私の『小説フランス革命』は、単行本で全十二巻を数える。文庫化するに際しては、それを編集しなおして、さらに十八巻まで増やした。その最終巻がいよいよ店頭に並ぶが、全巻出揃ってみると、あらためて十八巻である。
いやはや多い――ない話ではないだろうが、ざらにある話でもないだろう。もちろん、ただ巻数を自慢したかったわけではない。十二巻を十八巻まで増やしたのは、簡単にいえば読みやすくするためだった。巻数が多くなれば、一冊が薄くなる。値段的にも買いやすいし、重さ的にも持ちやすい。本文にも加筆修正を加えたが、それも一章を短くする、一文を短くするなど、やはり読みやすくする方向で腐心した。あるいは、なるだけ疲れないようにしたというべきか。
自分でいうのもなんだが、私の『小説フランス革命』は疲れる。書くときから疲れたが、執筆が大変なのは当然である。特に気にもしないできたが、文庫化の機会に単行本を読み返して、なんと疲れる小説だろうかと、ひどく反省させられたのだ。これは手を加えなければと大いに慌てた所以(ゆえん)だが、そうして作業を進めるうちに、また別な思いも抱くようになった。つまり、こうまで読むのに疲れるのは、私のせいではないのではないかと。読みやすいよう最大限の努力をするのにやぶさかでないが、これは誰が書いたとしても、読者を疲れさせるのではないかと。
再認識させられたのは、フランス革命に渦巻くエネルギーの凄(すさ)まじさだった。これに当てられて、私は、いや、読者は、いやいや、軟弱になってしまった現代日本人のほとんどは、ひどく疲れてしまうのだ。目も霞むし、肩も凝る。汗も掻けば、腹も減る。なにしろ小説にする以前の史実からして、異様なまでに熱いのだ。登場する人物という人物が、ことごとく生命力に溢れているのだ。
フランス革命といえば、引き金となったのが度重なる凶作と飢饉であり、人々は食うや食わずの状態だったはずなのに、この巨大なエネルギーの発散ときたらどうだ。ワアワアと集まるまま、パリの男たちがバスティーユを落としたかと思えば、女たちはガヤガヤと喋りながら、ヴェルサイユから国王一家を連れてくる。人権宣言を打ち上げ、封建(ほうけん)制を廃止し、憲法を制定し、行政改革、教会改革と断行したあげくに、普通選挙の是非を巡って意見の対立が生じれば、反対派はシャン・ドゥ・マルスの集会を弾圧するし、賛成派のほうもパリの蜂起で報いずにはおかないのだ。暴走する民衆が見境なしの虐殺に手を染めれば、当局は魁(さきがけ)に反革命を罰するのだと宣言して、あれよという間に恐怖政治を敷いてしまう。断頭台がフル稼働を始めたが最後で、革命家という革命家の首を刎(は)ね尽くすまで止まらない。
この巨大なエネルギー――小説にして僅か十八巻に、よくぞ収まったものだと、最後は別な意味で感心した。それと同時に、これが時代の力なのか、政治の激震はこうまで人を変えるものかと、嘆息も禁じえなかった。
フランス革命以前の社会、いうところのアンシャン・レジームでは、貴族の子は貴族、平民の子は平民、将軍の子は将軍、兵卒の子は兵卒、地主の子は地主、小作の子は小作という風に決まっていて、社会的流動性が極端に低かった。鬱憤が溜めこまれ、閉塞感がはびこり、それなのに何も変わらないという諦めも強烈なので、どんより停滞し続けているという世の中だ。虐げられた人々が、無気力にからめとられまいとするならば、進むべき道は限られていた。誰でも立身がみこめるのは学問芸術の分野だけで、有為の人材はそこに集中した。この輩(やから)がフランス革命が始まるや、理想を叫ぶ政治家として、大衆を立ち上がらせる煽動家として、そのエネルギーを一気に爆発させた。そういう解釈が成り立たないではないのだが、それだけでもない気がする。
例えば、フランス王ルイ十六世である。ぼんやりの肥満児で、狩りと錠前造りにしか関心がない愚鈍な男――華やかな王妃マリー・アントワネットの添え物にすぎないフランス王というのも、丁寧に史実を追いかけてみると、革命前の顔にすぎないことがわかる。革命が起きてからは違う。自らを縛る憲法を逆手に取ると、そこに規定された君主の権利を前面に出しながら、立法の長でなくなっても行政の長だ、拒否権を発動させてもらう等々と強弁して、果敢な逆襲に転じるのだ。暴徒に宮殿に踏みこまれて、なお堂々と振る舞うことで、世人を魅了してやまないのだ。
したたかな政治家の顔を露わにしながら、またルイ十六世もエネルギーに満ちている。アンシャン・レジームの象徴として、誰より恵まれた立場にいたにもかかわらず、革命にこそ生命の火をつけられたかのように、実に活き活きと歴史を動き回ってみせる。それでも愚鈍な印象が覆(くつがえ)っていないのは恐らく、最後には処刑されてしまったからだろう。が、それを取り沙汰するなら、革命は誰も彼もを殺している。最後には処刑されたといえば、エベール、ダントン、デムーラン、サン・ジュスト、ロベスピエールというような錚々(そうそう)たる革命家たちとて、全く同じことなのだ。
フランス革命が終わらなければならなかった理由も、またそこにある。つまるところフランス革命は、熱すぎたし、重すぎたし、やりすぎたのだ。こうした異常事態に人間という生き物は、とてもじゃないが、十年、二十年とは耐えることができないのだ。
事実、フランス革命は六年で終わる。諸説あるが、私は一七八九年に始まり、一七九四年に終わったと考えている。それが証拠にロベスピエール一党の処刑から数年は、比較的穏やかな日々が続く。特に可もなし不可もなしという施政が、五年も続くのである。が、そうなってみると、あの巨大なエネルギーは全体どこにいったのかと、またぞろ首を傾げてしまう。フランス革命で綺麗に燃え尽きてしまったのか。すっかり灰になってしまったのか。アンシャン・レジームの間に溜められ続けた狂おしいばかりのエネルギーは、たったの六年で全て消費されたというのか。
そんなはずはない。たまたま歳が若かったり、なんらかの事情で機会を逸したりで、フランス革命では自分を発揮できなかった人間も、少なくなかったはずだからだ。が、それならば、吐き出されずに温存されたエネルギーは、フランス革命という行き場をなくして、どこに向かったというのか。
そうした問いには、実は考えるまでもなく答えが用意されている。フランス革命の歴史に続くのは、英雄ナポレオンの時代だからである。これまたエネルギーの塊だ。この男こそ生命力の権化だ。現代日本を生きる軟弱な私はといえば、疲れるなあ、しんどいなあと呻(うめ)きながら、またも長丁場の「小説ナポレオン」を書き出したところである。
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文庫版全18巻完結!
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佐藤賢一
さとう・けんいち●作家。 1968年山形県生まれ。著書に『ジャガーになった男』(小説すばる新人賞)『傭兵ピエール』『王妃の離婚』(直木賞)『小説フランス革命』シリーズ(毎日出版文化賞特別賞)、『黒王妃』『かの名はポンパドール』等。集英社WEB文芸「RENZABURO」にて「小説ナポレオン」を連載中
(http://renzaburo.jp/)。 |
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