青春と読書
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巻頭インタビュー 木内 昇
「天命」を与えられた人々の輝きと切なさを
〈世の中には表と裏がある。日なたと陰がある。人もまた、同じだ〉
時代のうねりに翻弄され、誰もが熱く烈しく、狂おしく生きた時代。新刊『火影に咲く』は、幕末史にその名を刻んだ志士たちや文化人の知られざる逸話や、彼らと触れ合った市井の人々の人生が、情感豊かな描写で綴られた短編集です。
デビュー作から折に触れ、幕末という時代に筆で向き合ってきた木内昇さんに、時代と人を書く醍醐味を伺いました。


個人が、自由意思で生きることを志した時代

─ 二〇〇四年のデビュー作『新選組 幕末の青嵐』(集英社文庫)以降、繰り返し作品の背景となってきた幕末ですが、この時代を描く面白さはどんなところにあるのでしょうか。

 幕末は、日本の歴史の中でも、比較的若い年代の人たちが活躍した時代。それまでの武士階級の、領土争いや、藩の中で出世をしたいといったようなわかりやすい構図ではなく、個人が自分の意思で活躍しようとした時代だったのではないかと思っています。脱藩なんて、会社勤めから急にフリーになるようなものですよね。命の危険も伴うのに、それでも、日本を動かす力のようなものが、若い層からワーッと立ち上がってくるところが面白いなぁと。
 また、メンタリティーが若干現代に近いので、書きやすさも感じます。たとえば平安時代を書くとなると、相当現代とは開きがあるし、逆に、近くても第二次大戦中なんかは、非常に書きにくい部分がある。お国のために死ぬことがすばらしい、名誉であると信じている人がたくさんいる、そういう個≠フなさというのは、本当に難しいなと。その点、幕末には自由度があるように思いますね。
 この本に収めたのは、幕末の、しかも京都に舞台を限定した男女の物語をということで、ぽつぽつと書き溜めた短編。登場人物は男女とも実在の人物でというのは決めていたので、創作ではありますが、完全なフィクションでもありません。

─ 全六編の皮切りは「紅蘭」。漢詩人・梁川星巌の妻で、やはり漢詩人であった張紅蘭の一生を追った物語です。

 この時代の妻というのは、完全に夫のサポーターというか、仕事のことはわからなくとも、とにかく着替えさせてご飯を作って送り出して、という関係が普通だったと思います。が、紅蘭は、彼のことを何もかも知っていたいという、並々ならぬ強い意思を持っていたんじゃないかと。当時としては珍しい女性のあり方を描いてみたいと思って、選んだ人物です。

─ 渋い人選ですが、彼女の一生だけで大長編になりそうな濃い愛憎劇。〈私は、ただの妻なぞではない。梁川星巌の高弟であるっ〉と放言するなど、烈しい人物像が印象的です。

 夫と妻として、師匠と弟子として、まさに夫唱婦随という関係の二人ですが、最後まで相手のことを完全には理解できなかったのかもしれない。ものすごく情熱的に夫を愛しているけれども、自分にも自信があり、でも反面、夫に受け入れられていないということも薄々感じているという、夫婦間の機微のようなものが描けたらなぁと思いました。

─ そんな紅蘭と好対照なのが、「春疾風」の主人公である美貌の勤王芸妓・君尾でしょうか。高杉晋作という稀代の天才に出会い、彼に興味を抱き……。

 君尾は美女として有名でしたが、きれいだと褒めそやされるのが、たぶん、すごく苦痛だったんでしょうね。それに、当時の花街、とくに祇園で働く女性は、和歌のやりとりができたり政治の話ができたりと、頭がよくなければ勤まらなかった。教育もされていたでしょうし、「そこらの女たちとは違う」というプライドもあったと思いますし。

─〈女がみな、惚れたはれただけで生きとる思たら、大間違いどすえ〉という啖呵も、痛烈ですね。

 彼女にはどこか男を見下しているようなところもあったんですが、高杉という、男の中の逸材と出会ったことで、その自負がよりはっきりした、という……。高杉とも、単に恋愛をして添い遂げたいということではなく、男女の情愛を超えた関係を築いた上で生きていこうとしていたんじゃないでしょうか。実際、彼女のその後の生き方もそうなっていて、お座敷に出る人特有のスタンスなのかなという気もしますが、現代の女性にも共感していただけるんじゃないかと思います。

ささやかなつながりを支えにして

─ 幕末の歴史的な事件を、いわば脇役の視点から眺めた作品が二編あります。ひとつは、長州の吉田稔麿が遭遇する池田屋事件の前日譚「薄ら陽」。彼に最期の日が迫る中、料理屋の若女将・ていとのふれあいが、ひととき心を和ませます。

 稔麿は松下村塾に学んだ秀才ですが、控えめで、表舞台に出るよりは陰で動くほうが向いていた人。手紙マニアで、江戸にいた時代もたくさんの手紙をやりとりして情報を集めていたようです。一方で、師である吉田松陰が獄に送られると、門人たちが熱心に面会に行く中、彼は足を運ばず、師との関係を冷徹に切ったということが、史実として残っています。
 私は、彼は単に冷徹なのではなくて、自分なりの流儀を持って線引きをしたんじゃないかと思ったんですが、それを周囲に説明することもしないから、日陰的な仕事を割り振られたりしていたんじゃないかな……と。彼と、先代の後を継いだばかりの若女将のていとは、たぶん他人に理解されない寂しさで呼び合ったんでしょう。恋仲というより、お互いに認め合えた感じ。そうしたちょっとした理解が、あの時代、支えになったんじゃないだろうかと考えました。

─ もう一編は、龍馬暗殺の現場にニアミスした土佐藩士・岡本健三郎が主人公の「徒花」。稔麿と同じく、やはり時代の寵児になりきれなかった男と、彼にひたむきな愛を注ぐ町娘とのすれ違いが、切なく描かれます。

 岡本も、やはり稔麿に近い、監察方のような役回りの人ですが、彼は公務員的というか、脱藩者の多い土佐の中で従順に、平凡に生きた優等生。そのことで感じていたつまらなさを、寄宿先の娘・タカとの関係で埋めようとしていた。
 でも、結局、男の人の心は、女性では埋まらないんじゃないかなと感じました。どんなにきれいなアイドルに好かれていても、自分が えていないと、余計にイライラしてしまう。せっかく寄せられた好意すら「何で俺なんだ」と疑わしく感じてしまったりするんじゃないだろうかと思ったんです。

─ 煩悶したり、恋をしたり。志士も、普通の若者だったと。

 彼らは、それぞれ地元ではちゃんとしたお嫁さんを迎えていても、京都では恋愛は結構奔放にしていたようで、町娘と恋に落ちたり、芸妓と所帯を持ったりと、自由に振舞っていた。町娘たちにとっても、きっと諸国の志士たちは男っぽく、格好よく見えたんでしょうね。明るくて、遊び方も粋で、大きなことに取り組んでいる人独特の熱気を発していて……。坂本龍馬や高杉晋作が店に来たら、やっぱり「格好いいなぁ」と思うでしょうし(笑)。維新のために天から命を与えられたんじゃないかと思える人が、たくさんいた時代ですから。

─ 歴史を動かした男たちと女性の邂逅は史実や遺品にも残されていますが、それらをモチーフにした作品も収録されています。『呑龍』は、沖田総司のエピソード。新選組の屯所があった壬生・光縁寺にある「沖田氏縁者」と記された墓が誰のものなのかは、ファンの間で議論の的になっていますが、本作では意外な「縁者」の存在が示されます。

 司馬遼太郎が『新選組血風録』の中で書いていて(短編「沖田総司の恋」)、あと、子母沢寛も少し書いていますね。でも、私の中では、沖田総司は何となく色恋とは縁遠い印象があるんです。いわゆる女性遊びもそんなにしなかったようだし、やや精神的に幼い感じの人だったのかな、と。
 だから、作品に登場させた同病の老女・布来のような人が自然と浮かびました……。彼女は今作中、唯一の架空の人物なんですが、いずれ近いうちに死んでいくという共通項があって、お互いの苦しみがわかる。そういう相手へのいたわりみたいなものなら、彼にも持てるんじゃないかな、という気持ちで書きました。恋物語を想像していた方たちを、ちょっとがっかりさせてしまうかもしれませんが(笑)。

─ そして、締めくくりの一編「光華」で取り上げられたのは、薩摩藩士・桐野利秋にまつわる一枚の写真。彼が中村半次郎と名乗っていた若き日に、恋仲だった煙管屋の娘・さとと写した、微笑ましい一枚をめぐる逸話です。

 半次郎と撮った写真を女性がずっと大事に保管していて、しかも彼女はその後生涯独身を通したというのを知って、これは相当好きだったんだろうな、と。そこまで一途な男女関係のエピソードというのは、探してもなかなか見つからないんですよね。他の志士たち、たとえば中岡慎太郎なんかも、芸者さんを侍らせて撮った写真が残ってるんですが、芸者さんが塗り潰されていたりして(笑)。
 人斬りと恐れられていたといわれる半次郎ですが、実はそんなこともなくて、明るくて朴訥とした好青年だったという記録も多い。だから、純粋な青年と女の子の恋を描こうと思いました。あの写真がいつ撮られたものかはわかりませんが、夫婦約束をしていたわけでもない二人がわざわざ撮ったというあたり、半次郎も相当好きだったんだろうと。いつ死んでしまうかわからない時代だから、自分のことを忘れないでいてほしいというような気持ちで渡したんじゃないでしょうか。

史実を尊重し、体感的想像力を羽ばたかせる

─ 百年以上前の青春像でありながら、現代の私たちにも通じる普遍性を感じさせるのは、六編の物語が、人の持つ根源的な承認欲求に訴えかけているからのような気がしました。

 そうですね。時代としても、藩としてというより、一人ひとりが自分の力でどう動いていくか、そういうことが求められた時代だからこそ、「あいつはできているのに、どうして俺にはできないんだ」という気持ちも起こったでしょうし、認められたい、認められなくて苦しいという部分もあったんだと……。そうしたところに「自分にもこういうことがあるな」と、共感を持っていただけたらいいなと思います。

─ 史実を踏まえながら、皮膚感覚に訴える生き生きとした描写も魅力的。史料は必ず複数目を通されるそうですが、歴史小説を書く上で大切にされているのは、どんなことですか。

 たくさんの史料を複合的に読む、ということは、やはり重要だと思います。どんなすばらしい人の遺したものでも、ひとつの史料で見えてくることはわずかしかなくて、しかも記憶違いがあったりもするし、都合よく改竄されている場合もままある。また、書き手が見聞した出来事は追っていても、自分自身についてはまったく書いていないという場合もあるので、人物的な肉付けについては、想像するしかないんです。
 ただ、史料はもちろん大切ですが、一方で、歩いて得た感覚も大事にしないと小説は生まれないような気がしています。たとえば、この距離だとこの時間内には移動できないといったような細かな部分は、古地図を見ながら実際に現地を歩いてみたりして、確かめなければならない。見える景色は違っても、皮膚感覚とか身体性みたいなものは、小説に立体感を授けてくれるように思うんです。
 この本のためにということではありませんが、京都にはかなり足を運びましたね。ここからここへはだいたいどのくらいで行けるかという距離感や、その途中でどんなふうに山が見えるかなど、感覚的にわかるくらいにまで歩き込みました。

─ 幕末を巡る物語、まだまだ生まれてきそうですが、近年は『光炎の人』(KADOKAWA)で骨太な近代史にも挑戦されています。今後、あるいは近々、描いてみたいと思っている時代はありますか?

 ちょっと遡って、江戸時代の真っただ中を書いてみたいなと思っています。文化文政年間(十九世紀初頭)くらいの。

─ 町人文化が発達した、華やかな時代ですね。

 ええ。少し時代は下りますが、アーネスト・サトウ(幕末の英国外交官・駐日公使)が書き残しているものには、とにかく日本人は朗らかで、楽しくて、心遣いが細やかで、いつもニコニコしていると。仕事をするときは歌なんか歌いながらで楽しそうだし、しかも文化にお金を使っている、という記述が出てくるんです。もともとの日本人のメンタリティーって、実はすごく楽観的で、「何とかなるさ」という感じだったらしいんですね。
 それが、明治時代になって、何事もキッチリやらなくてはならないとされるようになった。それまで、男の人はそんなに働かなかったし、女は三歩下がって夫に傅くなんていうのは、武家の一部では行われていたけれども町人にはまったくなし。カッチリしすぎるのは、本来は気質に合わないんじゃないでしょうか。そういう余白というか面白い部分が今、なくなってしまっているのはもったいないなという気持ちもあって、何か、そんな適当さのあった時代を書いてみたいと思っています。

聞き手・構成=大谷道子
【木内昇 著】
『火影に咲く』
2018年6月26日
本体1,600円+税
プロフィール
きうち・のぼり
●作家。1967年東京都生まれ。
出版社勤務を経て、独立。インタビュー誌『spotting』を主宰し執筆や書籍の編集を手懸ける。2009年、第二回早稲田大学坪内逍遙大賞奨励賞受賞。11年『漂砂のうたう』で第144回直木賞受賞。14年『 挽道守』で第9回中央公論文芸賞、第27回柴田錬三郎賞、第8回親鸞賞を受賞。著書に『笑い三年、泣き三月。』『よこまち余話』『光炎の人』『球道恋々』等。
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