全五十一巻、原稿枚数にして二万五千五百枚という長大な物語、「大水滸伝」シリーズが完結した、その興奮が未だ冷めやらぬというのに、今春、北方謙三氏はさらなる地平へとその歩みを進めた。それが『チンギス紀』である。
西は東ヨーロッパ、東は朝鮮半島、そして南はアフガニスタン、チベット、と、最盛期にはユーラシア大陸を広く横断し統治していたモンゴル帝国。そのモンゴル帝国の始祖がチンギス・カンだ。 『チンギス紀』一、 二巻同時刊行にあたり、作者の北方氏に執筆への思いをうかがった。
『チンギス紀』執筆まで
─ いよいよ始まりました。そもそも、どうしてチンギス・カンだったのでしょうか。
それは、『岳飛伝』のなかで、胡土児(ことじ)が蒙古の地へ行った、ということが大きいんですね。これはまだかなり先の展開になるのですが、胡土児が佩(は)いていた、あの剣が関係してくる、とだけ。ただ、最初に言っておきますが、『チンギス紀』と「大水滸伝」シリーズは全く別のものです。いずれどこかで(「大水滸伝」シリーズと)連動してくる予定ではありますが、物語そのものは別のものです。
─ チンギス・カンは、謎の多い人物というイメージがあります。
私自身、彼に関しては、モンゴル帝国を興して世界征服をなしとげた、といった、普通の人が知っているくらいの知識しかありませんでした。しかも、その知識の中でも、世界征服をした、というのは誤解ですからね。
─「大水滸伝」シリーズには、説話という形式ではありますが、原典の『水滸伝』がありましたが。
チンギス・カンに関しては、彼の一代記を中核とした『元朝秘史』という中世モンゴルの歴史書があって、モンゴル語で書かれた原典は失われてしまったのですが、明(みん)代に中国語に訳されたものが残っている。ただ、モンゴル語で書かれたといっても、元来は口承文学というか、言い伝えなんです。そもそも文字がなかったので、『元朝秘史』の時代の歴史書はない。宋には文字があったので、宋の正史がありました。その正史に対しての説話、というのが『水滸伝』なのですが、『元朝秘史』には、正史にあたるものがないんですね。では、どこまでが言い伝えなのか、というと、どうもこれは、相当分、言い伝えのようである、と。要は「演義」なわけです。なので、『元朝秘史』そのものよりも、そこについている細かい「訳注」が執筆にあたっては役立ちました。
─「訳注」というのは?
例えば、コンギラトという名称が出てくると、そこには、コンギラト族というのは、代々モンゴル族と通婚関係にあった、という記述がある。「訳注」には、明らかになっている事実が書かれているわけです。
─ コンギラト族というのは、テムジン(チンギス・カンの幼名)の許嫁(いいなずけ)であるボルテの一族ですね。
そうです。その辺りは、「訳注」に依っています。今回、『チンギス紀』を執筆するにあたって考えたことは、まずはどうやって『元朝秘史』を退けるのか。資料としては読み込みますが、読み込んで、自分の中に取り込んだ後で、それを一旦退ける。そうしないと、"私の"『チンギス紀』を書き始めることはできません。ただ、全部が全部退けてしまう、ということでもない。『元朝秘史』の中には、とんでもないことも書かれていたりするわけで、そういったとんでもないことなどは、多少は活かしたりします。原典を捻って活かす、とでも言えばいいでしょうか。それは「大水滸伝」シリーズの時と一緒ですね。
─ 資料を精読して、取捨選択する。
『元朝秘史』というのは、テムジンがチンギス・カンになってからの「人物像」みたいなものを、できるだけ捉えようとしているんです。なので、私がチンギス像を作り上げていく上で、そこに描かれていることは重要な要素ではある。ただ、具体的なチンギスの行動に関してはあんまり頭に残さないようにしました。例えば、一巻から登場するジャムカという男がいますが、彼なんかは『元朝秘史』にはそれほどは登場しない。
─ ジャムカというのは、モンゴル族のジャンダラン氏の長(おさ)、カラ・カダアンの長子ですね。
そうです。『元朝秘史』にジャムカがあまり詳しく描かれないのは、彼が負けた人間だから。歴史書というのは、勝者に都合よく書かれるので、負けた人間の話をそんなに残さないんですね。
南への逃亡─『史記本紀』との出会い
─ 一巻は、十三歳の少年テムジンが、南へ逃げるところから始まります。
弟を殺す、という罪を犯したからですね。獲った魚を巡って争って、弟を殺した、というのは『元朝秘史』にちらっと書いてあって、そこでは魚を盗(と)られたテムジンが、感情的になって弟を殺したことになっています。ただ、それを鵜呑みにするのは、妙味に欠ける。弟殺しの背景には、何か詳(つまび)らかにされていない意味がある、と思うのが作家なんです。そこで、私は、同じモンゴル族であるタイチウト氏がテムジンの弟をそそのかしていた、ということにしました。タイチウトの陰謀によって、テムジンは弟を殺さざるを得なかった、と。
─ 殺された弟ベクテルは、テムジンの異母弟でした。
タイチウト氏のトドエン・ギルテがベクテルに目をつけたのは、彼がキャト氏の長、イェスゲイの息子だったから。テムジンはイェスゲイの長子で、「眼に火あり、顔に光あり」と言われていることからも分かるように、幼い頃から嘱望されて、父であるイェスゲイから帝王学を授けられていた。だから、そんなテムジンを籠絡することはできないわけです。そこで、異母弟であるベクテルが目をつけられた。テムジンにはもう一人、ベルグティという異母弟がいて、ベルグティとベクテルは血が繋がっていて、『チンギス紀』の中でもそういう設定にしていますが、実際のところは分からない。でも、その、実際のところが分からない、というのがいいんです。私がそのことを本当だと思えば、小説世界では本当になる。
─ テムジンは南の砂漠で出会った、ソルカン・シラというタイチウト氏に従う商人から、砂漠を抜けたら大同府(だいどうふ)があるので、そこで書肆(しょし)と妓楼(ぎろう)をやっている蕭源基(しょうげんき)という男を訪(と)うように教えられます。
その蕭源基のもとで、テムジンは居候をするわけですが、そこで彼は『史記本紀』を読む。このことはテムジンの中で、大きな礎となります。
─ 蕭源基の乗る馬車の御者をしながら、テムジンは『史記本紀』を朗読します。
片目で前を見て、片目で『史記本紀』を読め、と蕭源基が命じるわけです。あの当時の書見というのは音読だったんですよ。テムジンもある程度は文字を知ってはいましたが、『史記本紀』を読みこなすほどではなかった。蕭源基は全て読んでいて、諳(そら)んじるほどでしたから、テムジンが音読を間違えると、それを指摘して直す。そういうことを繰り返していくうちに、蕭源基が直すところがなくなるまで、テムジンも読めるようになる。それは、彼が文字が読めるようになったということであると同時に、彼が国家観を学んだ、ということでもあるんです。
─ 国家という概念を学んだわけですね。
当時の中央アジア平原には、国家観というものはほとんどなかった。ケレイト王国、というのはありましたが、それはケレイト族と同じくらいの意味合いでしかありませんでした。『史記本紀』には、中央アジアの歴史、モンゴルがどうしたとかいうより、遥か以前のこと、何故万里の長城が築かれたのかとか、そのあたりのことが書かれていて、テムジンはそれを知るわけです。万里の長城は、対匈奴(きょうど)ということで、秦の始皇帝が作ったものです。匈奴というのは、独自に鉄を作り、その鉄で武器を作って攻めてきた。その鉄の武器があまりに強力だったため、彼らの騎馬隊が越えられない壁を作ろう、と。それが万里の長城なんです。
─ 匈奴の鉄といえば、二巻では、その鉄の重要性が出てきます。
テムジンというのは、漢字の表記では「鉄木仁」と書くんですが、それだけ鉄にこだわった。それは、『史記本紀』の中に、鉄は強い、鉄は力である、ということが出てきたから。彼は、青銅器と鉄では、鉄が圧倒的であることを学んでいるわけです。いちいち、『史記本紀』で学んだ、と書くのは興が削がれるので書きませんが。最近明らかになったことですが、史実を見ると、テムジンは鉄のある土地をちゃんと押さえている。テムジン自身が拠点にしている場所で鉄が見つかっていて、しかも、露天で掘れたらしい。ただ、私の頭の中では、穴を掘って、そこで鉄が見つかるというのがいいかな、と。だから、二巻では鉄を掘る専門家を登場させています。穴を掘るためには、どの壁に穴を開けて、どうやって坑道に空気を取り入れるのか、といった専門的な技術がいるのでね。
─ テムジンはそこに鉄があることを確信しています。
天が自分に何かをさせようとするのだとしたら、この大地が鉄を与えてくれる、と信じているんです。このあたりから、彼の人としての器の大きさを出していこうと思っています。
テムジンを如何に"化け物"にしていくか
─ 主人公が十三歳の頃から物語を書き始める、というのは初めてですか。
正確には、十歳の時からですね。父親であるイェスゲイが亡くなった時から物語は始まっています。
─ 少し話が飛躍しますが、そもそもどうしてテムジンは世界に対して目を向けたのでしょうか。
彼は、大地は一つだと思っているんです。彼の父のイェスゲイも思っていたのですが、イェスゲイにとっての大地というのは、あくまでもモンゴル族の大地なんです。テムジンの考える大地は、天と地の大地。そこから彼は、天というものを意識し始める。天が自分に何をさせようとしているのか。天地の天がただ一つならば、地である大地もまた一つのはずなのに、何故、大地はこんなにも多くの部族や国に分かれているのか、と。そういう思いが根本にあることが、彼が世界へと目を向ける一つの要素になるのでは、と思っています。でも、それだけではない。何か、彼が凡人から脱却する転換点がないと。
─ 二巻で、テムジンの弟であり、未来を見ることができるカチウンの一件によって、テムジンは変わります。
そういう変化はこれから何度も重ねないといけないんです。一、二巻の今はまだ普通の武将なんですよ。その普通の武将である彼を、世界を相手に戦(いくさ)をするような男に変貌させていかなくてはいけない。カウチンのことで、少しは変わりますが、それだって、感情的になって真っ向勝負をしてしまっただけにすぎません。もっともっと怪物じみたキャラクタにならないといけないんです。ただ、三巻あたりまでは、まだそこまでの変化は彼に起きてきません。
─ 単なる成長ではなく、もっと途方もない存在になっていく、と。
キャトの族長で留まるのならば、成長でいいんです。父親の遺志を継いでモンゴル族を統一するだけなら、それでいい。だけど、彼は違う。モンゴル族を統一したその日から、征服戦を始めるわけですから、普通の人間が成長する、というレベルではその征服へと向かう彼の内面には追いつかない。それこそ"化け物"クラスにまで変貌させないと。ただ、一人の男を"化け物"にまでもっていくというのは、これは大変なことでもある。
─ 一、二巻はテムジンがチンギス・カンになっていく下地、ベースとなる巻であるように読めます。
チンギス・カンとしてのベースというよりは、テムジンの指導者としての基礎ですね。彼は初めは一般的な指導者なんです。一般的な長で、全ての因習的なことどもを受け入れて、そこで何とかしようとする。戦はしなければいけないけれど、できるだけ兵力は失わないように、とか考えながら。彼の元には槍のジェルメを初めとする、個性豊かで戦力になる漢(おとこ)たちが集まってきますが、そのあたりのことを書くのは面白いんですよ。でも、そうやって集まってきた漢たちをまとめるのがテムジンであり、彼らを束ねてより広い世界の征服へと向かうためにも、テムジンには"化け物"になってもらわないといけない。彼がそんなふうに飛躍をとげるのを描くこと、変貌の様を描くのが、小説の要諦だと思っています。
─ テムジンというのは、書き手が創り甲斐のあるキャラクタでもあるのですね。
そもそも、彼が歴史上に登場してきたのは、四十歳くらいから。資料として残っているのは四十歳以降の彼なわけで、それまでは謎です。だから、四十歳になるまでのテムジンは、こと小説世界においては私のものなんです。
─ 史実に残されていない部分を描いていく、と。
大変なことではあるんですが、でもそこが面白い。今は、テムジンが色々酷い目にあうアイディアを考えているところです(笑)。
─ 誰も見たことがないチンギス、「北方チンギス」を書いていく、と。
「北方チンギス」というのは言葉の綾ですが、要するに、小説を読んだ人がわくわくしてくれるようなものを描きたい、と思っています。
聞き手・構成=吉田伸子
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【北方謙三 著】
『チンギス紀 一 火眼』
2018年5月25日
本体1,600円+税
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『チンギス紀 二 鳴動』
2018年5月25日
本体1,600円+税
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きたかた・けんぞう
●作家。1947年佐賀県生まれ。
81年『弔鐘はるかなり』でデビュー。著書に『眠りなき夜』(吉川英治文学新人賞)『渇きの街』(日本推理作家協会賞)『破軍の星』(柴田錬三郎賞)『楊家将』(吉川英治文学賞)『水滸伝』(全19巻・司馬遼太郎賞)『独り群せず』(舟橋聖一文学賞)『楊令伝』(全15巻・毎日出版文化賞特別賞)等多数。2016年、全51巻に及ぶ大水滸伝シリーズを完結。
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