あの日から二年が過ぎた。ビジネスホテル六角の前の道路、国道6号線を往来する車は、私が初めて南相馬を訪ねた時よりもずいぶん増えた。被災地は、復旧工事や復興に向けてのさまざまな仕事に携わる人たちで、一時的に人口が増えているという。南相馬でも閉店していた店が再開したり、新しいスーパーマーケットができたり、現場作業員のための宿舎が建ったりもしている。新たに開店したパチンコ屋もある。
パチンコ屋は私が南相馬に通い始めた2011年8月にも、市内には何店舗かあり、私がその前を通るのはたいてい朝だったが、どの駐車場にも十数台もの車を見た。時には二、三十台も駐車していて、パチンコ屋は大繁盛という感さえあった。もっとも、車の窓越しに駐車場を見ての感想で、実際に店を覗いてのことではないから、中はさほど人がいたわけではないかもしれない。
だが駐車している多数の車を見る度に、複雑な気持ちになった。私が住む東京でも、開店時刻の前から店先にたむろして、店が開くのを待つ大勢の人を見るが、そんな時に私が思うのは「もっと他にやることがあるだろうに」とか、「若いのにエネルギーを無駄使いして」などということだった。だが被災地で見た同様の光景には、そうは言いきれない思いが混じった。
六角支援隊の大留さんは、辛辣だった。「朝からパチンコ屋なんかに行ってるようじゃ駄目だ。瓦礫撤去とか、やることはいっぱいあるんだよ。少しは自分で稼ごうと思えば、廃品回収だって何だって、探せば仕事もあるんだよ」と言う。それを聞けば私も、そうだと思った。そうだとは思ったが、津波で家や家族を失った人が、瓦礫撤去の仕事に向かえるだろうか? なんとか気持ちをパチンコではなく他に向けてもらいたいと思う一方で、家も仕事も、地域のコミュニティーも、また、人によっては家族さえも失った人が、パチンコで気を紛らわせることも仕方がないのではないかと思えるのだ。
パチンコに代わる何かを提供できないことをこそ、責めるべきではないのか。
狭い仮設住宅にいて気を紛らわせたくて、被災前にはやったこともなかったパチンコをしてみたら、それが病み付きになってしまった人もいると聞く。パチンコやゲームなどへの依存症は問題だろうが、被災地の場合、それは個人の問題なのだろうか。
同じく六角支援隊の荒川さんからは、こんな話を聞いたことがある。
久しぶりに、中学校の同級会をしたそうだ。被災前にはちょくちょくみんなで集まっていたのだが、被災後は遠くに避難した人もいて集まることもなく過ぎていた。久しぶりに集まって顔を合わせた仲間とは互いの無事を喜び合い、また消息の確認もできて、嬉しいひとときだったという。
「同級会がお開きになった後で、みんなでカラオケに行こうって話になったんだ。でも、私は行かなかったの。前に東海村から福島の話を聞かせてって言われて大留さんたちと行った時、こんな質問が出たんだ。仮設住宅にいる人が朝からパチンコ屋に入り浸ってるって聞いたけど、賠償金を貰って、そんなことに使ってるのかって。私は今、借り上げ仮設住宅に住んでるから、カラオケなんかに行って、またそんな風に思われっといけないでしょ。だからね、行かなかったんだ」
荒川さんは20キロ圏内にあった自宅が津波で壊れ、3世代5人での暮しは3カ所に分散して、今は借り上げ仮設住宅暮しだ。家財道具も服も何もかも失って、ゼロから今の暮しが始まった。久しぶりの同級会で、友と一緒にカラオケに行ったからと、誰が責めよう。ささやかな、ささやかな息抜きではないか。外野の言葉を気にせずに、息抜きをして欲しいと思う。
知り合いになった仮設暮しの方たちで、今も挨拶を交わし、六角支援隊が催すヘアーサロンや炊き出し、講演会やイベントに出てきてくれる人は多いが、中には挨拶をしようにも、閉じこもって出て来ない人も何人かいる。家の中にいることは判るのだが、何度声をかけても顔を出さないし、隣近所の人とも顔を合わせず会うと顔を背けるという。
被災から二年を迎えようとする昨年暮頃から、パチンコ屋の駐車場で見る車の台数は、心なしか減っている。新しい店もできたので、分散しているのかもしれないのだが、家の中に閉じこもる人が増えたのではないかと、気にかかる。それならいっそのこと、パチンコ屋に行くほどの元気を出して欲しいとさえ、私は思う。
仮設住宅の居住期限は、当初より延びて三年になり、さらにもう一年の延長が認められた。でも、その先はまったく見えないのが現状だ。
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渡辺一枝
わたなべ・いちえ●作家。
1945年ハルビン生まれ。
著書に『眺めのいい部屋』『わたしのチベット紀行 智恵と慈悲に生きる人たち』等多数。3・11の大震災以後、執筆活動と並行して、被災地でボランティア活動に参加している。 |
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