交通事故に遭い、生死をさまよう女性。三十歳を迎えて、あらためて自分を見つめる女性。結婚し、苗字が変わった自分に慣れない女性。通り魔の噂に怯える母親─綿矢りささんの新刊『意識のリボン』には、女性たちの視線を通して切り取られた世界が描かれています。繊細で不思議な女性の心の動きを、独自の観察眼と、軽妙かつ切実な筆致で掬い取りながら、新境地をも感じさせる作品集です。本作に収められた八編を執筆中に、結婚、出産を経験された綿矢さん。本作について、そしてご自身の変化について、伺いました。
短編には、生きていてちらっと感じたことや 好奇心を書く喜びがある
─本作には、二〇一四年から二〇一七年にかけて発表された編が収められています。その時々に関心のあるテーマを書かれたのでしょうか?
たまたま冬に短編を書く機会が多く、その冬、私が気になっていたことや考えていたことを書いた作品が多いですね。
─三十歳になった〈私〉の独白で綴られた「こたつのUFO」も、冬の話ですね。
はい。主人公と同じく、私も当時一人暮らしをしていて、寒い時期はこたつに籠もって寝ていたんです。すべてが自分の経験したエピソードではありませんが、心情はある程度、出ていると思います。
─〈思ったより大人になれていない〉と落ち込む主人公に共感する読者は多いと感じました。
三十歳の頃、なぜ自分はこんなに変わらないんだろうと、もどかしく思っていたんです。三十歳を過ぎた今でもそう思いますが、一方で、身体は年をとっても、気持ちは永遠に年をとらないのかな、と考えるようにもなってきました。無理に実年齢に精神をあわせなくてもいいのかなと。
─先ほど、この作品にはご自身の心情が出ているというお話がありましたが、〈私〉は作家でもあり、とりわけ綿矢さんを重ねて読んでしまうところがありました。
長いものだと、主人公の設定を細かく考えているうちに自分から離れていくのですが、短いものだと、素の自分が色濃く出たまま終わることがありますね。
─短編と長編で、書くときの姿勢や意識はどう異なりますか?
短編には、自分が主張したいことや何か強く思っていることというより、生きていて、ちらっ、ちらっと感じたことや好奇心を盛り込める喜びがあります。とても贅沢な場所だと思いますね。長編は物語として設定を作って書いていくので、そういうものを入れ込むと、浮いてしまう場合があるんです。長いもののほうが理性が働いているのかもしれません。
─「怒りの漂白剤」は、〈怒り〉という感情と格闘する主人公の話です。このときは怒りが気になっていたのでしょうか?
子供を産んで、あまり怒っていても仕方ないと思いながらも、ホルモンの関係か、すごく怒りが湧いてくるときと、全く湧かないときがあったんです。体調によってこれだけ感情が振れるのかと驚いて、考えてみました。この短編にも書いたのですが、電車や道などで嫌な態度をとる人がいたら無性に腹が立つことがあって……、キレる、というやつですね(笑)。子供と一緒にいて、誰かと喧嘩をしたら大変なことになるから、もちろん表には出さないんですが、自分のこうした怒りをどうにかしたいという思いもありました。
─本書に書かれている解消法がユニークです。好きを好きすぎないようにする、と。実践もされているのでしょうか?
プラスの感情が強すぎるとマイナスのほうも引き立つだろうから、プラスが減れば、マイナスも減るのかなと。
私自身で言えば、好きな人をやたらに偶像化するところがありましたが、この人は凄い、この人はダメ、と極端に考えるのはよくないと思うようになりました。太宰治が好きで、太宰っぽい考え方が続いていたんです。人間はみんな平等だ、という言葉ほど卑しい言葉はない、といった意味合いの太宰の言葉を信じてきた。けれど、誰しもいい面と悪い面があって、総合点をつけたら、あまり差はないのかもしれないなと。太宰は今でも好きだし尊敬していますが、ある程度、誰にでも期待し、と同時に期待しすぎないようにすることで、怒りが減っていけばいいと思うようになりました。
結婚して、履歴が洗われるような感覚に
─先ほど出産によるご自身の変化についてお話がありましたが、本作には、結婚後の女性の微妙な心理が描かれた二作「履歴の無い女」と「履歴の無い妹」が収録されています。
結婚する前と後で、同じ人間であるにもかかわらず、苗字や住む場所が変わり、求められる役割が変わり、これまでの履歴が洗われるような感覚になったんです。新しい家族ができてもちろん嬉しかったんですが、小説を書く上では、この洗われ方が気になって、過去の自分を捨てて違う自分になる過程を書いてみたいと思いました。とくに女の人は、人生のステージで化けるチャンスが多く、変化が自在で、くるくる変わるところが魅力でもあるし、不気味でもあると思います。
─変化という点では、「岩盤浴にて」を読み、女性同士の人間関係も年齢を重ねるにつれて変化していくものだと考えさせられました。
私は地獄耳なので、この作品の主人公のように、人の会話をじっと聞いてしまうんです。最近は、比較的自由の利く午前中とか昼間に出かけるので年輩の女性たちの話を耳にはさむことが多く、頭に残っていた会話を書いてみたいと思いました。本来は小説のために聞いているわけではなくて、むしろ嫌な会話を聞くと影響されて暗い気分になって、せっかくカフェに来たのに……などとへこむくらいですが、私だけが聞いていたという特別感もあるし、何年たっても憶えていたりもするし、不思議だなと思いますね、人間の会話って。
─小説では、会話をしている女性二人の人間関係に焦点が当てられています。〈身体の老いはあきらめがつく分それほど恐れてはいないが、関係性の老いはできるだけ避けたい〉という一文が、心に刺さりました。
街で会話を聞いていると、中学生の女子の会話と、年輩の女性の会話って、全然違うことが多いんです。年輩の方たちは、互いが自分の話したいことだけを一方的に話していたり、話し手と聞き手がくっきり分かれたりしている。対して中学生は、相手をちゃんと見て、相手の話を受けて、会話をしている。関係性としては、後者のほうが健康的だと思います。ただ、話す人と聞く人の役割があまりに偏っていて、パワーバランスのおかしな二人組に遭遇すると、一緒にいて楽しいのだろうか、そもそもなぜ友人になったんだろうかと、好奇心が掻き立てられるんです。電車の中でも、つい必死に聞いてしまう。不思議やな、と思いながらも、それでも一緒にいる姿に、時々きゅんとしてしまったりもします(笑)。
妊娠中は、ホラーと自分の関係性が初めて揺れた
─表題作の「意識のリボン」には、母を亡くし、長生きすると父に誓っていた二十代の女性が交通事故に遭い、生死をさまよう様が描かれています。死をこれほど正面から書かれたのは初めてではないかと興味深く読みました。
妊娠して、病院で診察を受けて何週目ですよと言われたときに、こんなふうに何気なく命が芽生えるならば、死もまた、何気なく訪れるんだろうと感じたんです。今、こうして生きているのは当たり前で、命の始まりについてすっかり忘れていたけど、自分も普通に誕生したのなら、普通に死ぬしかないんやなと思ったら、あらためて怖くなったんですね。それで、始まりがあれば終わりもあるということを考え始めて、小説にしたという感じです。
─主人公は、いわゆる臨死体験をします。人生を回想するシーンで思い出す履歴が、自分が重要だと信じてきたエピソードではないところは面白かったです。
この小説を書くきっかけがもう一つあって、九死に一生を得た人の体験談が集まっているサイトをよく見ていたんです。その中に、人生の振り返りの瞬間には、国籍に関係なく、大学に受かったとか何かで優勝したといった履歴書に書くような成功ではなく、愛情にまつわる記憶を思い出すという話が多くて、面白いなと思いました。キリスト教などを信仰している外国の方が、人生の最後に愛を思い出すのはなんとなくわかるんですけど、日本人も愛なんだ、と意外な気もして。でもあれこれ考えていくうちに、そういうものかなと納得するようにもなって、自分なりに書いてみたいと思いました。
─「声の無い誰か」は、この作品集で唯一、高校生の娘を持つ母親の目線で書かれています。
私自身の子供は男の子なのですが、女の子の親だったらと想像したときに、怖い目に遭わないかということがいちばん心配だろうと思ったんです。中でも、自分の目が行き届かなくなる高校生くらいが、最も危惧する年代だろうと。これもホルモンのせいか、娘を産んでもいないのにひたすら思いつめてしまった時期があって、その不安な気持ちをここでは通り魔の話として書きました。
自身を振り返ってみても、生まれ育った京都では門限に縛られていた反動か、上京して門限がなくなった途端、夜中に出歩いて、漫画喫茶に行ったりしていたんです。親の立場になったら、もう、何やってたんやろうと(笑)。そういう自分を省みて書いたところもありますね。
─書くことで、怖さが治まるのでしょうか?
うーん、ちょっとマシになるというか、頭が整理できるようなところはありますね。やみくもな恐怖ではなくなるのかもしれません。
私は元々ホラーが大好きで観たり読んだりしていたのに、妊娠中は、ホラーと自分の関係性が初めて揺れたんです。保護本能がヘンなふうに働いてしまったのか、何かの事件を聞いては涙を流すようになり、ホラーも怖くて観られなくなったんですね。で、出産したら、また観るようになったんですが、それは余裕ができたからではなく、ますます気になり始めて、関心がありすぎて、怖すぎて、つい観てしまう、書いてしまう、という感覚……。「声のない誰か」は、そういう、ビビっていた頃に書いた作品です。
女性読者の声が気になる
─「意識のリボン」に〈時間は有限だとはっきり自覚して眺めわたしてみれば、人生において仕事ほど贅沢に自由を使っている"遊び時間"はない〉という一文が出てきます。現在、子育てをしながら執筆されている綿矢さんのお気持ちが表れているのかなと思いました。
以前は自分のことだけをやっていればよかったけど……、といった気持ちは出ているかもしれないです。子供が生まれて、主張しないと書く時間が持てないというのは新鮮な反面、一つ書いたら次はこれ、と、次々頭を切り替えていくような余裕のない状態が続いていました。最近ようやく落ち着いてきて、長いものも書けるかなという心境になってきましたね。
─高校生でデビューされて以来、注目を浴び続けてこられたわけですが、その間、読者からの声や期待をどう感じていらっしゃいましたか? 変化を実感されたことはありますか?
どうだろう……、もちろん十代と二十代では、される質問やいただく仕事は違ってきましたが、基本的には若手作家という位置にいて、求められているものは一貫していたのではないかと自分では受け止めています。それが三十歳を過ぎて、結婚、出産を経たことで、これから少しずつ変わってくるのかなと感じ始めているところです。
─これからどんな小説を書いていきたいですか。
私はこれまで、とくに女性の読者の声が気になってきました。ずっと女の人を主人公に書いてきたから、いろんな立場の女の人が私の小説をどう読むのか、いただいた手紙や、ツイッターの感想を読んだりもしてきましたね。私と境遇の近い方に共感してもらうのも嬉しいんですが、状況が変わって読まれなくなってしまったら淋しい。だから、この作品集もそうですが、あまり偏りすぎず、さまざまな女の人を書いていきたいと思っています。二十代の頃、男の人の話を書こうと考えた時期もあったんです。けれど、それ以上に女性というものに興味が出てきたし、女性を書いても読んでくれる男性がいるのもわかりました。自分への期待は、鈍感なのでわからないところもあるのですが、私としては、バリエーションに富んだ女性の人生を発信していきたいと思っています。
聞き手・構成=砂田明子
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【綿矢 りさ 著】
『意識のリボン』
発売中
本体1,300円+税
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綿矢 りさ
わたや・りさ●作家。1984年京都府生まれ。
高校在学中の2001年『インストール』で第38回文藝賞を受賞しデビュー。2004年、19歳の時に『蹴りたい背中』で第130回芥川賞を受賞。著書に『夢を与える』『勝手にふるえてろ』『かわいそうだね?』(大江健三郎賞)『手のひらの京』『私をくいとめて』等。
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