青春と読書
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特集 朝井まかて『最悪の将軍』
インタビュー 〈最悪〉と言われた徳川綱吉の大いなる魅力 朝井まかて
今月発売される朝井まかてさんの新刊は、『最悪の将軍』という、ちょっとドキッとさせられるタイトルです。主人公は、徳川幕府第五代将軍綱吉(つなよし)。綱吉が発令したいわゆる「生類憐れみの令」は、稀代の悪法として、新井白石をはじめ多くの人から批判を浴び、人々は綱吉を「犬公方」と揶揄(やゆ)しました。
しかし、巷間いわれているとおり、ほんとうに綱吉は〈最悪〉の将軍なのか──。さまざまな史料を渉猟(しょうりょう)し、綱吉とその正室・信子(のぶこ)の双方の視点から描くことによって、これまでのイメージを覆し、新たな綱吉像を描いてみせた朝井さん。この斬新な作品はどのように生まれたのか、お話を伺いました。


中継ぎゆえの強み

──直木賞を受賞された『恋歌』は、幕末の歌人、中島歌子の生涯を描いたものですが、その作品に触れて、「(『恋歌』で)厳然とした史実に取り組んでみて、歴史上の人物を自分なりの解釈で描く道も広がったように思える」とおっしゃっています。今回の作品は、まさしく「歴然とした史実」ですね。そのなかでも、綱吉を書いてみようと思われたのは?

 たとえば、悪評高い「生類憐れみの令」は、人間よりも犬を大切にしろといった単純なものではなく、捨子・捨親の禁止、馬の姿を美しく見せるために尻尾を切ったり、腹の筋を伸ばすという風習の禁止、犬を餌とする鷹狩りの禁止といったような、広く生き物の無用な殺生を禁じるさまざまな法令を総括したものなんですね。綱吉にしてみれば、決して民衆を苦しめようとして発したものではなかったはずなのに、結果的には苦しめることになってしまった。そのズレがずっと気になっていたんです。
 政治の歴史においては、当事者が生きている間に結果が出ない施策も多いわけですが、よくよく調べてみると、綱吉の行った政策やあの時代に形成された文化、美意識、マナーなど、その多くは何百年も経て現代の日本人の特質とされているものにつながっていることに気づきました。では綱吉本人は、どういう考えをもってそれらの政策を行ったのか。彼を書くことでそうしたことを問いかけてみたかったんです。

──館林藩という地方の小藩の家門大名にすぎず、傍流であったはずの綱吉に、兄の四代将軍家綱が後嗣をもうけないまま死んだことで将軍職が転がり込んでくる。それに対する綱吉の深い戸惑いから物語は始まります。

 四代の家綱までは、親から子という直系男子に将軍職が受け継がれてきていて、五代の綱吉のときに初めて兄から弟へ継承されたわけです。そうした形は旧来の家臣たちの価値観からいえばあくまでも例外であって、そのことによって綱吉が多少低く見られたところがある。小説にも書きましたけれど、大老の酒井忠清をはじめ主立った老中はみな綱吉を「正統なる嫡系を得るまでの中継ぎ」と思っていたし、綱吉当人もおそらくそのつもりだったと思います。ただ、傍流の中継ぎだからこそ、権力の座に就いている間に自分の考えていたことを思い切ってやってやろうというところがあって、その分、アクセルの踏み方がすごいんですね。
 そのアクセルの踏みようの強さと、諸国鉄砲改め、武家諸法度、生類憐れみの令など、その施策のヴァリエーションの多さにも魅かれました。一体この人はどんな人なんだろうという、強い興味をずっと持ち続けたのが将軍綱吉だったんです。

──それまでの武断政治から文治政治への転換に相当な覚悟をもってのぞんだことを強調されていますね。

 綱吉が将軍職に就いたときは、大坂夏の陣から六十数年しかたっていなくて、まだ、戦国時代の気風が色濃く残っていたわけですね。わたしは尾張藩の藩士・朝日文左衛門の書いた『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)』が大好きなのですが、あの日記で書かれているのはちょうどこの時代なんですね。あれを読んでいると、当時、武士たちの頭のなかがまだまだ戦国時代だということがよくわかる。その一方で、どこかとっても能天気で無責任という──喩えが古いですけど、植木等さんの「スーダラ節」みたいな(笑)──、かなり御しにくい人たちなんです。要するに、現代のわたしたちがもっている武士というイメージができる以前で、ストイックで質実剛健という武士のイメージの基礎がつくられたのも綱吉政権以降ではないかと思います。そうしたことも含めて、現代につながる日本人の価値観のベースがつくられた綱吉の時代にとても興味がありました。
 それから綱吉には、京文化を取り入れ、能好きであったという雅な心をもつ一方で、政策を遂行するに当たってはたとえ周囲の批判があっても強引に推し進めていくというポピュリズムとは真逆な強さがある。その硬軟両極なところも非常に興味深いところです。

度重なる天災に苦悩する

──この元禄を中心とする時代には、名だたる有名人がひしめいています。それだけに誰に焦点を当てるかの見極めには苦労されたのではないですか。たとえば、ここでは柳沢保明(やすあきら)(吉保[よしやす])は抑え気味に書かれていますね。

 最初の構想では、吉保をもっと前面に出すつもりだったのですが、綱吉と信子の視点を交互に書いていくことに決めた時点で、むしろ公家の世界に重点を置いて、少し吉保を後景に退かせたほうがいいだろうと思ったんです。

──江戸城の一室に綱吉と信子、そして綱吉の母である桂昌院の三人とで小さな公家の世界がつくられているように感じました。

 将軍家と公家の考え方、ひいては帝(みかど)という存在とのバランスをうまくとるようになったのも、綱吉の時代からなんですね。綱吉自身、公家の文化に憧れをもっていて、それが文治政治の核にもなっています。
 それから、桂昌院の出自についてはいろいろな説がありますけれども、身分が低い家に生まれたことは間違いない。ですから、桂昌院にはわざと「何とかどす」という言葉を使わせています。身分の高い人は「どす」なんていわないですからね。そういうところで、鷹司(たかつかさ)家という名門の出である信子との違いを出すようにしました。

──ここで描かれる綱吉は、「民は国の本なり」と考え、人間も動物も含めてすべての命がこの国のもとなのだということを「生類憐れみの令」という形で打ち出すわけですね。ところが、その自分の政策は庶民に大いに曲解されてしまっている。そうした矛盾に悩む綱吉を傍で支えるのが妻の信子で、夫婦のあり方も、この小説の大きな柱になっています。

 傍流の将軍として、ある意味孤立している綱吉にとって信子は最良のキャッチボールの相手なわけですね。彼女にいろいろなことを投げかけて、その反応を見る。もちろん、それによって政治上の判断を変えることはないのですが、すぐ傍に彼女のような良き理解者がいたことは綱吉にとって大きな支えだったと思います。

──ドイツの医師ケンペルが江戸城を訪れた際に、綱吉は信子をケンペルに引き合わせる。あの場面には、綱吉の信子への信頼が感じられます。

 ケンペルは帰国後に書いた『日本誌』のなかで、綱吉の政策、ことに「生類憐れみの令」に対して非常に高い評価をしています。幕末にやってきたいろいろな外国人が、日本人は生き物を大切にするし、どこを旅しても安全だと書いていますが、ケンペルはそのことにいち早く驚嘆している。その記述を読んだことも綱吉に興味を持ったことの一因です。ケンペル自身、当時のヨーロッパの情勢を非常に正確にとらえる政治的センスの持ち主ですから、そういう意味でも、綱吉の政治的手腕をもう少し評価すべきなのではないかと、書きながら思いました。

──元禄時代というと、なんとなく太平楽で華やかなイメージですが、かなり大規模な天災がいくつも起きているのですね。

 そうなんですよ。明暦の大火(一六五七)に始まり、元禄大地震(一七〇三)、宝永大地震(一七〇七年十月二十八日)、そしてその地震に続いて起きた富士山の大噴火(同年十二月十六日)と、これでもかというぐらいに大規模な災害に見舞われる。綱吉にしてみれば、これほどまでに天変地異が続くのは、自分に為政者としての徳がないからだということになるわけですね。
 綱吉は、武断政治から文治政治への転換を図るべく諸大名をコントロールして、戦をしなくてもいい「泰平の世」を目指すべく懸命になるわけですが、その文治政治のトップにいる自分の徳が足りずにこれだけの天変地異が起きるという事態を突きつけられるのは、どれほどの絶望だろうかと。とはいえ、それでも寝込むわけにはいかない。相当な鬱屈を抱えていただろうと思います。二人の視点を交互に書くことで、綱吉が決して口には出せなかっただろう思いを、信子を通していわせることができました。

想定していたゴールにたどり着く

──題材が題材だけに、ものすごい量の史料を読まれたのだろうと推察いたしますが。

 今回も史料にはたいへんお世話になりました。もし両極端の説があれば、どちらの史料も読むのですが、連載だったので、いったん書いて脱稿すると、次に書くときはその史料を忘れているんです。仕方がないので、もう一度ぶわーっと、鼻血が出そうなぐらいの勢いで読む(笑)。
 忠臣蔵なら忠臣蔵関係の史料をダーッと読んでいくわけですけど、いざ書くときになったら、いちいち見ながら書いてはいられませんから、ひたすら当事者の気持ちに寄り添っていく。たとえば忠臣蔵の事件は、綱吉にしてみれば「何すんねん」という世界なわけですよ。いろいろな儀式を執り行うのに、なにかマニュアルがあるわけではないですから、とにかくすぐれた年長者、知識を持っている人に教えを請わないといけない。それはある意味、年長者が尊ばれる人間的な仕組みではあって、だから吉良が威張るのは無理もないことで、それを恨んで江戸城内で斬りつけるなどというのは、許すべからざることなんです。そこを後世の価値観でとらえると、忠義なる部下たちが主君の恨みを見事に晴らしたという、芝居の『仮名手本忠臣蔵』の世界みたいなことになる。
 現に、先ほどの『鸚鵡籠中記』には、忠臣蔵のことは何も触れられていない。要するに、当時の武士たちにとってあの裁断というのは、ごく当然のこととして受けとめられていたのだろうと思います。あの事件に物語性を感じたのはむしろ民衆のほうだったのかもしれないですね。

──綱吉は、忠臣蔵に限らず、あくまでも法に則った処断を下していく。そのぶれない一貫性が印象的です。

 そうですね。ただ、ぶれないがために、ある意味嫌われたかもしれない。嫌われたというよりも、人気がなかった(笑)。
 書きながら恐れていたのは、ひいきの引き倒しになるんじゃないかということでした。歴史小説の場合、必ず歴史全体のある部分を切り取らなければならないわけですが、作者にとって都合のいい題材、材料だけを取り入れて書くと、とんでもなく偏ったものになってしまう。もちろん小説なので、ある種ファンタジーに近いようなフィクションでもいいのですが、今回はせっかく綱吉と信子の視点で書いているのだから、なんとか人間としての綱吉を浮かび上がらせたかった。そうすると、やはり広範囲な史料に当たらざるをえないのですが、史料にとらわれすぎると身動きできなくなる。その辺りの塩梅がむずかしかったですね。
 ただ、書いている最中にとても手応えを感じました。書くこと自体はものすごく苦しかったのですが、この人のことをもっともっと理解したいという思いが前に進めさせてくれたのだと思います。ほんとうは、少しはゆったりする場面も入れたかったのですが、なにしろ事件が多すぎて、なんとなくのんびりした雰囲気なのは冒頭だけで、あとはもうへとへとでした(笑)。

──最後の場面は、最初から想定されていたのですか。

 わたしは、ラストのシーンはあまり想定せずに、書いているうちに、わあ、こんなのできちゃったということがほとんどなんですけど、この作品に関しては、プロットの作成時にラストシーンが浮かんだ。こんなことが起きたのは、初めてなんです。気がついたら、最初思い浮かんでいたシーンに自然に行き着いたという感じですね。
 もちろん、そこへ至る経路はまっすぐなものではなく、最初は泳ぐつもりがいきなり走っていたりとか、思っていた以上に曲がりくねった道でしたけれど、たくまずしてゴールは一致したという感じで、ちょっと不思議な感覚でした。

──無事、ゴールを果たしてみていかがですか。

 正直よくわかりません。多分、読んでいただいたお一人一人が違うとらえ方をなさると思うので。ただ、これを読んで従来の綱吉の評価を変えていただこうと思っているわけではありません。わたしの書いたのは、あくまでも〈最悪の将軍〉と呼ばれた男の人生です。そして、その妻の人生です。ただ、少し見方を変えるだけで、人も政治もそれまで当たり前と思っていたものとはこんなにも違った姿を現す。そういう歴史のおもしろさも感じていただければと思っています。

聞き手・構成=増子信一
【朝井まかて 著】
『最悪の将軍』
9月26日発売・単行本
本体1,600 円+税
プロフィール
朝井まかて
あさい・まかて●作家。
1959年大阪府生まれ。2008年第3回小説現代長編新人賞奨励賞を受賞してデビュー。受賞作は『花競べ 向嶋なずな屋繁盛記』と改題。13年『恋歌』で本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。14年、同書で第150回直木賞を受賞。同年『阿蘭陀西鶴』で第31回織田作之助賞を受賞。著書に『藪医ふらここ堂』『眩』『残り者』『落陽』等多数。
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