この度、『東京自叙伝』を刊行された奥泉光さんと、同じく『鼻に挟み撃ち 他三編』を刊行されたいとうせいこうさんの対談をお送りします。
作家であり、ミュージシャンでもあるという共通項に加え、二〇〇六年から定期的に開催されている漫談スタイル≠フ文学講座「文芸漫談」でコンビを組むおふたり。今回はともにご自身の作品が題材とあって、少し勝手が違うようですが……。
自作で文芸漫談
いとう 僕と奥泉さんは「文芸漫談」というのを長くやっていて、これまで色々な文学作品についておもしろおかしく語り合ってきたわけですが、とうとう自分たちの作品について語らなきゃいけない時が来た(笑)。
奥泉 照れくさいし、やりづらいよね。
いとう やりづらいですよ。文芸漫談では基本的に存命作家の作品はやらないという決まりなのに、今日は、生きていて、知ってる人だし、本人同士。三重苦でしょう、これ(笑)。
奥泉 やりようがないよね。
いとう ほんとにね。でも、奥泉さんは、僕がずーっと小説を書けないでいた期間を知ってくれてる人ですから。
奥泉 実を言うと、僕はいとうさんが小説を書いてないってことに気がついてなかったんだよね。
いとう ひどい話だ(笑)。
奥泉 ずっと文芸漫談をやっていたという意味では、いとうさんは小説にかかわっていたわけですよ。読んで語るっていう形で。読むことは書くこと以上に創造的なんだっていうのが我々の主張であるがゆえに、いとうさんは小説を、まあ、書いちゃいないけども、書いてるも同然という気がしてたんだよね。
いとう そう言われて、なるほど、それもそうだなと思いました。
奥泉 でしょ?
いとう うん。でもやっぱり、自分のテキストを構成したいのにできない便秘感っていうのは大変なものがあった。だから、小説が書けている今って、すごく楽なの。今後も書けるかどうかは別としてね。
他者の声を聞く
奥泉 今回のいとうさんの本(『鼻に挟み撃ち 他三編』)に収録されている「今井さん」って「聞く」ことに関する小説じゃないですか。
いとう 人の声が入ったテープを聞く話ですね。
奥泉 はじめて読んだときはよくわからなかったんだけど、後から『想像ラジオ』を読んで、ああ、そういうことだったのか! って思ったのね。これは僕の直感なんだけど、いとうさんは死者の声を聞いたんだと思うんですよ。死者の声を聞くっていうのは、ある意味とても僭越(せんえつ)なことじゃないですか。
いとう うん。そうですね。
奥泉 でもね、僕もいとうさん同様、死者の声を聞いて作品にしてるの。アジア太平洋戦争を題材にした作品群がそれにあたるんだけど。
いとう 奥泉さんの戦記物はたしかにそうですね。
奥泉 「死者の声を聞いた」って言うのはちょっとおこがましいんだけど、でも、そう言わざるを得ない感覚があって、その声を聞いてしまった以上、書くしかない。僕はそう思っているところがあるんですね。だから、いとうさんも三・一一の死者たちの声を聞いたんだなと。だからこそ『想像ラジオ』や「今井さん」が書けたんだなと。
いとう なるほどなるほど。
奥泉 しかも「今井さん」は、聞いたことを再現しようとすると必ず物語化せざるを得ないんだっていう話になっている。この話に登場する男は、おそらく何か物語を作ってるんですよね?
いとう うん、そうかもしれません。
奥泉 でも、彼が物語を作ってるということを、作者であるいとうさんははっきりとは書いてない。そのあたりに、聞いたことを言葉にする、小説にするっていうことに対する、いとうさんの逡巡を感じるんです。
いとう ためらいはありますよね。
奥泉 そう、ためらいがあって、でもそのためらいを突破するようにして書かれたのが『想像ラジオ』という作品であるように感じました。
いとう 奥泉さんは「他者の声を聞く」ということでいったら『石の来歴』の頃からですか?
奥泉 そうですね。聞く体験が先にあって書くことになったっていうわけでは必ずしもないんだけど、やっぱり「声を聞いた」としか言いようがない感じはある。とにかくそれを繰り返し繰り返し書きたくなるのね。書かないわけにはいかないというか。
いとう なるほど。「とりつかれ」だ。
奥泉 うん。だから例えば『神器(しんき)』なんてかなり長い作品だから、相当いろんなものを盛り込んだし、これで十分だと思ってたんだけど、でもまた書く可能性があるなと思ってしまうというね。
いとう それにしても「声」って何なんでしょうね?
奥泉 うーん。あまりちゃんと考えてないんだけど。
いとう 聞かざるを得ないというか、耳をふさいだとしても聞こえてしまう。精神的、心理的にはそういう状態ですよね。それと同時に、聞こえてることを認めたくないっていう気持ちもあるし、いや、聞こえたとすればどういうものなんだろうっていう、想像せざるを得ない欲動もあるし。書くっていうのは、ひょっとしてそういうことなのかな……奥泉さんも僕も自分の言葉を書くタイプじゃないから「他者の声」に反応するんじゃないかな。
奥泉 ですね。だから厳密に考えると、結局のところは言葉の持つ外部性のことなのかも。だから「声」を聞いて小説を書くというのはやっぱり錯覚で、言葉を書きつけるなかで自分の外にある言葉の力を感じているんだと思います。その力に圧倒される感覚というか。だから簡単に言わないほうがいいのかもしれない。そういう意味では、今度のいとうさんの「鼻に挟み撃ち」は視点や話がどんどんずれていって、途中私小説ふうにもなったりするんだけど、外にある言葉を導入しながら、言葉の力に圧倒されるのではなくて、その力をすごく軽快に解放している印象がある。そこが小説家いとうせいこうの本領だと思うし、『想像ラジオ』を読んだ人にはぜひこっちも読んで欲しいな。小説は他人の言葉で書くものなんだってことがよくわかると思う。まあ、他人の言葉で書いているのは僕の『東京自叙伝』も同じだけど。
いとう 『東京自叙伝』は、明治期の人たちの随筆や昭和の聞き書きとかいったものの文体を使いながら、東京というか江戸というか、関東というゾーン全体の来歴を語ろうとしている。それは自分の言葉、一代の言葉では無理ですからね。やっぱり数世代にわたる他人の言葉で書くということが前提になる。
奥泉 ちなみに今回一番参考にしたのは福沢諭吉なんですよ。
いとう ああ! 勝小吉かなと思ってた。
奥泉 福沢諭吉の『福翁自伝』の文体が非常におもしろいので、練習したわけですよ。家でひそかにフレージングをコピーしたりして、演奏できるようにトレーニングしたわけですね。
いとう 書くことはひとつの演奏なんです。やっぱり音楽をやってるということは、僕たちにとってものすごく大きなことかも。奥泉さんはフルート奏者でジャズやクラシックに強いし、僕はラップなどをずっとやってきた。音楽をやる人とやらない人の言葉の捉え方って少し違うんだと思うんです。でもそれって実は文学にとってすごく大事なことなんじゃないかな。
奥泉 僕の小説もそうなんだけど、いとうさんの小説なんて完全にスタジオ録音的なものですよね。作曲ではなくて。アドリブでどんどんプレイして、そこに手を加えてスタジオ録音的に編集していく。いとうさんの「鼻に挟み撃ち」だったら、ゴーゴリの『鼻』や、後藤明生さんの『挟み撃ち』など、過去のテキストが招喚されていますよね?
いとう そこははずせないところ。
奥泉 そういうものを、うまくリミックスする形でひとつの小説の世界を作っていくという手法は、極めて音楽的というかスタジオ録音的だよね。そして僕たちはこういうのを小説の王道だと思っているところがある。
いとう 思ってる、思ってる。
奥泉 自分の外にある言葉を集めてきたり、あるいは耳を澄ましたりして、そこから世界を作っていく。そのやり方が非常におもしろいと思うんです。
いとう わかりやすく言うのであれば「本歌取(ほんかど)り」ですよね。例えばあるひとつの短歌を別の意味に読み替えちゃうとかっていうのは、コール・アンド・レスポンスだと僕は思っているんです。それはヒップホップとかと同じ。やはり応答可能なものや、セッションみたいなことが好きなんだと思います。
奥泉 僕たちの小説というのは、長く続いているセッションの一部分っていう感じがする。だから、その意味では作品としての完結性みたいなものをそんなには求めてなくて。
いとう わかります。
奥泉 僕の『東京自叙伝』は、最初から最後まで読んでくれなくてもいいと思う。
いとう 主人公も転々と変わるしね。
奥泉 頭からおしまいまで読まなきゃだめだっていうことは全くなくて、ある部分だけ読んでもいいと。一部分だけでもそこそこおもしろいんじゃないの? と。まあ、本人がおもしろいって言うのも何ですけど(笑)。
いとう そこは照れなくていいじゃない(笑)。
小説を書くための筋肉
いとう 今回の作品は、何枚ぐらい書いたんですか?
奥泉 七百枚ぐらい。
いとう 期間は?
奥泉 手帳を今日見てきたんですけど、書き始めたのはね、二〇一一年。四月半ばに書き始めた。
いとう じゃあ三・一一のすぐ後じゃないですか。
奥泉 そう。もともとは別なものを書こうと思って、ずっと準備していた。でも、あの地震があって、違うものを書かなくちゃ、という気になって書き始めた。福島第一原発の事故があって、プラントが壊れてる映像をテレビで観たとき「あそこが東京なんだ」と思いました。あそこに廃墟の東京を幻視したと言いますか。
いとう それが書き始めのときにどんと来たヴィジョンなんですね。
奥泉 そうですね。
いとう ちなみに一日何枚書いたんですか?
奥泉 今はね、一日三枚書くっていうシステムをとってるんですよ。
いとう システムなんだ!
奥泉 三枚書くと手帳に丸をつけるシステム。
いとう いいシステムですね。休みはどうなってるの?
奥泉 ツーシフトありまして。
いとう (笑)。
奥泉 日曜・祭日は休むモードと、日祭も書くモード。今は、日祭は休みモードだから、日祭は丸つけなくていいわけ。
いとう なるほどなるほど。奥泉さんの一連の長編作品のブルドーザー感っていうのは、やっぱりそういうところから来ているんだな。キャタピラーが一定の速度で、がーっと動き続けるようなやり方ですよ。重戦車ですよ。
奥泉 キャタピラー(笑)。たしかに僕、長編が好きなんですよ。
いとう 奥泉さんは、重戦車としてずっと行軍してるからいいけど、僕の場合は全く書けなくなってしまった期間があって、今ってリハビリ中みたいなもんじゃないですか。
奥泉 はい。
いとう 僕の場合は、書ける日で一日三時間、五枚以上は書かないように気をつけてるんです、せっかちなんでつい書き飛ばしちゃう。
奥泉 なるほど。
いとう そしてそれをプリントアウトしてあちこち持ち歩きつつ、細かく直す。そこでさっき言っていたスタジオワークが始まるわけですよ。でも、空いている三時間を狙って書くシステムだから、どうしても筋肉のつきが遅いんですよね。やっぱり、職業作家の重戦車性をうらやましく思うときがあります。
奥泉 一長一短あるとは思いますけどね。
いとう 僕なんかは奥泉さんがやってることを、後ろのほうで「いいなあ」って見てるっていう状態ですよ。ほら、キャタピラーでさ、一日何枚かずつ着実に書いていって、僕がぼんやりしてるうちに、随分向こうの山のほうまで行っちゃったな、みたいな。
奥泉 いやいや、そんなことないですよ。いとうさんの場合は、フットワークの中で書かれた小説だから、移動した先で何か新しい刺激や情報があったらすぐ反応して表現するスタイルだよね。それが今回それぞれの作品に非常に色濃く出ていておもしろいし、ここ数年にいとうさんが書かれた小説の中では、一番いとうさんらしい作品が集まってる。
いとう 確かに、どんどん移動して、どこでも書けるようにはなったんですよね。仕事の必然で。
奥泉 僕はね、ずーっと部屋にいて、じくじくじくじく書いてるわけ(笑)。
いとう こんな勢いで長編書ける人は、少ないと思うんですよね。構想大きく、ジャンルまたいで意識的になおかつ肉体労働的に書く人。だから自分は重戦車タイプの作家とは違う筋肉の使い方をするしかないって、よくよくわからせてくれる作家として奥泉光がいるんですよ、僕にとっては。
奥泉 いとうさんの場合は、センスという筋肉があるけどね。
いとう まあ、僕はその奥泉さんの年月と作品をよだれ垂らして遠くから見ておりますので(笑)。
奥泉 何言ってるんですか(笑)
構成=トミヤマユキコ
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【奥泉 光 著】
『東京自叙伝』
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明治維新からアジア太平洋戦争、地下鉄サリン事件からフクシマ第一原発爆発まで──さまざまな他者になりかわり、無責任都市トーキョーに暗躍した、謎の男の一代記。男の歩む軌跡に浮かび上がるのは……。超絶話芸で一気読み必至の長編小説。
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御茶ノ水駅で、奇妙な演説を始めるマスク男。それをじっと聴くひとりの男。ふたりにはそれぞれ理由があった。第150回芥川賞候補作となった表題作と、斜め上を行く不思議な三つの短編(「今井さん」「私が描いた人は」「フラッシュ」)を収録。
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奥泉 光
おくいずみ・ひかる●作家。1956年山形県生まれ。著書に『ノヴァーリスの引用』(野間文芸新人賞・瞠目反文学賞)『石の来歴』(芥川賞)『鳥類学者のファンタジア』『神器 軍艦「橿原」殺人事件』(野間文芸賞)「桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活」シリーズ、『虫樹音楽集』等。 |
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いとうせいこう
いとう・せいこう●作家、クリエイター。1961年東京都生まれ。出版社の編集を経て、音楽や舞台、テレビ等さまざまな分野で活躍。著書に『ノーライフキング』『ボタニカル・ライフ』(講談社エッセイ賞)『ワールズ・エンド・ガーデン』『スキヤキ』『想像ラジオ』(野間文芸新人賞)等。 |
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