青春と読書
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澤地久枝 『14歳〈フォーティーン〉満州開拓村からの帰還』 深谷敏雄 『日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族』
抄録   講演会「戦争を語り継ぐ責任」 澤地久枝 深谷敏雄
戦後七十年を迎えた今年、『14歳〈フォーティーン〉満州開拓村からの帰還』(本誌連載作品)に満州での敗戦と難民生活を綴られた澤地久枝さんと、中国戦線でスパイとして活動した憲兵の父と家族の激動の歴史を『日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族』にまとめられた深谷敏雄(ふかたにとしお)さんに、それぞれのご著書の刊行を記念して、戦争の悲惨さを語っていただきました。 七月十一日、講演会の行われた時事通信ホール(東京・東銀座)は、開場と同時に続々と聴衆が詰めかけ、三百人もの人々が席を満たしました。

第一部
(1)澤地久枝講演抄録


 こんにちは。お暑い中よくいらしてくださいました。それもこんなに大勢。感激しています。
『14歳〈フォーティーン〉』は、私自身は子供を持ったことがありませんが、身辺にいる小さい子たちに、戦中戦後がどんな生活であったかを伝えたくて書きました。これまでもいろんなことを試みましたが、話というのはその場で消えていくものでなかなか伝わらない。あなたがどういう人たちの血を受け継いでいるか、書いてわからせたかったんです。
 七十年前、私は十四歳でした。その年齢では戦争を体験したなどとは言えません。当時は満州(現中国東北部)の吉林にいて、空襲も知らないし、家族に戦死者が出たわけでもありません。けれども、昭和の戦争の勉強はその後してきました。
 昭和二十年(一九四五年)六月十日から七月十日まで、私は水曲柳(すいきょくりゅう)という開拓団へ動員されていました。当時の私は絵に描いたような軍国少女で、戦争は正しい、戦って勝つのだと思っていました。私も一所懸命働き、戦争で死ななければならないと考えていた女学生です。けれども、開拓団に着くと働き盛りの三十代から四十代の男性が一人もいない。男が根こそぎ戦争に徴兵されていた時期で、留守を預かるのは女と子供だけです。村には電気も水道もなく、泥の家が建っているばかりでした。あるときノブタが捕まったからと、鍋にして食べました。そんな生活が日本人にあるとは知らず驚きました。中でも私が怖かったのは、「女学生さん、そのときが来たらお願いします」という臨月を迎えた妊婦さんの言葉です。お産に立ち会ったことなどなく、どうしていいかわからない。近くに助けを呼ぼうにも満州という広大な土地で、集落から集落は非常に遠い。一緒にいた級友と、どうか私たちのいる間にお産が来ませんようにと祈りました。
 開拓団から戻ったのち、八月八日の深夜のこと、吉林の町にものすごい大きな音がし、駅の周りが昼間のようにぱっと明るくなりました。照明弾でした。二月のヤルタ会談で決まっていたことですが、日本人は誰も知らないソ連参戦でした。水曲柳のあの母子たちはどうなったか、ずっと考えていました。
 そういう状況で迎えた八月十五日。私はソ連参戦後野戦病院になっていた女学校に看護婦見習いとして詰めていました。ソ連の参戦で、動員解除となり解隊式がありました。正午を挟む時間です。女学生はみんなありったけの涙をこぼしましたね。
 動員中教員だった若い軍医や衛生兵長たちと別れる悲しさからの涙でした。みんな思春期でしたから。別れたあと自宅のあった満鉄(南満州鉄道株式会社)の社宅に帰りました。玄関を開けたら、座っている父とぱっと目が合った。「日本は負けたよ」だか「戦争は終わったよ」だか父が言った。私はそのとき「ああ、神風は吹かなかった」と思ったんです。後年、神風が吹いても勝てるわけがないと考えましたが、当時は本当にそう思いました。
 難民生活になってからの約一年間は様々な経験をしました。ソ連軍から女を守れと父がドアに板を打ち付けました。私は髪を短くし、ズボンを穿いて男の子の格好をして、声を潜めて過ごしました。それでも、あるとき誰かがゴミ出しで開けた入口からソ連軍将校二人がうちへ入ってきた。抜いたサーベルの切っ先が私の喉元へきたのです。顛末は本に書きましたけれども、私は非常に恐怖を味わいました。その恐怖はずっと残っていました。一九七二年に向田邦子さんと世界一周の旅をし、飛行機が給油か何かで途中モスクワの空港に降りたときのことです。タラップを降りていった途端に固まりました。なぜなら、降りた滑走路の両側にソ連軍兵士が銃を構えて立っていたのです。もう二十数年経っていたけれども、サーベルを突きつけられて引き寄せられて、必死になって逃げたときの恐怖が瞬間よみがえって動けなくなりました。恐怖とは、頭に記憶で残るのではなくて、皮膚感覚のようにからだに染みつくものなのですね。
 戦争とは残酷で、個人を無作為に拾い出します。有名無名問わず拾い出して、考える暇も与えずに戦争のひどい現実をその人にいきなりぶつけます。そうした辛い体験をした人たちの多くは黙ったまま死んでいきますが、日本に限らず、戦争によって傷ついた体と心を抱いた多くの人たちがいることを考えなければならないと思います。
 初めにも申しましたが、私には戦争体験はないと思っていました。でも、私程度の体験でも、孫とかひ孫のような人たちに伝える努力をしなければ許されないと思うようになりました。たとえば、一九四五年に十四歳であった私が、当時から見た七十年前である一八七五年の日本について訊かれても何も言えなかったでしょう。若いときには知らなくて当然です。そうであるとともに、七十年という年月は一見長い時間ですが、歴史として振り返ると、あっという間に過ぎさってしまう時間です。私も今の年齢を信じられません。ああ、もう八十四歳かと思います。今ここで伝えていかないと、この七十年がなかったことになりかねません。もし子や孫に話しにくいのだとしたら近所の子でもいいし、仕事で知り合った人でもいいではありませんか。経験したこと、人から聞いたこと、本を読んで学び得たこと。あるいは、現政権の政治について考えていることを話し合ってもらいたい。自分で考えることを失った人はただの木偶(でく)の坊(ぼう)になってしまうと私は思います。
 今さら脅されても嫌な目に遭ってもかまいません。戦争はよくないということをわからせる、そのために戦争体験を将来の世代へ伝える努力をする。それがここまで生きてきた私の責任ではないかと思います。

(2)深谷敏雄講演抄録

 初めまして深谷敏雄です。私は中国で生まれ育ち、日本の教育を受けていません。そのため日本語がまだまだ上手ではありません。本日は準備してきた文書を読む形でお話しさせていただきます。
 私は一九四八年に中国上海で生まれ、七八年に家族で日本に「帰国」しました。私と戦争に直接の関係はないのですが、軍人であった父義治(よしはる)の人生によってその影響を大きく受けました。父は一九三七年に日本の陸軍へ入隊し、中国へ渡ると四〇年にスパイ活動を行う憲兵になりました。一九四五年八月十五日。終戦を迎えるも、父は上官から任務続行の命令を受けます。潜伏のために中国人の陳綺霞(チンチャ)と結婚、三男一女をもうけました。幼い私たちは中国語に堪能な父が日本人でスパイであるなど思いもしませんでした。
 一九五八年、中国公安に父が逮捕されます。当局に対し父は戦中のスパイ活動は認めたものの、戦後のスパイ活動は否認します。結果、苛酷な拷問を受けました。残された家族は反革命家族として差別され、収入は途絶え、貧乏のどん底に落ちました。子供たちは日本鬼子(リーベングイズ)(日本の鬼の子)と呼ばれました。一九六六年、文化大革命が始まります。一家はさらに差別されました。私は「下放」で地方へ強制労働に行かされました。やがて弟も続き、兄は冤罪で監獄に拘束されます。母は我が子が相次いで消えていくことにどれほど寂しさを感じたことか。そのうえ軍国主義者として群衆の前で糾弾された母は、ある夜、自殺を図ったそうです。妹が気づき一命を取りとめました。
 一九七四年、父に無期懲役の判決が下されます。十六年ぶりに面会へ行くと見たことのない初老の男がいました。虐待によって身長が十センチ低くなった父でした。後年に手記で知ったことですが、このとき左目は失明し、肺は結核で弱っていたそうです。また、歯は零下六度の獄中の寒さを必死に耐えた結果痛んだものを、中国政府が面会前に麻酔なしに全て抜歯し、俄か治療をしていました。
 ここで、獄中の父を支えた二人の女性を紹介します。まず妻である陳綺霞です。義治と綺霞は日本軍によって謀略結婚させられました。当初は仮面夫婦だったとも言えます。しかし、助け合う生活の中で真の愛情と絆を作り出しました。母は無罪を訴える手紙を中国政府に出し、二十年四カ月の間、差し入れを続けました。もう一人は父の母ヤノです。ヤノは早期釈放のために毛沢東に嘆願書を送り、面会に行く日本政府代表に、「あなたに会えるまで絶対に死なない」という伝言を託しました。息子の年金保険料を納付し続けました。このヤノは私たちが日本に帰る直前に亡くなりました。祖母のことを思うと残念でなりません。
 そして一九七八年。この年八月の日中平和友好条約締結によって、十月に父義治が釈放されました。十一月、一家で日本に渡りました。
 しかし、祖国での平和はすぐに霧散します。帰国の翌年、父が重婚罪で告訴されました。婚約破棄したはずの女性が戦中の混乱で妻として戸籍にあったのです。結果的に無罪になりましたが有罪になれば日本国籍でない母は最長で二年の懲役刑を受けてから国外退去になるところでした。また、父の軍人恩給が何者かに横領されていました。役所は再請求を拒否し、それどころか、終戦時に父のとった行動を不名誉にも亡命扱いとしたのです。事態を知った元上官たちが国にかけあうも一顧だにされません。父は元上官たちの勧めと歴史を後世に残す目的で、帰国六年目、テレビ番組「日本100大出来事」に出演し、終戦後スパイを行ったことを証言しました。国はそれでも一切無視でした。この恩給横領問題は今に至るまで解決していません。父は今年四月に他界しました。戦後を迎えぬまま亡くなったと言えます。
 父義治の波瀾万丈の人生を本に残すことは父の夢でもあり、この悲劇を歴史の闇に葬ってはいけないと考えた私の使命でもありました。生前に執筆の意思を伝えると、父は何も言わず、ただその眼から涙をあふれさせました。深谷家の戦争はいまだに終わっていません。それでも戦後七十年、現行憲法のおかげで日本国は平和に暮らしてきました。今、日本社会には集団的自衛権行使や憲法改正の動きによって戦争が近づいてきていると感じます。私たちのような苦しみを繰り返さないためにも、戦争を起こしてはいけない。私は戦争が生み出したこの悲劇を今後も語っていきます。


続きは本誌でお楽しみください。
【澤地久枝 著】
『14歳〈フォーティーン〉満州開拓村からの帰還』
発売中・集英社新書
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【深谷敏雄 著】
『日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族』
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