青春と読書
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「悲しい話ですが、津村さんと語り合って安らかな気持ちになりました」
「こんなにじっくり、個人的な話をした作家は加賀さんだけです」
対談 『愛する伴侶(ひと)を失って 加賀乙彦と津村節子の対話』 加賀乙彦×津村節子
 加賀乙彦さんと津村節子さんの『愛する伴侶(ひと)を失って』は、最愛の伴侶に先立たれた悲しみ、宗教や弔いの問題などをお二人が語り合った記録です。対談の中でお互いに知った、不思議な縁や共通点。魂や霊に対する考え方の違い。作家として同時代を歩んできたお二人の対話には興味が尽きません。
 そもそもお二人には、これまでどのような交友関係があったのでしょうか。


二人の出会いは吉村昭氏の
太宰治賞授賞パーティー


津村 加賀さんとの出会いは、太宰治賞の授賞式でしたね。吉村(夫である作家・吉村昭氏)が受賞して、その授賞式に最有力だった加賀さんもいらしてたんです。一九六六年。お互いに、まだ三〇代でした。
加賀 僕も太宰治賞に「フランドルの冬」を応募していまして、次点者として式に招待されていたんです。津村さんも吉村さんもすでに有名でしたけど、僕は全くの素人。作家の顔を見たことがなかったから、後学のために見ておこう、と出かけたんですよ(笑)。
津村 加賀さんはとってもハンサムで(笑)。ほら、今度『加賀乙彦 自伝』(集英社)を出版されたでしょう。あの本に、お若い頃のお写真もたくさん出ていたけど、紅顔の美少年ですのね。
加賀 そうですか(笑)。
津村 ええ、奥様のお写真も初めて拝見したけど本当におきれいで、美男美女。ですから私は今回の『愛する伴侶(ひと)を失って』の中でも「加賀さん、一目惚れだったんでしょう?」って聞いたんですよね。
加賀 いや、いや、まぁ ……別に否定もしませんが(笑)。
 僕はその後、「フランドルの冬」を長編として仕上げて、翌年に出版しました。この作品で一九六八年に芸術選奨文部大臣新人賞を受賞して、第二の人生の始まりとなりました。いろいろなところから小説の依頼がくるようになって、作家の仲間入りをさせてもらったんです。
津村 『愛する伴侶を失って』では、吉村と私の同人雑誌時代のお話もしましたけど、加賀さんは同人雑誌にはお書きにならなかったんですか?
加賀 僕は「犀(さい)」の同人でした。
津村 ああ、そうなのね。「犀」も名前の通った同人雑誌でしたね。
加賀 けれども僕は、「犀」では全く認められなかったんです。「君のは小説になっていない。下書きのようなものだ」と。僕はそれまで外国の小説をたくさん読んできて、小説というのは長いものだと思っていました。ところが他の人はみんな短編を書いて、芥川賞を目指すでしょう。
津村 そうですよ。だって同人雑誌には一人当たりのスペースがそんなにないもの。加賀さんのように長い小説だと、同人雑誌・一人集になっちゃうわ(笑)。
 太宰治賞は公募で、第一回は受賞作なし、吉村が第二回を受賞したんですけど、当時は公募の文学賞というのがほとんどありませんでした。芥川賞・直木賞は雑誌に発表された作品の中から日本文学振興会が候補作を拾い上げますから、あの頃、作家を目指す人はとにかく同人誌に短編を書いて発表していくしかなかったんです。
加賀 ところが僕は短編が苦手でしてね。太宰治賞には枚数制限がなかったので、いくら長くてもいい。だから僕は太宰治賞に応募したんです。
津村 長編と短編では構想から違いますものね。小説を書くのは建築と同じで、どのくらいの敷地にどのくらいの建物を建てるか、まず設計図を引くでしょう。加賀さんがお書きになる小説は、広ーい土地に、大きな建築物を建てていくようなもの。ああいう大長編になると、よっぽど精密な設計図がないと書けませんね。
加賀 僕が書きたくなるものは、現代史に近い、長い物語なんです。ですから、中国も韓国も戦場になった場所にはよく行っていますし、トルストイが『戦争と平和』で書いた場所へも行きました。調べものをしたり、実地に行って考えたり、年表を作ったり、そういう書き方ですね。それでだんだん、だんだん小説が長くなっちゃった。ごめんなさい(笑)。
 一度だけ、短編の「くさびら譚」で芥川賞候補になったことがあるんです。
津村 そのときはどうして短編をお書きになろうと思ったんですか?
加賀 大学時代の解剖学の先生がキノコの研究家で、よく日曜日に一緒に山登りをしたんです。「弁当は持ってこなくていいから塩だけ持ってこい」と。山で先生が掘り出したキノコを一つ一つ、「これはうまい、これは食べられるけどまずい、これは毒だ」と三つに分ける。そしておいしいのを洗って、たき火で焼いて、塩をふりかけて食べるんです。それが面白かったので、題材にして書きました。
津村 ああ、それは長編にはならないわ(笑)。
加賀 だめ?(笑)
津村 ええ、確かに短編向きですね。短編というのは、何かひとつ面白いエピソードやヒントがあって書きますでしょう。吉村の『少女架刑』という小説は、吉村が医科歯科大学の友人に遺体解剖に立ち合わせて貰ったときに、非常に興味深かったらしいんです。「でもその過程を書いても小説にならない」と言うので、「解剖される少女の側から書いたら?」と。それがヒントになっているんです。そういうひらめきのようなものが短編には重要ですね。

男性作家はバーで飲み、
女性作家は旅行と食事


 吉村昭さんの受賞を縁に知り合って四七年。けれども長い間、二人が親しくお話しする機会はそれほどなかったそうです。
加賀 僕は、吉村さんとはしょっちゅう新宿の飲み屋で出くわしたんです。
 誰かと何人かで飲んでいると、そこへ吉村さんが「やあ」って、ふらりと入ってくる(笑)。吉村さんは話が上手で、みんなを笑わせてね。吉村さん中心になってやっているうちに、「それじゃ僕はこれで」と、あっという間にいなくなるんだ。みんなが「あれ?」と気づいたときにはもういない(笑)。去り際が実にうまい。こういう芸は大したもんでしたね。
津村 あの人は、行きつけの店が新宿だけで何十軒とありましたから。一軒でゆっくり腰を落ち着けて飲むんじゃないんです。いろいろな店をはしごするの。一緒に飲むと慌ただしくてしかたなかったですよ。ゆっくり飲もうと思ってるのに「さあ、行くか」って。義理のある店がたくさんあるから、みんな顔を出さないといけないと思ってるの(笑)。
加賀 すると、その中の一軒にたまたま僕がいたわけだ(笑)。でも吉村さんと飲むのは面白かったなぁ。
津村 女性のほうには女流文学者会というのがありましたでしょう。その例会が時々あったんです。例会といっても、ただみんなでお食事しながら歓談するだけなんですけどね(笑)。芝木好子さんが会長になられてから、旅行もしましょうということになって。最初はみんなで京都へ行って、瀬戸内寂聴さんの寂庵にも行ったんですよ。それから長崎やシンガポール、台湾などにも行きました。
 女性同士はそうやって一緒に旅行をしたり、お話しする機会もありますけど、男性作家の方とはなかなかそういったお付き合いはありません。加賀さんとも、文藝家協会の懇親会やどなたかの授賞パーティーでお目にかかった時に、ちょっと言葉をかわしたりするくらいでしたね。

伴侶を失くした悲しみ、
混乱を語り合った


 そんな関係に変化が訪れたのは、お二人が伴侶を失くしたことがきっかけでした。
津村 二〇〇六年に吉村が亡くなったとき、私はひどく落ち込んで、気持ちの整理がつきませんでした。それで加賀さんをお訪ねしたんです。それは、作家仲間の加賀さんというより、精神的なフォローをしてくださるお医者様としての加賀さんを頼ったんです。他の作家のところに相談に行きたいとは思わなかった。加賀さんのところへ行きたかったんです。
加賀 そうでしたね。それから二〇〇八年に、今度はうちの妻のあや子が亡くなって。津村さんから心のこもったお手紙をいただきました。その後、日本藝術院の帰りに、津村さんと二人で歩くことになったんですよね。
津村 そうそう、二人で上野駅まで歩きましたね。
加賀 僕がちっちゃな声で「今、嫌な思いをしているんですよ」と言って。ちょうど、お墓のことが問題になっていたんです。妻はカトリックで、うちの菩提寺に入れてもらえなくてね。
津村 あのときは、そういうことがあるのかと驚きました。そのお話も、今回の対談で改めて詳しく聞けてよかったです。
 本当に、加賀さんとは不思議なご縁ですね。お互いに連れ合いを失くしたことがきっかけで、他の方とは話さないようなことまでお話しするようになって。私は今まで、一緒に旅行をするような親しい女性作家の方ともこんなにたくさんしゃべったことはありません。長い時間をかけてじっくり、個人的なお話をしたのは加賀さんだけです。
 それでね、私がとってもうらやましかったのは、加賀さんがひとつ小説を書き終えると、御褒美に奥様と一緒に旅行されるのを楽しみにしていたというお話。吉村は取材旅行ばかりで、楽しみのために夫婦で旅行をするなんてことがなかったんですよ。私が取材先や講演会について行って、一人で観光する(笑)。
 この間、手紙特集の原稿を書くために、吉村からの手紙を出して見ていたんです。結婚前の「北原節子様」、結婚してからの「吉村節子様」、箱いっぱいにあるんです。結婚してからも、取材旅行に行った先から手紙がきましたから。
 心臓移植手術の取材で、アフリカとニューヨークに合わせて四五日間行ったときは、旅行の日数より手紙の数のほうが多いの。南アフリカは、人種差別のひどいところで「夜、出歩いたら命の保証はできない」と領事に言われたらしいんです。だから夜はホテルで、よっぽどすることがなかったのね。
加賀 いやいや、よっぽど寂しくなってしまったんでしょう。
津村 終わりのほうは「帰りたい、帰りたい」、便箋の半分は「帰りたい」って書いてます。
加賀 まいりました(笑)。僕は女房にそんな手紙を書いたことはありません。
津村 だって加賀さんはいつも奥様がご一緒なんですもの、手紙を書く必要がないじゃありませんか(笑)。
 私が選考委員長をしている「ふくい風花随筆文学賞」で、数年前に『45年目の約束』という作品を最優秀賞に選んだことがあるんです。ある日、お母さんが庭で何かを焼いている。それはお父さんとお母さんが交わした手紙。どちらが先に死ぬかわからないけど、残ったほうが焼くという約束を二人は交わしていたんです。その、夫婦が四五年間に交わしたラブレターが、煙になってずぅっと空に上っていくという。
加賀 うまいなあ。
津村 うまいでしょう。それで私、ある出版社の担当者の方に何げなく「私も吉村からの手紙を焼こうと思う」と言ったら、「やめてください、やめてください!」って(笑)。
加賀 それは絶対に焼いちゃだめ。
津村 今のところ焼いておりません(笑)。
加賀 今回の『愛する伴侶を失って』では、悲しい話も多かったけど、楽しい思い出の話もたくさんしましたね。二人でお話をした後、非常に気持ちが安らかになりました。ありがとうございました。
津村 私のほうこそ。意外なお話、興味深いお話がたくさんうかがえて、思い出に残ります。本当にありがとうございました。

構成=石川敦子
【加賀乙彦/津村節子 著】
『愛する伴侶(ひと)を失って』
単行本・6月26日発売
定価1,260円
プロフィール
加賀乙彦
かが・おとひこ●作家、精神科医。
1929年東京都生まれ。著書に『フランドルの冬』(芸術選奨文部大臣新人賞)『帰らざる夏』(谷崎潤一郎賞)『宣告』(日本文学大賞)『湿原』(大佛次郎賞)『永遠の都』(芸術選奨文部大臣賞)『雲の都』(毎日出版文化賞特別賞)等多数。
津村節子
つむら・せつこ●作家。
1928年福井県生まれ。著書に『さい果て』(新潮社同人雑誌賞)『玩具』(芥川賞)『流星雨』(女流文学賞)『智恵子飛ぶ』(芸術選奨文部大臣賞)『異郷』(川端康成文学賞)『紅梅』(菊池寛賞)等多数。2003年恩賜賞・日本藝術院賞受賞。
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