伊集院静さんの新刊『琥珀の夢 小説 鳥井信治郎』(上・下)は、世界でも有数の企業、サントリーの創業者を主人公にした小説です。大阪の両替商の次男として生まれ、船場(せんば)の道修町(どしょうまち)まちの薬種商店に丁稚奉公し、そこで薬種以外にも合成葡萄酒の製造などを学んだ鳥井信治郎。二十歳で自分の店を立ち上げ、苦心の末に赤玉ポートワインを発売し、さらに日本初の国産ウイスキーの製造に着手するという開拓者精神にあふれる信治郎の生き方は、そのまま近代日本が歩んだ道筋を体現してもいます。
本書は、日本経済新聞に連載中(二〇一六年七月一日〜一七年九月五日)から大きな反響を呼んでいました。連載を終えたばかりの伊集院さんにお話を伺いました。
新しいことに挑む、船場商人の土性っ骨
受け継がれる信治郎の「陰徳」
─これまで私小説をテーマに書かれてきた伊集院さんですが、『ノボさん』(二〇一三年十一月)で、はじめて正岡子規という歴史の中の人物を書かれました。今回の『琥珀の夢』は、それに続く伝記小説といってよいかと思いますが、まず、鳥井信治郎という企業人を取り上げた理由をお聞かせいただけますか。
企業人というか、経済人を小説にしようという発想は、私の中にはまったくなかった。さらにいえば、評伝とか伝記小説というものにも、あまり興味がなかったんです。それを意識し始めたのは、小泉政権が提出した個人情報保護法案に対して、城山三郎さんが強く反対したときです。
城山さんがなぜあれだけ強く反対したかといえば、やはり『落日燃ゆ』に代表される伝記小説を書く際に取材や資料公開が著しく制限されるからなんです。のちに法案は結局通ってしまいましたけど。ともかく、そのときに文学の中で評伝や伝記が持つ役割というのは非常に大きいものがあるのだということをはじめて意識して、それが正岡子規につながったと思うんです。
ところが、『ノボさん』の連載中に東日本大震災が起こって、日本人が今後どう生きていけばいいのかを突きつけられました。そうしたときに、参照すべき歴史上の人物を探っていたのだけれど、なかなか見つけることができなかった。どうすればいいのかと考えていたところに、サントリーが震災直後に被災三県に相当な額の現金を届けていたのを知ったんです。あのときには、さまざまな企業や個人が義援金をいくらいくら出したといったニュースが大々的に発表されたけれど、サントリーのそれはほとんど記事にならなかった。
─鳥井信治郎が信条としていた「陰徳」ですね。
そうです。世間に知られないかたちで善行をするという。小説にも書きましたけれど、江戸時代の博多に仙せんpがい和尚という禅僧がいて、その彼に信者、知人がさまざまなものをもってきてくれる。ところが、それに対して仙pは一切御礼をいわなかった。ある人がなぜかと訊いたら、あなた方は施した功徳をいただいたはずだ、なのに自分が下手な礼を口にすると、その功徳を逃がしてしまうと語った。もちろん、これは後でわかったことですが、サントリーの創業者である鳥井信治郎はこの話を自分の半生記の中で語っていて、「陰徳」を自分の信条として守ってきた。それが現在にまで受け継がれているわけです。
もうひとつ、サントリーは離職率が非常に低い企業だということを以前から聞いていました。最初は、給料がいいとか福利厚生がしっかりしているといったことだろうと思っていたのですが、いろいろ聞いてみると、どうもそういう表面上のことだけではないらしい。たとえば社員である旦那さんが亡くなった場合、奥さんが働ける環境にあるならば従業員として採用したり、あれほどの大企業にしてはとても家族的な雰囲気がある会社なのだということがわかった。で、あるとき佐治信忠会長に「いつからできたシステムですか」と訊いたら、「じいさん(信治郎)のときから、一個の大きな家族みたいにやっていた。だから、社員の家族が病気になると、じいさんが自分で薬を届けたりしていた」といって、信治郎じいさんがいかにおもしろい人物だったかをいろいろと教えて下さったんです。
それで興味を持ち始めて調べていくうちに、さっき話した「道しるべ」という半生記が手に入った。それを読むと、どうやって儲けたとかの自慢話はまったく書いていなくて、父親から辛抱を教えてもらったとか、母親からは信仰心と陰徳という考えを教わったとか、そういうことしか書いていない。読んでいるうちに、この鳥井信治郎という人は、もしかしたらこちらの想像以上の人物かもしれないと思いはじめてきた。
さらに調べていくと、おもしろい逸話が次々に出てくる。あの松下幸之助が自転車屋で丁稚をしていたころに信治郎に世話になったとか、関東大震災のときには、海軍の協力で船を仕立てて大阪から東京へ乗り込んで、当時東京で一番大きい洋酒問屋だった国分(こくぶ)商店の国分勘兵衛のところへ出向き、自分の店の未払い伝票を勘兵衛の目の前で破り捨てたとか、社員全員が猛反対したにもかかわらず国産ウイスキーの開発に乗り出したとか─そうしたエピソードをつなげていくと、この人物だけで小説を書き通せるかもしれないという手応えを感じました。
たしかに個々の逸話だけでも際立っているけれど、それを鳥井信治郎という一個の人間の中に重ねていくと、もっと違うものが見えるのではないか、と。その違うものは何かというと、つまるところ、近代以降の日本人の生き方ということになるんです。こんな小さな島国の日本が、国際舞台のいろいろな分野でそれなりの地位を保っているのは、やはり信治郎をはじめとする明治の男たちが築いてきたことの中に何かあるのではないか。それが何なのか? 鳥井信治郎という男の生き方を書いていくことで答えにたどり着けるかもしれない─。それが最初の動機です。
─上下合わせて七百ページ近くの大部な物語ですが、お書きになっている中で、大きな山場だと感じられたのはどの辺りでしょうか。
さきほど少し触れましたが、やはりみんなの反対を押し切って京都の山崎にウイスキーの蒸留所をつくるところでしょうね。あれは山場というより、企業人としては実はあそこが到達点なんです。つまり、きっとあるに違いないと信じる見えない市場(しじょう)に向かってひたむきに突き進んでいく。当時、大阪に商人は何十万人といただろうけれど、そこへ向かっていったのは彼一人だった。熟成させたウイスキーが商品になるのには早くて五年、もしかすると十年かかるかもしれない。それなのに建設費だけで二百万円(現在の金額に換算して十数億円)もの費用がかかり、しかもその間まったく利益を生まない。そんな事業を、一人で押し切っていく─それがいかに不安で、いかに孤独だったか想像がつきません。ただ、その苦悩をあまり書きすぎると情緒がなくなるので、どう書いていくかの塩梅がむずかしかったですね。
苦労を厭わない信治郎というキャラクター
─信治郎が二十歳で興した鳥井商店は、その後寿屋洋酒店、サントリーとなって、町の小売店が世界的な大企業へ発展していくわけですが、そこにはさきほどの家族主義や、信治郎がみずからの経営哲学にした「三方よし」(売り手、買い手、世間の三方が利益を得るという近江商人のモットー)という昔ながらの家業の精神が脈々と受け継がれているようにも思えます。
そう。ただ家業というのとはまた違うんです。たとえば、信治郎は二代目社長の敬三にいっさい酒のつくり方を教えていない。ああいうところは、非常に新しい教育の仕方で、旧いものをただ引き継いでいくのではなく、つねに新しいものに挑戦していくところがある。その精神というのは、どうも船場の商人のいう「土性(どしょ)っ骨(ぽね)」みたいなもので、そうしたものをつくるようなシステムがかつての船場にはあったのでしょう。だから、これまでにも船場で育った人間の中から相当な土性っ骨のあるのが何人も出てきて、その人間が新しいことに挑んでいく。今ベンチャーとかいわれているけれど、そのシステムなり精神なりは日本の商人(あきんど)の世界にも、もともとあったのだと思います。
最初、日経新聞という媒体だから、連載の読者は年配の人が多いのだろうと思っていたのですが、実は若いサラリーマンたちがよく読んでくれていると聞きました。たとえば、若い人がベンチャー企業を興そうとするとき、銀行からの借り入れの仕方とかいうのは、少し勉強したら誰でもわかる。しかし実際には、信治郎が赤玉ポートワインを売り込みに単身四国へ行ったときのように、最後は炎天下の峠道を大八車を曳きながら一人で越えられるか越えられないか、それが成功するかしないかの分かれ道になる。まあ、ひと言でいうと辛抱≠ニいうことになるのだけれど、その辛抱のかたちを文章にしたことで若い人たちの共感を得たのではないかと思っています。
小説としては、その大八車を曳く若者の姿がうまくイメージできるかどうかが鍵になるわけですが、それはキャラクターづくりにもつながっている。たとえば、司馬鷗太郎さんの成功というのは、坂本龍馬というキャラクターをつくり上げたところにあったわけです。龍馬が薩長連合を仲介して、京都の近江屋で殺されたという歴史的事実は変えようがないけれど、そこへ向かっていくのに、司馬さんはあのようなキャラクターに仕立て、それが当時の人たちに広く受け入れられて、以後の龍馬像を決定づけた。
そういう意味では、殴られても蹴られても一向にめげずにつねに前を向いて、必要とあらば一人で大八車を曳いていく、そういう苦労を厭わないこの信治郎というキャラクターがどう受け入れられていくのかが、この小説の評価を左右することにもなるのだと思います。
文体を変えることで小説としての手応えを摑む
─晩年の鷗外は史伝小説に手を染めましたが、伝記小説を書くようになったのは、年齢的なものも関係しているのでしょうか。
いや、それはないと思います。ただ、経験なり時間なりを積み重ねていくことで、ある人物とめぐり逢う機会が多くなるし、向こうから近づいてくることも増えてくるというのはあるかもしれない。といっても、いくら近づいてきたとしても、こちらから手を差し伸べない限りはなにも生まれない。差し伸べた手にしかブドウは落ちてこない、それが大前提ではありますけれど。
それから、今回は少し文章を変えてみました。どう変えたかというと、できる限り修飾語を少なくして、比喩をほとんど使わないよう心がけたんです。それによってずいぶん読みやすくなったようで、連載の一日分があっという間に読めた、という読者の声を耳にしました。
─それと同時に、心理描写も……。
ほとんどしない。ともかく前半部は、意図して事実や出来事を積み重ねていった。多少もたついていると思われてもかまわないから、道修町の成り立ちとか当時の商家のしきたりとかを丁寧に説明していったわけですが、これは必ず後半で重みが出るはずだ、と。実験というわけではないのだけれど、小説としての手応えというのは、実は鮮やかなシーンにあるのではなくて、こういう積み重ねの中にあるのではないかという思いもあって、こういう書き方をしてみたんです。
─そういう文体の中で、いいリズムになっているのが、関西弁ですね。
大変でしたね。関西弁、なかでも船場言葉を手の内へ入れるまでちょっと時間がかかったけれど、一度入ってからはけっこうスムーズに書けました。もちろん現代人が読んでもわかりやすいかたちにアレンジをしてありますけど、実際に大阪で取材をしたときに、この関西弁はよくできていると褒められたので、まずまずだなと。
まあ、『ノボさん』の伊予弁も、今度の関西弁も、どちらも西ということで、山口生まれの私には馴染みがありますからね。これが東北弁で書けといわれたらむずかしいですけれど。
─この連載を終えた後に、日経新聞に掲載されたエッセイの中で、正岡子規と一緒に吉田松陰のことも調べていたと書かれています。
ええ、松陰はまだ継続して調べてはいるのですが、今のところ小説の窓口というか、扉が開かないんですね。その原因は、松陰自体が非常に短い生涯であったことと、松陰の思想は必ずしも明治維新につながらないということがあって、まだとっかかりをつかめていない。
ただ、これまで私小説をずっと書いてきたわけですが、今度の『琥珀の夢』の中に、次の小説のシーズ、種みたいなものが孕まれているかもしれないというのを感じています。それがどんなかたちになっていくのか、楽しみでもあります。
聞き手・構成=増子信一
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伊集院 静
いじゅういん・しずか●作家。1950年山口県生まれ。
著書に『乳房』(吉川英治文学新人賞)『受け月』(直木賞)『機関車先生』(柴田錬三郎賞)『ごろごろ』(吉川英治文学賞)『ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石』(司馬遼太郎賞)『いねむり先生』『伊集院静の「贈る言葉」』『愚者よ、お前がいなくなって淋しくてたまらない』等多数。2016年紫綬褒章を受章。
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