アフリカ大陸東端、通称「アフリカの角」に位置するソマリア(ソマリ世界)。二十年以上無政府状態が続き、武装勢力や海賊が跋扈(ばっこ)する危険エリアに飛び込んだ高野さんは、謎の宝庫・ソマリアに魅せられ、恋い焦がれ、秘境へと分け入っていきます。台所から戦場まで──誰も知らなかったソマリ人の日常を命がけで見てきた見聞録『恋するソマリア』の刊行を機に、お話を伺いました。
海賊や内戦よりも謎のベールに包まれたもの
──「現代における数少ない『秘境』」であるソマリ世界。こんな世界があったのかと驚きました。
ソマリ世界って、玉ねぎみたいなんです。一皮剥(む)くと、新たな皮が現れる。面白いことが次々と出てくるから、剥くのをやめられない。僕がソマリ世界に初めて足を踏み入れたのは二〇〇九年です。二十年以上、無政府状態が続くソマリアに、民主主義を達成した「ソマリランド」という国があると知って半信半疑で旅立ちました。行ってみると果たして、ソマリランドは実在していた。それも、アフリカやアジアの平均以上の平和と安定を享受していたんです。これは凄いとびっくりして、独立の謎を解き明かしたのが、二〇一三年に出した『謎の独立国家ソマリランド』です。
──かつてのソマリアは現在、「ソマリランド」と、海賊が猛威をふるう「プントランド」と、イスラム過激派アル・シャバーブと暫定政府軍の戦闘が続く「南部ソマリア」の三地域に分かれているんですね。
先の本で書いたのは主にソマリランドについてで、他の地域、とりわけ南部ソマリアの風景を見ていないという思いがありました。それから取材ってどうしても、社会の構造や仕組みといった大枠を捉えるところから入るんです。で、その次は、中に入っていきたくなるんですね。今回の本ではソマリ人の日常や素の姿を書きたいと思いました。実はこの二つは、資料や情報がほとんどないんです。ある意味でソマリアの内戦や海賊よりも謎のベールに包まれている。ちなみにこの本は前作の続編ではないので、どちらからでも面白く読めると思います。
──そうしてソマリ人のベールを剥ごうと迫る高野さん。ですが、一筋縄ではいきません。ソマリ人を美女にたとえ、彼女に「認められたい」と希(こいねが)う高野さんの「片想い」が、切なくもユーモラスに綴られています。
ソマリ人は僕にとって手の届かない絶世の美女であり、巨大な敵のような存在です。元来遊牧民の彼らの行動は「超速」で、目の前にあることにしか興味を持たない。誇り高い反面、冷徹なリアリストでもある。世の中を動かすのは所詮カネと武力であると理解していて、一冊や二冊の本が大勢に影響を及ぼすなどとゆめゆめ思っていないから、取材してもつれない。ただ、非常に論理的なので、一見、不可解な行動であっても、彼らなりの一貫した論理に基づいていることがわかってきました。
──徐々に懐に入って、見えてきたんですね。
そうです。ソマリ人に限らず、相手の懐に入るために大事なのは一緒に何かをすることです。話を聞いているだけでは距離が縮まらないんですね。一番いいのは仕事。仕事って、綺麗ごとでは済まない局面が多々あるし、目的のために必然的に協力せざるをえない。丁々発止とやり合うことで見えてくるもの、築ける関係があります。
休みなく働くブンヤ≠スち
──高野さんは、盟友・ワイヤッブさんが率いる国際ソマリ語テレビ局〈ホーン・ケーブルTV〉の一員として、ジャーナリストたちの日常を目の当たりにします。
ソマリ人は「超速」ですから、ジャーナリストにすごく向いているんです。彼らは一日の休みなく、朝から夜中まで外を飛び歩いてネタを追っかけ回していて、ああこれは、ブンヤ≠セなと思いましたね。日本では今、出版業もそうですが、ジャーナリズムが上品になっています。ちょっとでも間違ったことを報道すると大事(おおごと)になってしまう。でもジャーナリズムって本来、そんなに大したものじゃないと思うんですね。他人に先んじて情報を掴んだ者が筆一本で始めるような、やくざな稼業なんです。そうしたジャーナリズムの原風景を、ソマリ世界で見ることができました。出稿した広告が、予定の半分の大きさで掲載されていたりと、良くも悪くもいい加減なんだけど、そこにも彼らなりの論理があり、エネルギッシュでダイナミック。やっぱり血が騒ぎますよね。
──ワイヤッブさんはソマリランドの建国後、最初にマスメディアを作った人。「国を正しい方向に導く」信念のジャーナリストを、高野さんは梁山泊≠フ好漢にたとえています。
ソマリ世界では政治と個人の生活が直結しています。日本のような先進国では、誰が首相になっても、国民一人ひとりの生活が明日から劇的に変わることってないですが、アジアやアフリカの小さな国では、大統領や大臣が替わると職が失われたり、食べ物が手に入らなくなったり、命が脅かされることさえある。だから報道の切迫度が違います。ジャーナリストは命をかけて政府批判をするわけですが、それは、自分たちの身を守るためでもあるんです。
──一方で、南部ソマリアの人はソマリランドを大きく誤解していたり、その逆もあるように、ソマリ世界のジャーナリズムにも情報の偏りがあるんですね。
およそニュースは悪いことしか伝えないからですね。メディアには、問題がないとストーリーが作れないという致命的な欠陥があって、それはソマリ世界でも同じでした。
ソマリ家庭料理を習って「一石三鳥」
──あるグループを理解するための文化的三大要素は「言語、料理、音楽」が持論の高野さん。本書ではソマリの家庭料理を習うために、一般家庭の日常に入り込もうと画策します。しかし、ソマリ家庭の敷居は非常に高いんですね。
ワイヤッブに頼んである家庭に招いてもらったときは、見たこともないようなご馳走が並んでいました。ソマリ人は、客を呼ぶなら徹底的にもてなさなければいけないという精神の持ち主です。ゆえに疲れるから、容易には人を呼ばない。平和かつ平凡であるはずの場所こそが、アフリカの角における最大の秘境だとわかって愕然としたほどです。彼らの完璧主義で閉鎖的なところは、日本人に似ていると思いますね。我々と到底相容れないようなところもたくさんあるのに、近いところもあるから不思議だし面白いですよ。
──そしてひょんなことから、「ソマリの家庭料理教室」へと辿り着きます。レストランなどで食す料理とは違いましたか。
レストランで食べられる料理もあるんですが、そういうところでは絶対出ないような食事もありました。たとえばソマリ風雑炊の「シューロ」や、肉と野菜の炒め煮「スーゴ」。「シューロ」は曰く言い難い食べ物です。細かいトウモロコシ粉を使った料理なのですが、食感はざくざくしていて、湿った砂糖のよう。しいて言えば北アフリカのクスクスに似ています。美味しくて日本でも作りました。僕、二年前から主夫として家事をやっていて、料理に悪戦苦闘してるんです。日本では水を何カップだの、玉ねぎはくし形切りだの、うるさいでしょ。その点ソマリ料理の特徴は「てきとう」だから素晴らしい(笑)。
──ご自身が主夫をされているから、料理に興味を持ったということもありますか。
それはありますね。外で食事をしていても、これはどんな食材を使っているのか、どうやって作るのかと、つい知りたくなる。それから家庭料理はその国の根本的な文化だということを痛感するようになりました。
ソマリ料理を習って、僕は一石三鳥だったんです。まず、料理とソマリ文化がわかりました。次に、女性と話ができた。ソマリ世界の素の姿≠見るのに、これは大きかったですね。ソマリに限らずイスラム圏では女性は一歩下がるんです。また僕自身が男だから、どうしても友達は圧倒的に男が多くなる。おのずと女性と話す機会って少なくなります。でも家庭の台所は女性のテリトリーですよね。ふだんは控え目な女性でも、台所に入ると自信を持ってテキパキ行動するし、指示を出してくる。テレビ局で仕事をしたときと同様に、料理という共同作業を通じて、女性たちと日常的なコミュニケーションを取ることができました。ソマリ世界の玉ねぎの皮をまた一枚剥いたような充足感がありましたね。
そして三つ目は、高野家の食卓のレパートリーが増えたことです。
──高野さん、料理を習った女性たちの寝室まで入り込んでいますよね。
残念ながらそこに危険な香りはなく、家族扱いとしてですが(笑)。ソマリの女性たちは、打ち解けるととてもオープンなんです。美白パックや角質ケアに熱中してなかなか料理が始まらなかったこともあって、うちのかみさんと一緒だなぁと。アフリカの辺境などをテーマにすると、日本から遠くなりがちですが、近いことはいくらでもあるんです。奥に入れば入るほどそれを発見するから、やめられないんですね。
「生きていてよかったです」
──高野さんが見たいと望んでいた南部ソマリア取材も、ついに実現します。南部ソマリアの首都モガディショの美人ジャーナリスト、ハムディさんの計らいで、知事や国会議員らの停戦交渉ツアーに同行することになったんですね。修学旅行のような和気藹々とした旅はしかし、命がけの旅となります。あの戦闘シーンには言葉を失いました……。
生きていてよかったです(笑)。僕はこれまでに、辺境や秘境含めて色んなところへ行っていますが、危険度で言えば一番だったでしょうね。
あのときは現実離れしていて、実感が湧かなかったので、恐怖もそれほど感じなかったんですよ。弾は飛んでくるんだけど敵は見えないし、状況が全くわからない。敵の姿を目の当りにしたら怖かったかもしれませんけど。ただ、その後しばらくは眠れなかったですね。うとうとするとあの場面がフラッシュバックするんです。辛かったですね。
──危険な場所はこりごり、とは思われませんか。
それは思わないです。今回は運が悪かっただけだ、次は大丈夫だろうって。
──そう思うのは作家としての業(ごう)なのでしょうか?
いえ、性格でしょう。忘れちゃうんですよ、僕は。もちろん書くときには思い出すんだけど、書くときに撃たれているわけではありませんしね。
──さらに驚くことに、戦闘が終わった瞬間に、笑いが起きています……「危機一髪の状況を脱出すると、笑いが止まらなくなることがあるが、今がまさにそうだった」と。
戦闘シーンというのは、今まで色んな作品に書かれていますが、死や血と隣り合わせといった凄惨な描写が多いんですね。でも現場は、それだけではないんです。危険にも前後があり、様々な側面がある。そういうことを僕は書きたいと思いました。悲惨な戦場ソマリア、だけにはしたくなかったんです。実際に、銃声がやむとすぐに、普段通りのソマリ人たちのしょうもない喧嘩が始まり、修学旅行状態に戻りましたから……。
僕はそこに身を置きながら、彼らのアナーキーな生命力に打たれましたね。戦闘も喧嘩も笑いも、日常の営みとして間断なく続いていくのが紛争地の現実なんだとしみじみ感じ入りました。
取材は必死、書くときは他人事
──高野さんの行く先々で事件が起きている印象がありますが、ご本人としては、どうしてだと思っていますか。
現地にいるときは、とにかく一生懸命に取り組むんですね。何か探してやろうなんて色気を持っているとかえって面白くなくなるし、たいがいそんなことを考えている余裕もないですから、今回の取材で言えばワイヤッブと懸命に広告を作り、料理を覚える。粘り強く交渉して念願の南部ソマリアを見に行く。そうやって必死にやっているとなぜか色んなことが起こり、巻き込まれていく……これは僕の問題なんでしょうねぇ。だって、かみさんと旅行すると、何も起こらないんです、彼女がしっかりしているから。計画通りに事が運び、あぁ楽しかったね、で平和裏に終了。僕がプライベートをあまり書かないのは、自重しているわけではなくて、書くことがないんですよ。楽しいことって、書いても面白くないんですね。一方で大変なことは、その場は辛くて本当に嫌なんだけど、書くと面白いんです。
──現地で取材をされているときと、書くときは、どのように違いますか。
時間的にも空間的にもある程度、現地から隔りを置いて客観的にならないと書けないですね。対象──というのは現地にいる自分自身ですが──を突き放して、他人事にできて初めて、色んなことの輪郭がくっきりしてくるんです。現地にいるときも、わかっているつもりではいるんですが、実際は半分くらいしか見えていない。情報も整理されていない。書く段になってようやく、あぁ、オレはこんなことやってたのか、バカだったなぁと、全貌を把握するといった感じです。
──今作を書き終えて、ソマリ人への片想いはどのくらい進展しましたか。
だいぶ入り込んだので、すぐに忘れられることはなくなったかなと思っています。男女で言えば、結婚までは到達していないけど、普通に付き合ったりできる程度かなと。互いの理解も深まりましたし。それでもまだ、時々びっくりさせられることがあって、その時は、あぁ、たまらんなと。というわけで、ソマリ愛、継続中です。
聞き手・構成=砂田明子
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【高野秀行 著】
『恋するソマリア』
1月26日発売・単行本 本体1,600円┼税 |
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高野秀行
たかの・ひでゆき●作家。 1966年東京都生まれ。早稲田大学探検部在籍時に執筆した『幻獣ムベンベを追え』でデビュー。「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをやり、それを面白おかしく書く」がモットー。著書に『ワセダ三畳青春記』(酒飲み書店員大賞)『世にも奇妙なマラソン大会』『未来国家ブータン』『謎の独立国家ソマリランド』(講談社ノンフィクション賞、梅棹忠夫・山と探検文学賞)等多数。 |
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