青春と読書
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特集  『La Vie en Rose ラヴィアンローズ』
インタビュー 初めて描いた殺意 村山由佳
薔薇の咲き誇る家で優しい夫と暮らす咲季子(さきこ)。フラワーアレンジメントの教室は評判で、平穏な毎日が続くはずだった。あの日、年下の男と出会うまでは……。
めくるめく恋は彼女の世界を一変させ、夫の言動が酷いモラハラなのだと気づいたとき──。
村山由佳さんの新刊『La Vie en Rose ラヴィアンローズ』は、自由を求めて踏み出した女性が直面する、人生の光と闇を描いた長編小説です。
刊行にあたってお話をうかがいました。


殺意を抱いた瞬間はあるか

── La Vie en Rose =薔薇色の人生というと、幸せで満ち足りた人生を思い浮かべますが、ここで描かれるのはある意味、とても怖い人生ですね。今回の作品は編集者のリクエストから始まったそうですけれど、まずはそのお話からうかがえますか。

 この物語の誕生の瞬間はよくおぼえています。三年前、『天使の柩』のサイン会をさせていただいた後の食事会でした。話の流れで、日常、本気で殺意を抱く瞬間はまずないという話題になって、わたし、「ありますよ」って答えたんです。
 かつて身近にいた男性からあらゆる言葉で追い詰められて、こうまで言われたらもうおしまいだと思ったとき、目の前に包丁がずらっと並んでいる。「ああ、人というのは、こういうふうに殺意を覚えるものなのだな」と。その瞬間は決して激情というのではなく、きわめてしんと冷めた感情なんですね。そのときの、窓の外の庭を蜜蜂が飛び、花々が咲き乱れている情景や、差し込む光が白い陶製のシンクに反射して天井まで輝くさまが映像として頭に残っています。ここを踏み越えてしまったらきっと──という瞬間でした。
 物書きですから、情景描写も含めて詳細に話したんです。そうしたら、聞いていた編集者が「鳥肌が立ちます。いまの話はそのまま小説の一場面になるから、その場面のためだけに一作書いてください」と熱心に口説いて下さって。それがこの物語の始まりです。

──物語に登場する道彦と咲季子という夫婦においては、夫が妻の咲季子を自立させず、自分の支配下に置きたいがために、あらゆる言葉の暴力を行使します。傍から見たらなぜ別れないのか疑問に思ってしまう典型的なモラハラ(モラルハラスメント)であるとともに、共依存関係でもありますね。

 夫婦間のモラハラの問題が難しいのは、当事者同士では問題が見えづらいことにあると思います。道彦は自分の言葉が妻を傷つけているとは思っていないし、咲季子は酷い言葉を浴びせられながらも夫の愛情をどこかで感じていて、悪いのは自分ではないかと思い込んでしまう。ことに体力的に劣る女性の場合、夫婦という男女の最小単位のなかで愛情と暴力に交互にさらされていくと、客観的な判断がつかずに真実が見えなくなっていくんですね。さらに、そういう状況下では、相手の意思に自分を預けているほうが楽だと思ってしまう。不自由だけれど物事の矢面に立たなくて済むので、言葉が適切かどうかわかりませんが、「守られている」というふうにも感じてしまうんです。
 このような共依存にある男女関係は、潜在的なものも含め、じつは多いのではないでしょうか。もちろん夫から妻だけでなく、その逆のDVやモラハラもあります。ただ、そのベースにあるのが歪んだかたちではあれ、「愛情」だということで、当事者同士も問題を客観的に見られなくなっているんですね。

咲季子に降り注いだ光

──妻を自分の監視下に置いて、なるべく外部との接触を断とうとする道彦は、咲季子に体の線が出ない服しか着させない、外出に門限を設けるなどの制約を課します。さらには仕事相手が男性だとわかっただけで異様に嫉妬心を燃やす。一方で、料理の腕前は高く、牛頬肉の赤ワイン煮という手の込んだ品を用意して妻の帰りを待つこともある。

 そうした一つ一つが咲季子への愛情であると同時に束縛でもある。非常に巧妙なかたちで彼女を囲い込んで、檻の中に閉じ込めているわけです。それが決して悪意からだけではないことがいちばんの問題ではないでしょうか。夫である自分がいないと妻はだめになると心から思っているはずだし、自分の傍にいる彼女を彼なりにいとおしく感じている。

──そうした両義的な感情の象徴的な表れが美味しい料理なんですね。

 妻が離れていってしまうのが怖いんでしょうね。咲季子が打ち合せから戻ってきて、急いで夕飯の仕度をしようとすると、道彦が料理を作って待っていた。そのくせ、仕事相手の男性のことをしつこく聞いてくる。一通りの文句を言い終わった後で、「牛頬肉の赤ワイン煮は、柔らかくて美味しかった」という一行が出てきますが、連載時「あの一行に鳥肌が立った」という感想をいただきました。ついさっきまで声を荒らげていた道彦が、ふいにケロッと収まってまた二人で食事をする。道彦という男は、二人のあいだに起きた衝突をそうやって日々うやむやにしていくんです。

──しかし、そのような関係は、外からのきっかけが一つでもあれば解消されてしまう。咲季子の場合は、仕事で出会った堂本というデザイナーと関係を持ちます。男のほうから誘ってきたとはいえ、夫を裏切ったことになる。物語はあそこから一層スリリングになっていきますね。

 思わぬかたちで自分に非をつくった咲季子は、道彦に対して不満を言える立場ではなくなる。しかも、堂本という男も決してナイトではなかった。あとからわかってくることですが、これみよがしに都内にかまえているオフィスや、見せびらかすように表に停めた高級輸入車はすべて虚飾で、メッキだった。堂本は咲季子の自立の手助けになったし、自分の置かれている立場に気づくきっかけにはなったけれど、ほんとうに身を捧げるほど価値のある男だったかといえば、決してそうではない。結局、彼女は孤独の中で立っているしかないんです。
 でも、堂本との恋が始まったときの、あのめくるめくような時間は、誰の人生にも平等に降り注ぐものではない。人生の中にそういう時間を一瞬でも持った人というのは、決して多くはない。それを手に入れてしまったかわりに、やはり何かしら大きなものを引きかえに差し出さなきゃいけなかったわけですね。咲季子も犠牲を払うことによって、ごくごく普通のいまの生活を維持していては、決して感じることのなかったであろう一瞬の輝きに照らされたのだと思います。

美しいはずの薔薇が

──そんな咲季子が大切にしているのが庭の薔薇です。道彦との共依存とはまた異なる、薔薇との共依存があるようにも読めて、美しいはずの薔薇がだんだんと怖くすら思えてきました。

 おっしゃるとおりで、彼女にとっての庭というのは、唯一の自由の場であると同時に、透明な檻でもあるんです。咲季子は、結婚後、両親から譲られた自分の生家に夫とともに暮らしています。庭には幼少期から植わっている大木があり、彼女の秘密をすべて知っている。彼女が庭を守っていると同時に、庭も彼女を守っている。咲季子は本来、あの庭さえあれば人生が完結するような人物なんですね。ですから、その庭を否定されることは、自分の尊厳を否定されることと同義で、耐えがたいことなんです。
 それに、薔薇でもなんでも、小さい鉢に植えて根が回りきるとそれ以上は大きく育たないんですね。やっぱり成長のどこかの時期で地面に下ろすか、あるいは鉢を大きくしてやるかが必要になる。

──道彦にしてみたら、妻は小さい鉢植えのまま、手元に置きたいという感じなのでしょうか。でも、生きている彼女はどんどん根を張って大きくなりたいと思うわけですよね。

 彼女はもっと花を咲かせたいし、葉も伸ばしたい。けれども鉢が小さいからそれ以上成長できないでいた。自分を取り囲む道彦という鉢の存在に気づいてしまったが最後、あらゆることが耐えがたくなる。まるでオセロの白が一瞬ですべて黒にひっくり返ってしまうかのように。

──咲季子の庭でいえば、薔薇のつぼみの話も印象的に描かれています。つぼみがまだ固いまま切られてしまうと、花は決して開かないという。

 そうなんです。つぼみのときに切ると二度と咲かないんです。ですから、花屋でも必ず花弁の色が見えてきてから売っていますよね。

──つぼみを切られることは、咲季子にとっては自分を殺されたのと同じですよね。

 まさに、その通りです。けれども、道彦はつぼみが固い薔薇の首を切ってしまう。妻から何度も、それだけはしてはだめだと聞かされていたはずなのに。結局、彼は、妻の話なんか真剣に受けとめていないし、彼女にとって何がいちばん大切なのか、何をされればいちばん傷つくかも、ほとんど考えていないんです。

──つぼみの一件も一つの引き金となって、彼女は夫を殺めてしまう。村山さんが小説の中で殺人をお書きになる。衝撃的でした。

 二十年以上作家を続けてきて、登場人物が自ら手を下すかたちで人が死ぬことを描いたのは、この『La Vie en Rose ラヴィアンローズ』が初めてです。殺人の場面を描写するのは、心身ともに非常に辛かったのを覚えています。

──あの場面はとてもリアルでした。さぞかし消耗されたことと思います。

 ものすごく疲れました(苦笑)。死後硬直の始まった男性の死体を、小柄な女性がひとりで体重かけて折って、庭に大きな穴を掘って埋めて……という具体的な描写のために一行一行を書く行為は、実際に自分が殺人を犯していくような感覚がありました。わたしにとって小説の言葉というものは、わたし自身の体の中を一旦通さないと出てきません。それこそ形容詞の一つから、てにをはの一つにいたるすべてを体の中から絞り出すようにして書くわけです。ですからその場面を書き終えたときには、本当に一つの殺人を終え、一つの死体を埋めたという感じでしたね。
 咲季子にとっては一刻も早く庭に埋めるということがきわめて切実で、そういう緊迫感は書いている自分の中にも常にありました。
 彼女に守るものが何もなければ、自首するなり、誰かに相談するなりという選択肢もあったのかもしれません。でも、彼女にそういう気持ちはない。なぜなら薔薇の庭を世話する者は自分しかいないからです。咲季子が殺人を隠し通そうとするのは、決して堂本という男のためではなくて、あの庭のためなんですね。

庭と人生

──これまでの村山作品にも性愛の描写はありましたが、『LaVie en Rose ラヴィアンローズ』では、そうした官能的な描写とともに、同じ人物による殺人の場面もある。濃厚さの比重はどちらにも差がないように読みました。

 それはかなり意図して書いたところです。生の象徴である性愛と、一人の女性が人を殺めることの両方の重みが等しく描かれていないと、物語としてそもそも殺人そのものに必然性がなくなってしまう。彼女にとって堂本との出会いとは、生きている実感を初めて得た瞬間でした。あの殺人は、そうした自分が生きた輝きと引きかえに起こしたことなんです。

──咲季子が手入れをする庭の描写にも同じ濃さがありますね。むせ返るような感じがどの場面からも立ち上ってくるようです。一旦自分の体の中を通すというお話でしたが、執筆を終えて、なにか抜けた感じというのはありますか。

 以前『放蕩記』という作品を同じく集英社で書かせていただきました。あれはわたしと母のことをモデルにした小説で、書き上げたときに、それまで自分の中で説明しがたかった関係性なり、物事なり、わだかまりなりといったものに、一冊の長い小説を費やして名前をつけ終えた感じがしました。一つの墓標を立てたともいえるでしょうか。
 それになぞらえれば、『La Vie en Rose ラヴィアンローズ』は、かつてのわたしと男性の関係性で自分が引きずっていたものにようやく墓標を立てることができたような感じです。きっとそういうお墓をつくれずに苦しんでいる女性たちがたくさんいると思いますから、この物語が何かの気づきになったり、あるいは疑似体験のように読んで胸のうちをすっとさせていただけたらと思います。

──読んだ自分の体を通して、そういう出来事や体験から決別することができるかもしれませんよね。

 この物語がそんな存在になれたらうれしいですね。また逆に、道彦と同じように相手の女性を支配している男性が読んで、怖いなと気づいてもらえたらいいなとも思います。

──薔薇の香りに始まり薔薇の香りで完結する小説でしたが、作中で流れるエディット・ピアフの『La Vie en Rose』が題名になっています。あの歌はお好きなんですか。

 大好きでいつも聴いている、というほどではないんですけれども、編集者と打ち合わせをしていくなかで、主人公が薔薇を育てていることや、そのつぼみを切られたことが殺意につながること、いちばん美しい薔薇を見ながら彼女が一人で佇んでいるといった場面から、いっそ主人公の人生そのものを薔薇と結びつけていこうと。だったらエディット・ピアフのあの名曲しかないと連想して、骨組みから題名までがとんとんとひといきにできてしまったんです。

──最後、咲季子がある思いを抱いて薔薇を眺め、そこにピアフの歌が流れています。あの歌の歌詞の「わたしは幸せよ」という言葉は、『風と共に去りぬ』でスカーレットがいう「私にはタラ(故郷の農園)がある」と近いものがありますね。

 そうですね。男より何より、結局自分にはこの土地があるという。わたし自身のことを申し上げますと、数年前にかつての夫と暮らした鴨川を出奔して、東京に何年か暮らして、そこから軽井沢に移って現在にいたるわけですが、それぞれの場所でそれぞれ得るものはあったとは思うんですけれども、東京では何より地べたがないことが辛かった。土がいじれない、花を咲かせられないということがほんとうに苦痛でした。軽井沢に越したときに、鴨川のときのような農場はできないにせよ、自分で面倒を見られる庭があるというのは救いでした。庭ってやがて人生そのものになっていくんですよね。
 物語のなかでいくら殺人を犯そうが、どれほどの込み入った恋愛を書こうが、庭を見ると正気に返るというか……。庭って嘘をつかないんです。庭いじりをしながら、自分に嘘をつかないですむ場所があることの救いというものがほんとうにリアルなものとして感じられる。庭と人生という意味でも、この『La Vie en Rose ラヴィアンローズ』は、今のわたしの実感が濃密に詰まった物語です。


聞き手=宮内千和子/構成=増子信一
【村山由佳 著】
『La Vie en Rose ラヴィアンローズ』
7月26日発売・単行本
本体1,500 円+税
プロフィール
村山由佳
むらやま●ゆか作家。
1964年東京都生まれ。立教大学文学部卒業。93年『天使の卵 エンジェルス・エッグ』で小説すばる新人賞を受賞。著書に『星々の船』(直木賞)『ダブル・ファンタジー』(柴田錬三郎賞・中央公論文芸賞・島清恋愛文学賞)『天使の柩』『ありふれた愛じゃない』『ワンダフル・ワールド』等多数。
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