青春と読書
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『おれたちの故郷(ふるさと)』
巻頭インタビュー 陽介や卓也と併走して十代を生きる! 佐川光晴  聞き手 重松 清
佐川光晴さんの「おれのおばさん」シリーズの第四作、『おれたちの故郷(ふるさと)』が刊行されます。第一作の『おれのおばさん』では中学二年生だった陽介と卓也も高校二年生。札幌の児童養護施設「魴鮄舎(ほうぼうしゃ)」のおばさん(後藤恵子)のもとを巣立って仙台と青森とに別れた二人。陽介は県内有数の進学校で新たな仲間と出会い、一方の卓也は、バレーボールのU-19の日本代表として活躍していますが、その二人を震撼させるような出来事が……。
二人の成長とともに物語も大きな広がりを見せています。今号では、このシリーズのファンだという作家の重松清さんに、佐川さんの作品に懸ける思いを訊いていただきました。


おじさんでなく、おばさんである理由

──『おれのおばさん』の雑誌連載が始まったのが二〇〇九年で、最新刊の『おれたちの故郷』で四冊目──シリーズの前編ともいえる『家族芝居』(二〇〇五年)も入れれば五冊目──ですが、『おれのおばさん』の連載が始まった時点で、このボリュームになっていくというお考えはあったんですか。

 まったくなかったですね。『生活の設計』でデビューした後、芥川賞の候補になるような中編を文芸誌で発表するという形を何年かやって、それなりに力を出せたとは思うのですが、自分が書きたいものは少し違うのではないかという気持ちもあった。『縮んだ愛』や『銀色の翼』で描いた主人公より、おれ自身はもっと元気な人間だよなとか、北大の恵迪(けいてき)寮や出版社を辞めた後に働いていた大宮食肉(荷受株式会社、現・さいたま食肉市場株式会社)には逞しい仲間たちがいたなとか思い出すうちに、老いも若きも、男の子も女の子も活躍する物語を書いてみたいという気持ちが湧いてきたんです。
 それから、当時、長男が十四歳で、それまで元気だったはずの息子の同級生たちが、どうも鹿爪らしい顔をしている。学校や親子関係で悩んでいる中学生たちが身近にいっぱいいたわけです。昔であれば、多くの文学や映画でも取り上げられてきた、ぼくのおじさん%Iな変わった親戚や先輩がいて、こんな生き方もある、あんな生き方もあるという手本を見せてくれたのだけど、いまはそういう異色の手本がほとんどない。ならば、悩める中学生たちに直接声はかけられないけれど、「君たち、こんな大人もいるぞ、こんな生き方をするのは、相当苦しいけど、できないこともないぞ」ということを、僭越ながら教えてやりたくなった。そんな動機で書き始めたのが「おれのおばさん」でした。ですから、シリーズにしようとは考えていなかった。

──これがもし、「おばさん」ではなく、「おじさん」だったら、何が変わり、もしくは何が変わらなかったのか。おばさんである一番の大きな理由は何でしょう?

 『おれのおばさん』の前編に当たる『家族芝居』は、伝統的なぼくのおじさん≠ノ近いわけです。ここに出てくるのが、恵子の元のつれあい後藤善男です。大学受験を控えたアキラが変わり者である善男の生き方に影響されてゆくのですが、男同士であると、どうしてもなぞろうとしたり、過度に批判的になったり、父親の代わりにしたりもする。その点、異性である女性が壮大な頑張りを見せるとなると、父親とのつながりが投影される「おじさん」とはまた違う圧倒のされ方が出てくるんじゃないか。これは書いているうちにわかってきたことですが。

──物語の出発点で、陽介のお父さんがこけてしまった。その代わりに魅力的なおじさんがその場所に入ったら、実は父親の代わりが欲しかっただけになってしまう。でも、おばさんだから、父親の場所はずっとあいたままで、絶対埋まらない。

 そうですね。おじさんが父親の場所に収まると、結果的にはギリシャ神話から中上健次にまで至る、いわゆる父殺し≠フ系譜につらなる物語になってしまう。おばさんにしたことで、それができなくなった。そのことが、とても効いているのだと思います。もう一つは、陽介の視点だけではなく、卓也の視点が介入することで、おばさんに対する見方にずれが生まれた。それがいい効果を生んでいるんじゃないかと。

──一作目を擱筆(かくひつ)された時点ではどんなふうに思われてました?

 優等生の高見陽介という少年を埼玉から北海道に飛ばして後藤恵子というおばさんのところに預ける、そこには魴鮄舎という場所がある──最初にそこまで考えてワッと書き出したのですが、おばさんが自分の妹である陽介のお母さんの頬をパーンと張った後に、「卓也、急いで降りておいで」と呼ぶ。ぼくの中でも、あそこで初めて卓也が出てきたんです。

──まさしく、卓也が佐川さんに「降りて」きたわけですね。

 はい(笑)。そのときに、もしかするとこの小説は卓也と陽介が二人して一緒に歩いて行くようになるのかもしれないという予感がありました。陽介が一人でおばさんを吸収しながら成長していくのではなく、卓也とともに成長していくのだろうと。
 第一節の終わりのところで、卓也が「おれの親はさあ……」と言いかけて、口をつぐむ。そこで陽介が「卓也とおれがそうであるように、人と人はお互いの何もかもを知らなくてもつきあっていけるのだし、だからこそ、いつかすべてを知っても、それまでと変わりなくつきあいつづけられるのだ」と思うわけですが、あのことばを書いたとき、たまらなくうれしかったんですよ。陽介と卓也が作品の中で仲間になった。この小説は、とてもよいものになるだろうという手ごたえがありました。

みなが勝手にやる、でも認め合う

──一作目が「おれ」のおばさんで、二作目から「おれたち」になりますね。この「たち」が時間を追うごとにどんどん大きくなっていく。この「おれ」から「おれたち」への移行は意識的になさったんですか。

 二作目の『おれたちの青空』は三つの物語から成っているのですが、最初から「おれたち」ということを意識して書いたのではなく、まず最初に卓也の物語「小石のように」を書いて、次におばさんの物語「あたしのいい人」を書き、それから陽介視点の短い物語を書きました。その最後、陽介は仙台、卓也は青森、おばさんは札幌、波子さんは東京と、みんなそれぞれ別れていくことになる。それでも「おれたちは同じ空の下で生きていく」と書いたときに、「おれたちの青空」というタイトルを思いついたんです。おばさんや父親に対抗して、「おれ、おれ」と言っていた陽介が、「おれたち」と言えるようになった。これまた、作者としてはうれしかったですね。おまえ、よくここまで頑張ったなと(笑)。

──いまの時代はネットやケータイでみんなつながっていて、むしろ「おれたち」に潰されそうになるから一人の時間をもてといわれがちですが、このシリーズは、結果として、「おれたち、ありじゃん」みたいな感じが出ている気がします。

 陽介も卓也も、友達に好かれたいとか、自分をわかってほしいというふうには思わないんですね。おばさんとのつき合いが、そういう甘ったれた態度を許さない。恵子おばさんは、誰にどう思われようとあたしはこういう生き方しかできなかったという強烈な人生を歩んできた。だから、あんたたちも勝手にやりな、という流儀です。しかし、その中でさまざまな人たちと出会い、互いを認め合えるような関係もつくってきたわけですね。
 ぼく自身、北大の恵迪寮でずいぶんおもしろい連中に会えたし、その後出版社に入ったのだけど喧嘩して辞めてしまい、これからどうしようと迷った末に、たまたま大宮食肉という職場に行ったら、そこにすごい人たちがいた。この人たちになんとか伍せるように自分を鍛えたい、肩を並べるところまでいかなくても、せめて足を引っ張らないくらいには自分を鍛えたいと切実に思ったわけです。
 息子の同級生たちを見ていても、強く生きたいという気持ちはみんなもっている。それじゃあ、どこでどういうふうに強くなろうとするのか。勉強なのか、サッカーなのか、もっと別のものか。それは各自が勇気を持って、ここぞと思う場所に飛びこんでみるしかない。本気でのめり込めば、それまで見えなかったいろんな人たちの姿が視界に入ってくる。自分と同じように頑張ってるやつらがいるってわかったときはものすごくうれしいんだぞ、と。そのとき、初めて「おれたち」が立ち上がってくる。
 このシリーズでいえば、後藤恵子という強靭なおばさんが一人いることによって、たくさんの人間が引っ張られて、そこで「おれ」であり同時に「おれたち」でもあるという関係が成り立つわけですね。

人の真価が問われるとき

──往々にして、絶望を描いたり、犯罪を描くことが現代的であり、リアリティがあると思われがちですが、このシリーズには「絶望しない」という強烈な意志を感じます。

 ぼくには、絶望や犯罪へ行くほうがうそくさいというか、リアリティがないような気がします。自分もそうしなかったし、そうしていない人たちがいっぱいいる。どうして犯罪に走らずに済んだかというのは、単に運がいい悪いという話とはちがうと思っています。
 十九世紀に書かれた西欧の小説、たとえばスタンダールの『赤と黒』では、主人公ジュリアン・ソレルは自分の野心を実現させようとやっきになる。ところが、恋人は彼の愛にこたえてくれず、立身出世の夢も社会の壁に阻まれてしまい、絶望の果てに死んでゆく。二葉亭四迷の『浮雲』や漱石の『それから』も図式はほぼ同じです。
 誰だって恋人に裏切られたり、全力で挑んでいた夢が破れれば自暴自棄になりもする。でも、なんとかして持ちこたえて、生き延びる手立てを模索していく中でこそ、その人の真価が問われるのではないか。恵子おばさんはそうやって生き抜いてきたのだし、彼女のしぶとさは陽介や卓也に受け継がれた。
 だから、陽介には仙台で中本・菅野・周君といった仲間ができたのだし、卓也は青森大和高校バレーボール部のエースになって後輩たちに慕われている。二人とも、これからさらなる試練が待ち受けているんでしょう。しかし、どうにか持ちこたえて、現在の日本でこんな生き方もできるのだという可能性を感じさせるようになってほしい。
 ぼくの長男はいま十八歳で大学生になりました。親として、こうしろああしろとは絶対に言わないけれど、おれの主人公たちはこうしてるぞというのは言ってやりたい。君の同年代の友達として、こんな生き方をしてるやつらがいるぜ、どうだと。

──先ほど「認め合う」という言葉が出ましたが、一つの生き方だけをよしとするのではなくて、いろいろあっていいじゃないかと。卓也は一番取り柄のなさそうな大竹君を認めていますね。今度の『故郷』でも、卓也は震災後にまだ会えていない大竹を一所懸命になって探す。

 ぼくも、いままさに大竹の名前が浮かんだんです。陽介は、卓也が大竹を認めているのはどうしてなのか、その理由がわからない。でも、これは大事なことだと思います。陽介が神の視点に立って、すべてが陽介に収斂(しゅうれん)してしまうと、この小説はどこかでだめになっていたと思います。それに、まだ出てきませんが、おばさんの娘の花ちゃんも控えている。花ちゃんがおばさんをどう見ているのか、ぼくにもまだわからないんですけど、陽介や卓也から見たのとはまた別のおばさんの姿が出てくるのでしょうね。

──それはまた、楽しみですね。
 最後に、このシリーズを書き続けることで、佐川さんご自身、もう一回十代を生きているような感覚ってありませんか?

 もう一回十代の人生をやれているという感覚はたしかにあります。子供が育って、大人になりかけていくときに、この後どうなっていくのかと思ってすごく冷や冷やするじゃないですか。自分の息子がいままさにそうだし、ぼく自身、北大へ行ってがらっと世界が変わった。そういう感覚を、「おれのおばさん」シリーズを書きながら味わってきました。でも、人生はさらに続いていくわけです。自分では高校までにかなりなことを経験したつもりでいても、大学生になったり社会人になったりすると、これまで培ってきた力だけじゃあ、とても太刀打ちできないのがわかる。
 ですから、今回の『おれたちの故郷』でひと区切りがついたわけですけど、これから先で陽介や卓也が社会に出ていったときには、手加減をせずに、うんと大変な目にも、うんといい目にも遭わせてやろうと思います。いや、ぼくが企(たくら)むんじゃなくて、彼らが勝手にいろいろな目に遭っていくんでしょう。

──そうしたドキュメント感というか、ライブ感が読み手にも伝わってきます。書き手がすべての答えをわかっていて、予定調和でそれを小出しにするのではなく、読者も書き手と一緒に歩いていける。

 三島由紀夫や織田作之助は、ラストの一行が決まってから小説を書き始めたそうです。ぼくは主人公の年齢や家庭環境といった大まかな設定を思いついたところで書き始めて、後は書きながら見つけていく。「おれのおばさん」シリーズでは、ぼくは小説家というよりもノンフィクションライターです。陽介や卓也や恵子おばさんがそれぞれの流儀で行動してゆく様子を間近で見て、文章で書き写している感じです。

──ということは、今後の展開を佐川さん自身もドキドキしながら楽しみにしている。

 そのとおりです。読者のみなさんも作者の存在は忘れていて、恵子おばさんが怒りを爆発させる姿に喝采をおくっている。どんどん背が伸びてゆく卓也の活躍に胸を躍らせて、陽介と波子さんの恋の行方を本気で心配してくれています。まさに作者冥利に尽きるのですが、それだけに、この後書けなかったらどうしよう、ここで打ちどめになったらどうしようというのが一番怖いんですけど。

──でも、だからこそ、物語もスリリングに躍動して、それが読み手にも伝わるのだと思います。

 そうですね。自分の人生もまさにそういうふうに進んできたというか、出版社を辞めた後、と畜場で働くとは思っていなかったし、その後に小説家になる道があるとも思っていなかった。陽介も卓也も恵子おばさんもまだまだ道に迷い、あいつはもうダメだと周囲に見放されながらも、決して諦めずに努力を積み重ねていくんでしょう。

──陽介たちは、どんな道に行ってもやっていける感じがしますね。

 陽介は、ちょっと体力がなさそうだけど、まあ、大丈夫でしょう。卓也も大怪我をしない限り大丈夫。二人とも、今後も骨のある人たちの中で揉まれて、偉い人になりそうな気がする。

──私が気になるのは大竹君ですね。

 大穴張りですね(笑)。

──大竹君は何とかしてやってほしいと思ってドキドキしてるんですけど。

 はい、ぼくもドキドキしています。次に出てきたときに、大竹はどんな人間になっているのか。陽介や卓也に対して、どんなことを言うのか、すごく楽しみです。

構成=増子信一
【佐川光晴 著】
『おれたちの故郷(ふるさと)』
6月26日発売・単行本
本体1,200 円+税

児童養護施設・魴鮄舎を巣立ち、高校に進んだ陽介と卓也。東北の震災から一年、陽介は勉強に、卓也はバレーボールに打ち込む日々を送っていたが、突然、魴鮄舎閉鎖の危機の報が舞い込む。子供たちの帰る場所は。恵子おばさんは。感動の青春小説・シリーズ第4弾!
プロフィール
佐川光晴
さがわ・みつはる●作家。1965年東京都生まれ。北海道大学法学部卒業。出版社勤務を経て、大宮の食肉処理場で働く。2000年、「生活の設計」で新潮新人賞を受賞して作家デビュー。著書に『縮んだ愛』(野間文芸新人賞)『牛を屠る』『おれのおばさん』(坪田譲治文学賞)『鉄童の旅』等多数。
重松 清
しげまつ・きよし●作家。1963年岡山県生まれ。早稲田大学教育学部卒業。佐川氏と同じく坪田譲治文学賞を受賞した『ナイフ』ほか『ビタミンF』(直木賞)等、著書多数。
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