青春と読書
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姜尚中 『悪の力』
対談 自らの「悪」の自覚を出発点に 姜尚中×中村文則
なぜ、世界はこんなにも「悪」に満ちているのか――。姜尚中さんが現代を生きる我々の苦悩の根源を探る『悪の力』が集英社新書より刊行されます。刊行にあたって、作家の中村文則さんとの対談が実現しました。中村さんが昨年十二月に上梓した『教団X(エックス)』(集英社刊)は、悪の教祖と四人の男女の運命を描き、現在十四万部のベストセラーになるなど大きな反響を呼んでいます。 悪の問題に正面から取り組む必要を感じたと話す姜さんと、デビューから一貫して悪を描いてきた中村さん。お二人の「悪」への深い考察は、困難な時代を生き抜く希望へと通じています。

なぜ「悪」を書くのか

 ずっとお会いしたかったんです。最新刊の『教団X』は、この厚さで大変なベストセラーだとか。すごいですね。

中村 こちらこそ、姜さんにお会いしたかったので今日は緊張しています。『教団X』は、何というか、ありがたいことにテレビで芸人さんたちが紹介してくれて、僕が家で寝転がっている間に勝手に売れていくという不思議な現象が起きているというか……(笑)。これだけ厚い本を読み通したのは初めてだという若い方たちの感想が非常に面白く、色んな発見がありますね。

 『教団X』もそうですが、中村さんはデビューから一貫して「悪」を書かれてきた。これはなぜなのかを、今日はぜひお伺いしようと思って来ました。

中村 僕の場合は、子供の頃、家があまりよくなかったのもあって、悪のようなものが自分の中に自然と芽生えてきてしまったんです。その後、小説などを読むようになって、悪を抱えているのは自分だけではないのだと知りました。人間不信で人も世の中も嫌っていたけれど、小説には救われたんですね。でも考えてみれば、小説って人が書いている。結局は人に救われているんだなと気づきました。その後、作家になってからも悪は重要なテーマで、人間を描くことが目的なんですけれども、とりわけ悪の側面から人間を捉えることに関心があります。
 それで僕も、姜さんが今回『悪の力』を書かれた動機をお聞きしたいんです。この本は、夏目漱石とマックス・ウェーバーを紐解く形で困難な現代社会の生き方を示した『悩む力』『続・悩む力』と、タイトルが似ているだけではなくて、テーマも地続きであると思うんです。とはいえ、悪に着目したのはなぜでしょう。現代の世の中を眺める中で生まれたテーマなのでしょうか。

 それもありますし、中村さんの本と、これは後で少し話しますが、英国の学者テリー・イーグルトンを読んだから。

中村 とんでもないです。

 本当にそう。今年三月に聖学院大学の学長を辞めたわけですが、辞めるに至るまでに色々なことがありました。僕は出自の問題で悩んだことはあるけれど、これまで人間関係には大変恵まれてきたんです。だから人への信頼が根本にあった。ところが六十を過ぎて、初めて悪というものを身近に感じる経験をしたんです。ここでいう悪とは、貧乏だから盗みを働くとか、人を騙して金を儲けるとか、憎んでいた人の不幸を喜ぶとか、そういったレベルのものではなくて、ドストエフスキーが『悪霊』で描いたような、仏教的にいうと人間の業(ごう)につながるような悪です。そういうものを初めて目の当りにして、悪を正面から考えてみたいと思ったんですね。
 中村さんの小説には、「悪の空虚さ」が一つのテーマとしてありますが、それはやはり、ご自身の体験に根差しているのですか。

中村 色々あるのですが、一つのきっかけは、神戸連続児童殺傷事件なんです。僕が大学一年生のとき、あの事件が起きました。酒鬼薔薇聖斗と名乗った少年は「バモイドオキ神」という神を作っていましたが、実は僕も、小学六年生頃まで、自分だけの神/存在を空想していたんです。一緒にいるような感じでした。僕の神はたまたまそんなに悪いものじゃなかったのですが、それでもあれを、性衝動が強く起こる思春期まで持ち続けていたら、自分も一歩間違えたらああなっていたのかもしれないなと。

 その気持ちはよくわかります。僕が子供の頃は、仲間でカエルやヘビを夢中になって殺していたんです。血が飛び散ると奇声を上げて、ある種の狂騒状態に陥るわけですよ。そういう衝動を人間、とりわけ子供は持っている。だけど、自分は少年Aにはならなかった。紙一重の差かもしれないけど、その差は何だったのか。運なのか、環境なのか……。
 今年、名古屋大学の十九歳の女子大生が、七十七歳の女性を殺害したとして逮捕されましたよね。この事件で僕が引っかかったのは、女子大生が遺体と一緒に一晩過ごしていたことなんです。これが僕にはよくわからなかった。そんな時、ウィリアム・ゴールディングの『ピンチャー・マーティン』を読んだんです。自分の体が単なる物質にしか思えなくなっているエゴイストの物語で、ゴールディングは悪というものを、身体感覚のない、人間のリアリティを欠いた存在として描いている。僕はこの話にもずいぶん触発されました。中村さんがずっと書かれている「悪の空虚さ」につながる部分もあると思います。
 実際、学生を見ていても、この二十年間で身体感覚が希薄な人は増えています。象徴的なのが、ある時期からトイレのにおいが消されたこと。清潔になったことで、トイレは臭いというかつての常識が、そうではなくなってしまった。身体に刻み込まれていた実感がなくなったときに、人間の感性はどう変わってしまうのだろうかという問題意識が、『悪の力』のベースにはあります。

ヒューマニズムの名の下の攻撃

中村 名古屋の事件に関しては、資料が出揃っていないため限られた情報からの推測になりますが、僕は少女の「人を殺してみたかった」という発言には、「本当に?」と聞きたくなるんです。

 信用していないと。

中村 はい。いま姜さんが仰ったような身体感覚のなさや虚無感、アイデンティティの危機などという問題が彼女の中にまずあって、だから人を殺してみたいと自分で思っているだけなのではないか、というのが僕の推測です。よって、前提の部分が改善されれば、人を殺したいという気持ちは薄れていくのではないかと。ですから、姜さんも本の中に書かれていますが、彼女は化け物だ、悪だとレッテルを貼って終わるのではなくて、なぜこういう事件が起こったのか、彼女の環境はどうだったのかと丁寧に見ていくことが、こうした事件を少しでも減らすためには必要だと思います。
 一方で、人を殺したいという欲求が純粋に出てしまったケースの犯罪というのもやはりある。フロイトは人間には〈生の欲動〉と〈死の欲動〉があると言っています。〈死の欲動〉、言い換えれば〈破壊欲動〉とは、無機質から生じた生命が、もう一度無機質に戻ろうとする感覚だと。僕はフロイトが大好きで、すごく納得できるのですが、でも破壊欲動があるとはいえ、動物は基本的に、同種殺しをするまでは行かないんです。ライオンでも昆虫でも、食欲や性欲が絡む特殊な事情の下においてのみ、同種殺しをする。人間も同様で、性欲だとか色々なものが結びついたときにはじめて、本当に人を殺してみたいという欲求が生まれるのだろうと僕は考えます。その意味で、神戸連続児童殺傷事件は、少年Aの性衝動と結びついて起きた事件でした。

 近年の少年少女の事件にも、色々なケースがあるのだというご指摘ですね。

中村 そうですね。それで、身体感覚が希薄になったいま、破壊欲動の持って行き場がなくなっていると感じています。川崎市で起きた中一男子生徒殺害事件では、犯人グループの少年の顔がインターネット上で晒されました。悲惨な事件が起きた時、犯人を許せないという感情が盛り上がるのは社会の連帯を強固にする健康的な反応とも言えるのですが、そこに行き場を失った破壊欲動がのっかって、犯罪者に過剰な攻撃を加えようとするとなると、それはもう別のものです。僕は、「人は善意の殻をかぶるとき、躊躇なく暴力性を解放する」とよく書くのですが、インターネットというまさに身体感覚が全くない空間で、そういうことが起きています。姜さんの『政治学入門』に「ヒューマニズムとしての戦争」という言葉がありましたが、最近は一つ事件が起きると、やはり善なる理由から「ヒューマニズムの名の下の攻撃」が加えられます。また、いま日本では、ナショナリズムが非常に高まっている。これらもまた破壊欲動の発露なのだと思います。この本を読んで色々と考えさせられました。

 そうやって読んでくださって嬉しいです。小説は必ずしも解答を提示するものではないのかもしれないけれど、中村さんは常に、読者を荒涼とした現実の中に放り出すだけではなくて、何か可能性を見せようとされていると思うのですが、どうでしょう。

中村 そうですね。あの手この手で、この時代を少しでもよくするにはどうしたらいいだろうと考えますね。

 悪を描きながら、悪を越えていく何かを示そうと。

中村 姜さんがこの本の中で書かれているのに僕もまったく同意で、とにかく、悪というものが自分の中にあると自覚することが出発点になると思います。自覚すると、何か犯罪が起きたときに、被害者の立場で悲しむと同時に加害者の立場で悲しみ、事件を全体の悲しみとして捉えられるようになる。そういう社会は戦争が起こりにくいと僕は思っています。

構成=砂田明子


続きは本誌でお楽しみください。
【姜尚中 著】
『悪の力』
発売中・集英社新書
本体700円+税
プロフィール
姜尚中
カン・サンジュン●政治学者。東京大学名誉教授。1950年熊本県生まれ。専攻は政治学・政治思想史。著書に100万部超のベストセラー『悩む力』と『続・悩む力』のほか、『マックス・ウェーバーと近代』『オリエンタリズムの彼方へ』『ナショナリズム』『日朝関係の克服』『在日』『姜尚中の政治学入門』等。小説作品に『母─オモニ─』『心』がある。
中村文則
なかむら・ふみのり●作家。1977年愛知県生まれ。2002年、「銃」で第34回新潮新人賞を受賞しデビュー。著書に『遮光』(野間文芸新人賞)『土の中の子供』(芥川賞)『掏摸(スリ)』(大江健三郎賞)『去年の冬、きみと別れ』『教団X』等。2014年、ノワール小説への貢献として、日本人で初めて米文学賞「David L. Goodis賞」を受賞。
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