青春と読書
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巻頭インタビュー いとうせいこう『小説禁止令に賛同する』
ジャンル超越的なダイナミズムがおもしろい小説を書きたかった
二〇三六年、牢獄での生活を強いられる「わたし」は、収監者の唯一の情報源である小冊子『やすらか』で随筆連載を始める。それは、政府が発布した「小説禁止令」を礼讃する内容になるはずだった……。
この度発売される、いとうせいこうさんの長編小説『小説禁止令に賛同する』。主人公は随筆のなかで、さまざまな小説を例にとり小説批判を繰り広げますが、そこに徐々ににじみ出てくる小説への思いが、ときにコミカルに、ときにアイロニカルに描かれていきます。刊行にあたって、いとうさんに本作へ込めた思いを伺いました。


随筆を書くつもりがこうなった

─『小説禁止令に賛同する』は、表題からもすでに書き手の企みが感じられます。たくさんの要素が盛り込まれ、一筋縄ではいかない印象です。舞台は二〇三六年の、日本ではなく東端列島と呼ばれる国です。どうやら「小説禁止令」が施行されていて、七十五歳の語り手「わたし」はそれに賛成する人物です。そして、反小説について弁舌を振るい、随筆を書きます。まずこのアイデアの元を教えてください。

 長いブランクのあとで二〇一三年に『想像ラジオ』という小説を書き、矢継ぎ早に『鼻に挟み撃ち』や『我々の恋愛』などを発表したことで、自分がフィクションを書くことに疲れちゃった時期があったんです。そんなとき、白川静の「興(きょう)」という概念を思い出しました。古代の歌はいわば自然に対する宗教的な感情が湧いてくる際に詠まれるという考えで、興は枕詞に似た機能を持つ。だったら、かすかな興が生じることだけを随筆に書きたいと考えたんです。それと、とりわけ日本の小説において随筆と小説の境はどこにあるのかにも長く興味があった。それで小説が発生する手前のぎりぎりのところの随筆を書きたいと思ったのが、最初でしたね。

─しかしながら『小説禁止令に賛同する』自体は、小説の形式をとっていますね?

 そうなんです。随筆について考え続けていたら、結局小説になっちゃった。主人公が暦の話をけっこうしているのは、「興」の余韻が残っているからです。もうひとつ考えていたのは、『鼻に挟み撃ち』でも書いたことですが、いまは「戦後」ではなく「戦前」であるという時代状況についてです。これから戦争が、どんなかたちかはともかく起きるのではないか。物書きの倫理として、すこし先の未来から現在を歴史的に検証したときに、作家が何を考えていたかのひとつの答えを用意しておきたい。それがこの作品になりました。

─その問題意識を随筆か評論で書いてもよかったが、結局小説になったと。

 僕はたぶん、大岡昇平や後藤明生といった戦後の作家の小説のことを、これまで感覚としてはよくわかっていなかったんです。彼らは、民衆が戦前には戦争だ戦争だと浮かれ、いざ敗戦を迎えればこんどは急に価値観を変えて、民主主義だ民主主義だ、幸福だ幸福だと言い始めたのを目撃した。そしてこの無責任さや変わり身の早さに対して、皮肉めいた文章も多く残していますよね。僕はいじわるな目線だなと思っていたけれど、現代の人にも共通する、この健忘症のような無責任さがいやだったんだなと、身にしみてわかった。そりゃ皮肉も言いたくなっただろうと。それで大岡や後藤たち戦後作家への共感の気持ちをこめて、小説を書いたんです。

─変わり身の早さ、それが主人公の「わたし」の変節として描かれているのですか? かつて小説家だった彼は、二〇二〇年代初頭に起きた領土紛争と前後して投獄され、「小説禁止令」に追従するように小説の実のなさを説きます。

 いや、主人公は変われない人間です。二〇年代に起きたアジア戦争のあと、この国は民主主義ではなく、なにか今以上に抑圧的な政権下に置かれるんですね。主人公は危険分子として独房に入れられる。しかし抑圧のなかでもし希望があるとしたら、それは内面だけは明け渡さないということじゃないですか。彼が書くものが、一見、小説批判に見えて、やっぱり小説への愛であることは、すぐにわかる。彼の書くものを検閲する体制側にもそれはバレバレです。

─検閲者の存在は、文章がところどころ伏字になっていることが示している。でもまるでAIによるかのごとき、へんな検閲ですね。

 江藤淳は、GHQ が占領下日本でどんな検閲を行なっていたかを検証していますが、僕の考えでは、かつて受けたような徹底的な検閲をこれからの日本は受けないと思うんです。もうこいつらはいいやと、おざなりにされるというか。例えば主人公は、「日本」と書く際の「日」も「本」も使えなくされていますが、そうした機械的な伏字以外は、わりとものが言えている。筆が滑ったみたいなふうに、社会状況や、自分が受けた拷問などをちょろちょろと明かすことができていますよね。それは、検閲の価値もないとみなされているから。

─日本固有の価値観や文化をまずは徹底的に崩壊させなければ服従させられないから、アメリカは必死に検閲したと、江藤は結論しました。いわば他者として認めていたと。

 そう。しかしここでは、中国を中心とした「亜細亜連合」に日本は検閲すら必要ないと思われている。検閲すべき対象でもない我々、というものの絶望感。僕にとって、来きたる戦後の日本像はこういうものです。
 また、主人公は本心を偽ってものを書きますが、検閲者にはお見通しですし、主人公はそれもわかってて内情を綴る。処罰されて、足を負傷していることも検閲から漏れて伝わってくる。まるで鏡を立てあうような、こうしたびみょうな力学を描くのは、とても難しいことでした。

─この小説でもうひとつユニークな設定が、アジア戦争とほぼ同時期に原子力発電所の連続事故が起き、西日本が居住できないレベルになったというものです。

 作中にはあまり明確に書きませんでしたが、設定としては汚染の度合いはひどく、近づくのもはばかられる状況です。周囲の体制側の人間は防護服を着ているが、主人公はそれさえも与えられていません。

─主人公は一種の棄民なんですね。

 周辺国は移民として受け入れる限界も感じている。それで収容所が建てられたのです。かつて原子力開発は、科学は発展する一途という考えのもと、科学信奉とともにあったと思います。しかし、最近になっても「もんじゅ」にじつは液体ナトリウムを抜く穴さえなく、廃炉の可能性など考えもせずに推進されたとわかった。杜撰もいいところでしょう。こうしたでたらめをきちんと反省し、運頼みではないべつの道に進まなければこうなるよという、僕なりの予想図です。

目指していたのは、十八世紀の西欧小説

─そんな非常事態ながら、「わたし」は小説にまつわるさまざまな理論を書き記します。とうぜん過去の小説作品からの引用も含まれます。なぜ小説にこだわるのでしょう。

 この人は、「小説禁止令」を人類にとって重要な法と考えています。それは小説を大きなものだと考えているからですね。しかし検閲官にとってどうか、体制側にとってどうかは、またべつの問題です。

─芸術一般が禁止されている可能性の方が大きい。しかしこの主人公にとっては小説がすべてである?

 ですね。彼はじつは戦前に、ある意外な人の手で牢獄に入れられたわけです。これには参照した事例があって、京大俳句事件と呼ばれるもの。金子兜太さんからも当時の雰囲気を伺ったのですが、前衛俳句を作っていただけの人間が、治安維持法違反で引っ張られた事件です。前衛であることが政治的とみなされる事態に僕は興味があって。ちなみにこの作品に登場人物として出てくる渡部直己さんも「俺もいま京大俳句事件のことを調べている」と言っていましたね。
 僕は、最初、主人公がカモノハシの生態について書いているのでもいいと思っていたんです。でも、十八世紀のヨーロッパのいくつかの作品が頭に浮かんで、小説をテーマにした。具体的には、ディドロやヴォルテール、ローレンス・スターンなどによる近代小説以前のテキストです。ああいうものをまねてみたくなったんですよ。例えばヴォルテールの『カンディード』は、風刺であり批評でありコントであるような作品です。語り手もなんだか一定の存在ではない。随筆と小説が区別されずにあるんですよね。つまり十八世紀までさかのぼれば、自由な、随筆でも小説でもましてや私小説でもないやり方が見つかるんじゃないかという、僕の結論だったんです。

─じつは、『小説禁止令に賛同する』を読んでいて、十八世紀に書かれたデフォーの『ペストの記憶』を連想していました。一六六〇年代のロンドンにペストが流行するさまを、実際には当時五歳ほどだったデフォーが記録書を漁り、架空の青年を語り手に、臨場感たっぷりのルポ風に書いたものです。またイギリスという国家の統治が黎明期なので、国家と民衆とペストの三つ巴が描かれ、政治学も入ってくる。ハイパーテキストです。

 目指していたのは、まさにそれ。ディドロには『ブーガンヴィル航海記補遺』という作品があって、これはブーガンヴィルという人の航海記録をディドロが二次利用して、勝手に「補遺」にしたものなのね。いまのアニメの二次創作みたいに、著作権の観念もなにもない。ディドロにも、自分が作者だという自覚があったかどうか。紀行文とフィクションの合間を縫っていく、ジャンル超越的なダイナミズムがおもしろい。僕もこんなものが書けたら最高だと思いました。

─ただ、『小説禁止令に賛同する』は喜劇的な明るさより、アイロニーのほうが強いですね。

 そう、なぜか『地下室の手記』みたいになっちゃった。『地下室の手記』と十八世紀小説がまじりあった感じかもしれません。

─作中「わたし」は小説を評し、馬琴、漱石『行人』、中上健次『地の果て 至上の時』などを俎上に載せます。詳細は未読の方のために避けますが、その小説観とは、小説は読者がいてはじめて生成される、小説が存在し得るのは読者がいるからだというものです。思えばいとうさんの『存在しない小説』も、作者がいくら抑圧しても読者は立ち上がるという構造を示したものでした。テーマを継承している?

 作者と読者の相関についてはずっと関心があります。そもそも私小説はそれなしに成立しない。後藤明生や大江健三郎といった、僕が尊敬する作家には「私小説期」とでも呼びたい時期があります。私小説の要素を使いながら、私小説の向こう側にまで行くようなことをずっとしている。例えば『小説禁止令に賛同する』にも、僕、いとうせいこうの体験らしいものが書かれます。でも必ずうそがまじっている。私的な体験をどうパズルのように使うか。そもそも十八世紀的なジャンルの混交をやろうとしているので、たんなる私小説にはなりようがないわけです。

小説は毒であってほしい

─もうすこし、「わたし」について教えてください。彼は収監される前にも、『編み物入門』という著作をものしていました。意外にも名に反してニットの本ではなくて(笑)、文学理論の本だったらしい。

 小説を作者の意図などといったものから切り離して、徹底的にテクスト論的に読むスタイルの本です。メタフィクション的に小説を解剖するといってもいい。ところが、「わたし」は、自分が独房で書いているものをメタフィクションだとは考えていません。実際に、そうはしてない。これ自体はメタフィクションではないんです。メタフィクションや、私小説と評論の違いについて長年研究している男の、実直な書きものとなっています。「わたし」には明確な読者がいます。それが検閲官です。彼の目を欺かなければならないという意識ははっきりある。この監視のなか、メタフィクションを自分でも書いてやろうという気など起きない。

─素朴な質問ですが、いとうさんのこの小説自体を、読者が正しく読解できないのではないかという不安はありませんでしたか?

 正しくというか、僕が考えて書いたようには読まれない可能性は高いけど、でも、始めたからにはやらざるを得なくなったというのが正直なところ。すごく面倒くさかった(笑)。カタカナが一切出てこないのも、現在形しか使っていないのも、自分で自分にかけたウリポの言葉遊びのようなカセです。「わたし」が言論弾圧されている状況を、自分が先取りして体験した。僕自身が検閲者になったというべきかな。

─現在形しかないというのは、読んでいて気づきますが、それほど違和感はなかったです。

 いや、現在形だけで書く小説のドラマチックじゃなさって、本当につらかったですよ。だしのないお味噌汁みたいになっちゃう。自分にとってチャレンジングでした。そのうえで、これは二百三十枚ぐらいなんだけど、情報量はけっこうすごいと思います。よくこんなに入ってるなと自分でも思ってて。ジャンル混交的なものだから可能だったのかもしれません。でもやっぱりこの小説は、結局は政治小説ですよ。

─怪物的な作品です。ただし、物事はシングルイシューではないし、わかりやすい答えを求めてはいけないということ自体が小説のテーマなので、そう簡単に理解されてたまるかといういとうさんの企みも見える。

 一般的に、日本でいい小説とされるのは、すーっと胸に沁みる情緒があり、寂しさが一抹残るようなものじゃないですか。でも僕にとってそれは、べつにどうでもいいし、僕よりもっとうまく書ける人がいっぱいいる。だったら、自分がおもしろいと思うものを常に書きたい。カタカナが使えないと本当に書くことは難しいんだなと実感しましたね。僕はこの小説を書いている間、べつの仕事であれ、催眠術みたいに自己検閲が起きて不自由な文を書いていた気がします。小説と向かい合うと、この時代状況でうきうきと能天気なことを書いてはいられないという一面が出てくるし。毒や皮肉をにじませたいというモードなのかもしれません。

─本書でもっとも大事なテーマは検閲ですね。検閲というのは形式が内容を抑圧するという装置ですから。私小説・ウリポ・メタフィクション・十八世紀的ジャンル横断といった形式の項目と、政治批判・花鳥風月・小説の読解・検閲者との駆け引きといった内容の項目が、順列組み合わせ的にさまざまなかたちをとって表出している。

 どう書きたいかという意識が全部ここに入っちゃったので、それでちょっと複雑な、小説らしくない小説、ある意味では小説そのものになったんだと思います。

─もうひとつだけ。この小説では章の終わりに必ず、「軽度処置、中度処罰、投与量加増」とか、「精神鑑定請求」とある。これはつまり、「わたし」は検閲者という読者を確かに得ていて、彼がそのつど内容から処罰事項を判断し、最後になって一冊にまとめたのだと考えていいのでしょうか。

 なかに、声帯を失っているという記述があることからも、おそらく「わたし」は拷問を受けています。足も負傷した。ひょうひょうと文学論をぶったり、随筆風のことを書いているように見える「わたし」も、背負っているものは大きいのだと思います。でも唯一の救いは、自分の書くものにひとりだけでも読者がいたということ。それが検閲者であり、作中でいう梁(りゃん)さんですね、たぶん。
 僕は、自分で最後を書いたとき、ふと笑ってしまいました。そりゃここまで書いたらこうなるよなと。このときはじめて、自分の中の筆者と検閲者が統一されたんです。

─「わたし」はどうやら『月宮殿暴走』という、中国の女傑が登場する閻連科(えんれんか)ばりの小説を自作してしまいます。

 小説への愛を小説のなかで叫ぶというか。まあブラックなコントの終わりで、書いていて楽しいのはここだけでした。じつはあれに落ち着くまで、いくつかパターンがあって悩んだ。イメージとしては、文書の束が資料としてまとめて紙ばさみに挟まれ、暗い倉庫の引き出しに仕舞われたという感じです。

─終わりかたによって、全体がメタフィクションになってしまうかどうかの問題も発生してきます。

「わたし」という人物だけで成立しているように完結させたかったので、こうなりました。ただ検閲者の思い入れも漂う形。「わたし」は検閲者という読者は得たかもしれないが、出版されるかどうかは別問題で。僕も小説が出版されて自由に市場に出回ることがいかに幸福なことか、今回、改めて考えることができました。


聞き手・構成=江南亜美子
【いとう せいこう 著】
『小説禁止令に賛同する』
2018年2月5日
本体1,400円+税
プロフィール
いとう・せいこう
●作家、クリエイター。1961年東京都生まれ。
出版社の編集を経て、音楽や舞台、テレビ等さまざまな分野で活躍。著書に『ノーライフキング』『ボタニカル・ライフ』(講談社エッセイ賞)『ワールズ・エンド・ガーデン』『スキヤキ』『想像ラジオ』(野間文芸新人賞)『鼻に挟み撃ち』『我々の恋愛』『どんぶらこ』等。
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