にきちんとメスを入れることができたし、女性を変に歪(ゆが)めずに描くことができたからこそ、男性がより男性らしくなり、彼らの持つ弱さやずるさ、そしてぼくがもっとも描きたかった、男性として生きるしかない彼らの、本人なりの切実さのようなものが感じられるようになったんじゃないかと思っている。
十年前はこのテーマを小説にできなかったと書いたが、あらためて考えると、その理由はおそらくぼくが、今ほどには女性と正面から向き合おうとする気がなかったからだと思われる。まだ若かったぼくは、生身の女性が考えたり感じたりしていることを知るのを無意識に避けていた。女性の居場所を奪っているかもしれない自分にメスを向けるのが怖かったし、自己批判することで自分が手にしている居心地の良さが失われてしまうのが嫌だった。そういったことが前よりも気にならなくなったのは、というか向き合わざるを得ないなと思えるようになったのは、やはり結婚して妻と生活をするようになったことが大きい。今の時代に、どちらか一方が割を食うことなく夫婦関係を維持しようと思ったら、相手と話し合う以上に、自分の弱さやずるさや醜さと向き合うしかないからだ。
無事に連載を終え、本作を上梓することになった今思うのは、ずいぶん時間はかかったけれど、この小説を書くことをあきらめなくてよかったということだ。女性と敵対せず、きちんと批判を受け止めた上で心を開くことを恐れなければ、これまでとは少し違う世界が見えてくることを、ぼくは知ることができた。「男性」という鎧(よろい)を脱いで、一人の人間として生きていくのは、想像以上に生き易い。できることなら、私生活でもよりそうなっていきたいし、そこにもっと近づいていけるような小説を、もう一本くらい書いてみたいと思っている。
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【白岩玄 著】
『たてがみを捨てたライオンたち』
2018年9月26日
本体1,600円+税
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