青春と読書
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桐野夏生『バラカ』
ロングインタビュー 震災後の混乱や恐怖や怒りを同時進行的に書く 桐野夏生
桐野夏生さんの最新刊『バラカ』は、東日本大震災にともなう福島の原発事故により、日本の首都を大阪に移転せざるを得ないほど大打撃を受けてしまった世界を舞台に、放射能警戒区域で保護された一人の少女「バラカ」の数奇な運命を追った長編小説です。
実の両親を知らず、後に甲状腺ガンの手術によって首にネックレスのような傷跡を持ったバラカは、日本各地を転々とする中で、ときに「反原発運動」または「棄民」の象徴として、ときに「原発推進派」の象徴として、大人たちの様々な思惑≠ノ翻弄されていく。そんな境遇に悲観しながらも、大切な人々との絆に希望を見出し力強く生きるバラカと、彼女の周囲でそれぞれの苦悩や葛藤にあえぎながら生きる大人たちの姿が、重層的に描かれていきます。 「小説すばる」での約四年半にわたる連載を経て書き上げた本作の単行本化にあたって、桐野さんにお話を伺いました。


震災後に練り直した物語の構想

──「バラカ」の連載は「小説すばる」二〇一一年八月号から始まっています。執筆の準備は震災の前からされていたそうですが、震災はどんな影響を与えましたか。

 連載を始める前は、どんな話にしようかといつも悩むんですが、そのときもあれこれ悩んで、父親が、いなくなった娘を探しに行く話はどうだろうと考えました。私は、混沌とした場所から始めて物語の芯をとらえていく、というやり方をいつもするので、まずはドバイという人工的な街を見てみたい、と思い立ち、取材に行ったんです。
 巨額の金を投じ、海水を淡水化して砂漠を緑地に変えるような、買えないものは何ひとつないようなドバイで、人工のスキー場まである巨大なショッピングモールを見て、この場所で行方不明になった子供を父親が探す話、というところまでできました。日本に戻って、さあ書こう、と思っていた矢先に、三・一一の大震災が起きたんです。
 今まで経験したことがない天変地異に見舞われて、たくさんの命が失われました。そして、その大きな悲劇の後に続く原発の事故。これらを目の当たりにしたとき、作家として何もなかったような話を書けるだろうかと自問して、それはできないと思ったんですね。じゃあ、まったく違う話にしようと、連載開始を少し先に延ばしてもらい、構想を練り直しました。
 ちょうどそのとき、豊洲のタワーマンションを舞台にした「ハピネス」という小説を女性誌に連載していたんです。あのあたりは、断水したり停電したり、生命の危機すら感じるであろう状況だったんですけど、連載が始まって二年たって小説の方向が定まっていたこともあり、震災を書くことはできませんでした。
 すでに書き進めていた小説がその点では不自由だったこともあって、これから始める連載では、震災後の混乱や恐怖や怒り──今も自分の中にありますけど──そういったものをそのまま同時進行的に書いていったら一体どんなものができるだろう、と書き始めたのがこの小説です。
 担当編集者も同じ思いだったようで、じゃあ、やってみましょうということになり、書き出したのが、被災地域に老人のボランティアが犬や猫を探しに行く、というプロローグです。あの話は当時、本当にすぐそこにあるできごとだったんです。

──避難するときに、ペットや家畜を置いていかざるをえなかった、という話は、確かによく報じられていました。

 けれども、その時点では状況がよくわからなかったんですね。津波の被災地の復興は──もちろん今も復興なんてしていませんけど──それでもまだなんとなく道筋のようなものは見えるけれども、原発事故の避難地域に関しては当時、この先どうなっていくのか、まったくわかりませんでした。そのままの姿を描くというのは難しく、現実を大きく超える設定、被害がさらに広範囲に及び、首都は大阪に移転している、という設定の中で書くことにしました。
 東日本全部が壊滅している、ある意味、近未来的で、もしこういうことが起きたら、という「ホワット・イフ(仮定)」の状況をつくらざるをえなかったのは、連載が同時進行的だったからで、もう少し時間がたっていたら、また別の書き方を選んだかもしれません。

──当時の空気が小説に反映されて、あの頃の混乱した状況をまざまざと思い出しました。何が正しくて何が誤った情報なのか、そのつど判断しながら書く、というのは大変な作業だったと思いますが。

 何が正しいかは今でもよくわかっていないですけど。こんなわけのわからないものを抱えてしまった国って、ものすごく大変な状況に置かれていると、改めて思います。

──しかもその架空の設定は、本当にそういう状況になっていたかもしれないものなので、心して読みました。

 もうほとんど忘れられているかもしれませんけど、あのとき確かにすごく危機的な状況がありましたよね。何をやってもだめで、東京消防庁の人が決死隊みたいにして行って、上空からヘリで原発に放水したりしたじゃないですか。
 偶然にも助けられて現状の被害で食い止められましたけど、もし何かひとつでも機能しなかったら、もっととんでもないことになっていたかもしれない、という意味の「ホワット・イフ」でもあるわけですね。

「バラカ」の運命を握る大人たちの存在

──プロローグで、「爺さん決死隊」の豊田(とよだ)が、農家の納屋で偶然、赤ん坊を発見し、その子が発した言葉が「ばらか」だったことで「薔薇香」という名前を与えられます。ドバイのショッピングモールにあるベビー・スーク(赤ん坊の闇市場)で売られている子供にはみなこの「神の恩寵」を意味する名前がつけられているという設定ですが、これはドバイ取材で思いついた名前ですか?

 そうではなくて、バラカという名前を決めたのは、スペインの詩人ロルカについて書かれた本を読んでいて、彼が「バラカ」という名前の劇団をやっていた、と知ったからなんです。バラカっていうのはいわゆる「バラック小屋」のバラックのことです。要するに、仮設の建物で、あちこち移動するようなイメージなんでしょう。バラカには、アラビア語で「神の恩寵」という意味もある、と知って、この名前に決めました。

──日系ブラジル人の両親のもとで、日本に生まれながらドバイのスークで売られたり、日本に戻れば被災して血のつながりのない老人と一緒に各地をぼろぼろのバンで移動したり、その後も身柄を拘束されて脱出したりと、さまざまな場所を転々としながら身ひとつでサバイバルする彼女の運命を象徴するような名前ですね。

 割と軽い気持ちでつけたんですけど、確かにそうですね(笑)。薔薇香という子供の造型は考えあぐねました。薔薇香のことを「棄民の象徴」だと言うせりふが小説に出てきますけど、はじめは、象徴として、聖性をもう少し付与しようかなとも思ったんです。奇跡を起こしたりする存在にすることを考えたんですが、結局は、生身の子供で、生きるうえで違和感をたくさん持っている少女、ということにしました。

──プロローグに続く章では震災前に時間がさかのぼります。出版社に勤める沙羅(さら)と、テレビ局勤務の優子。ともに四十代独身で、恵まれた環境にいながら、もうひとつ充たされない。沙羅や優子の焦燥感がすごくリアルに描かれています。沙羅が、結婚しないまま子供だけをほしがったことで、ストーリーが動き出します。

 仕事で一生懸命やっている女性がこのぐらいの年齢になって、ふと気がつくと独身だったり、結婚はしていても子供はいなかったりしたとき、子供を持つかどうかというのは、すごい悩みどころだと思うんですね。
 そういうときにベビー・スークみたいなものと出会ったら、彼女たちはどう受け止めるだろう、と。私の知り合いのアメリカ人女性から、「養子をもらう順番が来た」という話を聞いたことがあるんです。彼女は独身ですけど、子供がほしくて、前から申し込んでずっと待っていて、ついに自分の番が来たんですね。アメリカに帰って子育てをすると聞いて、そういう人生もあるんだと、はっとさせられました。一人で生きていける女の人が、自分で産まなくても赤ちゃんを育てたい、という発想は面白いな、と思って。ベビー・スークというのはフィクションですけど、そこで子供をもらってくる計画に沙羅が固執する、という展開にしました。

──沙羅と優子はドバイに行き、お金を払って女児(のちの薔薇香)を東京へ連れ帰り「光(ひかり)」と名づけます。沙羅はその後、優子の学生時代の恋人だった川島と結婚、妊娠したことで、自分になつこうとしない「光」を持て余し、優子に預けて単身、川島の赴任先である仙台に向かい、被災します。この川島という人物がすごく強烈で、最初の登場場面から、徐々に印象が変わっていくようですが。

 最初に登場したときは、子供がほしい四十代の仕事を持つ女性たちにかかわりのある男として、ちょっと出すぐらいのつもりだったんですが、そういう女性に悪意を持つ男もいるだろう、と思いつき、それからだんだん悪魔的な人物になっていきましたね。

──川島が抱く強いミソジニー(女性憎悪)も、小説のひとつのテーマになっています。

 小説の中に出てくるのはかなり極端な形ですけど、ミソジニーというのは日本社会に根強くあるんじゃないかと最近、感じます。私の周りの若い女性たちからもそう聞きますね。

──男性に伍して働く優子や沙羅の中にも、ミソジニーの裏返しのような面をちょっと感じました。

 男嫌い、というのではないけれど、彼女たちもどこかねじ曲がっています。『バラカ』は、いなくなった子供を追う物語ですが、その一方に子供をほしがる女がいて、彼女たちは愛情からほしがるのではなく、自分が生きていくために必要な道具として、子供を欲しているわけですから。

──いなくなった子供を追うのは薔薇香の実の父親であるパウロですが、沙羅との結婚で義父の立場になった川島も追っています。さらに、他人でしかない豊田老人が、薔薇香にとっては父以上の、ただひとり、心を許せる存在として描かれます。

 小説の中では、アイデンティティがよくわからない人を書きたいんですね。それで薔薇香の実父のパウロを、日本で働く日系ブラジル人ということにして、ドバイ取材の後で、群馬県のブラジル人がたくさんいる街に行ってみました。少しカルト的なキリスト教教会の信者がいるのを知り、これこそ世界、これが今の日本の姿だな、と思って、パウロの妻、薔薇香の母親であるローザが教会にのめりこんでいく、という設定を取り入れました。
 パウロのことは書いているうちに、結構ずるい男じゃないかと思えてきて、急に魅力が褪せました(笑)。それで、突然、自分に全能感を持ったり、家庭を壊すものとしてあれだけ忌避していた牧師のヨシザキになりかわったり、変な方向に進んでいって、薔薇香にとっては、血のつながりはなくても豊田老人といるほうがずっといいんじゃないかと、自分の気持ちが変わっていきましたね。

──パウロと川島を結ぶ点に位置する、川島と恋愛関係にあったヨシザキも、複雑で謎めいています。ヨシザキの闇が、川島の悪魔性を引き出したように思えますが、川島の悪は、神の存在もしくは不在を証明しようとするようなものなんでしょうか。

 ある意味、そうかもしれないですね。悪を行うことで神の存在を確認する。あるいは、神を試す。川島やヨシザキのような複合的な人物が出てきて、この小説を揺り動かしていくので、どうしても全体が長くならざるをえなかったところがあります。
 ブラジルの宗教が専門の研究者に、ブラジル人の心理などをいろいろ聞いたんですけど、たとえば自分たちの教会の牧師がゲイだとわかれば、信者はすごくショックを受けると思います、ということでした。ヨシザキ自身は男性しか愛せないのに、牧師として同性愛を悪魔の所業として説教をする、というのは相当な苦しみだと思います。

小説世界に映る、現実世界の空気

──小説の後半は二〇一九年、震災から八年後に時間が移ります。品物のように売られ、赤ん坊のときに放射線量の高い地域に放置されて甲状腺ガンを患うなど、まだ十歳の小学生である薔薇香に与えられた運命は過酷です。それでも状況に流されずに自分を保とうとする彼女の強さはどこから来るんでしょう。

 何者も受け入れない、ということじゃないでしょうか。
 私自身、書いていてちょっと迷ったのが、幼いころの彼女を撮影した動画の存在です。優子が自分のアイフォンに残していたその動画は薔薇香のたったひとつのよりどころで、連載のときの彼女は、もっと動画に執着していたんですね。けれども、本にするために原稿に手を入れていて、この動画を振り捨ててこそ薔薇香は強くなるんじゃないかと思いました。
 父親も母親もいなくて、自分がどこの誰かもわからず、ルーツを求めている人間にしてみたら、自分の幼いときの映像なんてなかなか捨てられないと思うんですけど、まだ小さな十歳ぐらいの子供にそれを捨てる勇気があったとしたら、それはすごいことなんじゃないかと。アイフォンを置いて出て行く決意をしたところから、また小説がちょっと変わった気がします。

──大きな災害が起きた後の、現実ではない日本を同時進行で書いたことで、現実で起きていることが小説にも反映されていたり、逆に虚構の世界のはずなのに、ところどころで、これは今の日本の現実そのものの深奥に触っているんじゃないか、と思う部分もあります。

 そう、何かふたつの世界をつなぐパイプがあるみたいな感じでしたね。
 現実から少しずれた世界を描くというのはあまりやったことがないんですが、不思議なものを書いている感触がありました。もちろん書いたものというのはすべて虚構ですけど、その虚構が現実とリンクするようでもあり、でも、どの部分がリンクしているのかは誰も検証できないことでもあります。
 震災が起きてからこの五年の間に、あっという間に日本の空気が変わりましたよね。秘密保護法がいつのまにか成立したり、安保関連法が決まったり。小説の中に、クー・クラックス・クランをまねてフィリピンから来た少女を脅かす人間が出てきますけど、そういうところは世の中の空気を映していると思います。大災害の後で、一気にいろんなものが、悪も含めて噴出するんだな、とゲラを読み返したときに思いました。
 書いている途中で、オリンピックの開催が決まったのはびっくりしましたね。よもや、という感じでしたが、急きょ小説も書き直すことにして、二〇二〇年に大阪でオリンピックが開かれる、というかたちにしました。第三部は震災から八年後を描いているので、開催の前年、オリンピック前夜にあたるんですよね。

──今の被災地から見れば、東京で開かれようと大阪で開かれようと、この小説で書かれているように、被災地の現状を顧みず、という印象を受けるだろうなと、読んでいて思いました。

 本当にシュールですよね。こんな状態で、オリンピックを開催するって。保存してある新聞記事や資料を見直していると、こんなこともあった、こんなことも、といろいろ思い出します。今はもう、ほとんどそんなことも忘れられていて、もちろん忘れたい人もいるかもしれませんが、まだまだ困っている人が現実にいる以上、忘れることがあってはいけないと思います。

──甲状腺ガンの手術を受け、健康を取り戻したものの、薬なしでは日常生活を送れない薔薇香は「棄民の象徴」である一方で、被災しても元気で暮らせるあかしとしても利用されてしまいます。ともに被災歴のある、薔薇香を崇め守ろうとする健太と康太の双子の兄弟と、はじめは彼らの仲間のように見えたサクラの間にも、事故との向き合い方に大きな違いがありますが、桐野さんご自身は、原発事故後の福島についてどういうふうに考えますか。

 もちろん原発はないほうがいいし、事故は早く収束したほうがいいというのが、私の基本的な考えです。
 ただ何が正しいのか本当にわからないので判断できないところがあります。低線量なら生活しても大丈夫、という人もいるけれど、汚染されたというのは確かな事実です。
 NHKの広島放送局や長崎放送局が制作した原爆被害を検証するドキュメンタリー番組を見ると、放射線って、長い時間をかけて遺伝子を壊すものなので、何十年もたたないと被害が出なかったりするようです。当時、被爆した方の中には、のちにガンになったり大きな健康被害が出てきた人も多い。福島も、これから何が起きるかわからないし、本当に大変なことだと思っています。

──資本主義の極致のようなドバイのショッピングモールから出発した小説は、大震災に直面してそのカタストロフを内に取り込み、同時に未来を占うような内容になっています。

 書いているうちに、複雑なことが同時に起きて、とくに私はそういう書き方を選んでいるのでどうしても長くならざるをえないんですが、なるべく予想される方向に行かないように、といつも思って書いています。だから、なかなか収拾がつかなくなるんですけど、結果としてそれで別の種を蒔いているということにもなる。その実りも収穫しつつ、また別の種を蒔く、というのを続けていくので、私にとって、小説を書くことが面白いんですよね。
 蒔いた種からとんでもないものが出てきて、「えっ、これ木だったの?」ってびっくりしたり。到底、収束しそうもない物語を書いているわけですが、それが私にとっては現実世界なんです。私に見えている世界というのは、そういう、絶対に収束しようもないものなので。
 ドバイのほかにも、津波の被害が大きかった閖上(ゆりあげ)(宮城県名取市)に行ったり、郡山市の仮設住宅にお邪魔して話を聞かせてもらったり、取材もたくさんしました。長い長い小説を書き終えて、今はほんとうに感無量です。

聞き手・構成=佐久間文子


【桐野夏生 著】
『バラカ』
2016年2月26日発売・単行本
本体1,850円+税
電子書籍版も同時配信
プロフィール
桐野夏生
きりの・なつお●作家。
1951年石川県生まれ。著書に『顔に降りかかる雨』(江戸川乱歩賞)『OUT』(日本推理作家協会賞)『柔らかな頬』(直木賞)『グロテスク』(泉鏡花文学賞)『残虐記』(柴田錬三郎賞)『魂萌え!』(婦人公論文芸賞)『東京島』(谷崎潤一郎賞)『女神記』(紫式部文学賞)『ナニカアル』(島清恋愛文学賞・読売文学賞)等多数。2015年、紫綬褒章を受章。
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