また3月が巡り来る。メディアはきっと、周年の記事や番組を組むことだろう。そして被災地から遠い私たちは、それによって被災地への思いを巡らすのだろう。だが、被災地の人たちはどうか。
昨年3月11日、私は南相馬にいた。その日はいつも泊まるビジネスホテル六角ではなく、借り上げ住宅に住む荒川さんの家に泊めて頂いた。夕食後のひととき、荒川夫妻に尋ねた。「一年目の今日、どんなことを思って過ごしたの?」妻の陽子さんは夫の登さんを見ながら「どんなって、昨日も今日も変わらないよね。毎日精一杯だもんね」。登さんも「そうだね。家族を亡くした人は、一周忌のことやこれからのことで大変だからなぁ。一年目の日だから特別に何か思うっていうよりも、今をどうするかってことでいっぱいじゃないかなぁ」と言った。答えを聞いて、そんな問いを発した自分が疎ましかった。こんな問いを発することこそ、被災者と私の間の実測できない距離なのだと思った。前年夏から南相馬に通い、行けばいつも荒川夫妻と一緒に仮設住宅へ支援物資を配ったり、ビニールハウス作りや畑作りをしてきた。その間には津波で壊れた彼らの家に何度か一緒に行き、話も聞いた。だが私は、声にならずに呑み込まれてしまった彼らの言葉を、聴き取れていなかったのだと思い知った。
それからも南相馬に通い、また一年が経つ。あれからまた多くを聞かせてもらってきた。そして私は自問する。声にならない言葉は聞こえているか? と。
根本内さんの家は原町区の萱浜にあるが、幸い津波の被害を受けず、3・11後、一度もどこにも避難せずに自宅で過ごしてきた。
「原発事故の後で、どうすべぇと思ってたら友達から電話があったんだよ。そいつも避難しないでいたんだけど、そいつの親戚が料理屋だったんだ。ちょうど地震のあった日に30人くらいの宴会の予約があって料理を作ってた時に地震で、津波だってんで避難して、20キロ圏内だったから、それっきり戻れなくなっちゃったって言うんだよ。友達がその料理を貰いに行こうって誘ってきたんだ。鰈の煮付けや天ぷら、茶碗蒸しなんかもあって、それを貰って帰ったんだ。入る時は裏口からで、出る時は表からだったけど、見たら酒なんかもあるじゃない。そこで一杯やったりしてね。友達と『おい、俺たち泥棒みてぇじゃねぇか』って笑っちゃったよ。いやぁ助かったな。スーパーもなんも、閉まってた時期だからね」
鹿島区のある漁師さんの話はこうだ。
「地震の時は用事で外に出てたんだけど、家に戻る途中で沖を見たら真っ黒い壁みたいに波が立ち上がってんのが見えた。オートバイで逃げるベぇと、家に着いて急いでエンジンかけたところにすぐ後ろに津波が迫ってた。俺のオートバイは時速40キロだけど、津波はずっと俺のすぐ後ろをついてきたから、あん時の津波も時速40キロだった」
それぞれ別の時に聞いた話なのだが、二人とも笑いながら話し、私も笑って聞いた。だがきっと、彼らと私の笑いには大きな隔たりがあったことだろう。私の場合、彼らの話を聞き、彼らが無事で良かったと思いながらも、その時の彼らの様子を思い浮かべての笑いだったが、話してくれた彼らの場合は、その時の空や風、見たものや聞いた音、心によぎったことなどその日の記憶、その日に繋がるそれまでの日々のすべてを思いながらの笑いだっただろう。
鹿島区のお寺では、ご住職からこんな話を聞いた。
「毎月ここにお参りに来る娘がいるんですよ。高校生なんだけどね。あの日、避難所に着いてから友達に電話したんだって。『避難した?』って。電話口で友達が『今避難しようと思って、お母さんと準備してるとこ』って言うのを聞いて『なにしてんの! 早く避難しなきゃダメだよ!』って言ったとたん『ギャァッ!』って声が聞こえて、それっきりだって言うんですよ。可哀想に……」
大切な友人を亡くした女子高生にとっては、月命日だから友達を思いだすのではなく、日々その日が心にあるからこそのお参りだろう。
彼らが生きてきた時間や経験へ思いを馳せ、彼らの視点で“今”そして“これから”を思えば、周年だからとその日を語ることにどれほどの意味があるのだろうか?
また3月が巡り来る。話してくれた一人一人の声が消えずに、耳朶に残っている。
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渡辺一枝
わたなべ・いちえ●作家。
1945年ハルビン生まれ。
著書に『眺めのいい部屋』『わたしのチベット紀行 智恵と慈悲に生きる人たち』等多数。3・11の大震災以後、執筆活動と並行して、被災地でボランティア活動に参加している。 |
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