私は、南相馬の仮設住宅に住むお年寄りの話を聞く時には、六角支援隊の鈴木時子さんや荒川陽子さんと一緒に行くことが多い。現地ボランティアグループの六角支援隊のメンバーは、自らが被災者でありながら支援活動をしているが、中でもこの二人は隊長の大留隆雄さんを支える二本柱的存在だ。
鈴木さんの家は内陸だったから津波の被害は受けずに済んだが、実家は石巻なので、親戚や友人が被災し、亡くなった人もいる。荒川さんは小浜にあった自宅が津波で壊れ、市内の借り上げ住宅に、ご主人の登さんと住んでいる。小浜の家では息子夫婦と孫と三世代で暮らしていたのだが、放射能の影響を考えて嫁と孫は東京にアパートを借りて避難し、福島市内の会社に勤める息子は、普段は会社の寮で暮し、週末には南相馬の両親の所か妻子のいる東京で過ごすという生活を、余儀なくされている。鈴木さんも荒川さんも舅、姑を自宅で最後まで看取った経験を持つので、お年寄りに対して細やかな気配りができる人たちだ。だから私は、この二人と行動を共にすることで、学ぶことがとても多い。また二人は仮設住宅のお年寄りと話す時には地元の言葉で話すので、お年寄りたちも遠慮も躊躇もなく話せるようだ。
寺内第三仮設住宅集会所で蒔田さん、鈴木さん、佐藤さんといずれも80歳以上の三人のおばあさんから話を聞いた時のことだ。蒔田さんが「津波の音が耳ん中で鳴って、眠れんのよ」と言うと、佐藤さんも「んだな。睡眠薬呑まないと眠れんな」と言った。それまでに話を聞いたすべての被災者が、睡眠薬や精神安定剤を日常的に使っていた。目の前で自分の家族や友人、知人が流されていくのを見てしまったら、あるいは、地震や津波の被害はなかったのに、突然そこには住めなくなって、狭い仮設住宅での暮しに追い込まれたら、どんなに心に痛手を負うかは、想像に難くない。その日、蒔田さんたちからはもっとたくさんの話を聞かせて貰って、集会所を辞した。
帰り道に荒川さんは、「蒔田さんが言った津波の音って、私は気が付いてなかった。地震の後ですぐ避難所に行ったから、津波は見てないんだよね」と言った。2011年3月11日、荒川夫妻は自宅にいた。地震後に消防団が、津波の心配があるから避難するようにと廻っていた。荒川さんはそれを聞いて、避難所に避難した。津波が来るとは思わなかったが、みんなが避難するまで消防団の人はそうやって廻らなければならないのは気の毒だと思ったからだった。だから直ぐに戻れると思い、車には夫婦と孫と飼い犬を乗せただけで、何も持たずに家を出た。だが、そうして避難したことが幸いして、荒川さん家族は助かった。
荒川さんは「一人一人みんな違う体験をして、それぞれに傷付いてんだけど、その人にしかその傷は判らないんだね」と言った。荒川さんのその言葉に私は、想像は、ともすれば自分の体験の範疇に留まりがちなものだと知り、話を聞くことの意味の深さと五感を研ぎ澄ませて聴く大切さを思った。
荒川さんも、当初よりも量は減ったが睡眠薬がないと眠れない。親戚たちは実家だった小浜の家を再建して欲しいと言うが、そこにはもう住めないだろう。まだ若い息子たち家族は放射能の影響が少ない土地へ移転した方がいいと思うが、自分たち夫婦には新しい土地で生き直す気力は湧かない。以前のように三世代で暮すことは難しいだろうし、自分たちと息子たちそれぞれの家を建てる資金は捻出できないだろう。どうすればいいのか ……。
荒川さんから聞いて、強く印象に残っている話がある。
3・11以前、荒川さんの家の前の浜にホームレスの男性が住み着いていた。彼は器用な人で、廃材などを使って小屋を作り、拾ってきたガス台にプロパンガスのボンベを繋げて煮炊きもしていたし、廃品のユニットバスと流木の焚き付けで、風呂もあったそうだ。廃品回収で日銭を稼ぎ、目の前が海なので、魚や貝、海藻などを採って料理していたそうだ。魚がたくさん釣れると、荒川さんの家に届けてくれることもあったという。また郵便物などは荒川さんの住所を書いて「その前の某」という宛名で、彼の小屋に届いたらしい。
11年3月11日、津波が引いた時のことだ。荒川さんの家のずっと裏手の家の人がどこからか「助けてくれぇ」と声がするのに気付いて探すと、家の納屋の屋根の上に津波に流されたその男性が、ちょこんと乗っていたそうだ。それから何週間か後のことだが、荒川さんは道で見知らぬ男に挨拶をされた。咄嗟には判らなかったが、あのホームレスの男性だったという。彼が行った避難所は温泉施設だったそうで、すっかり垢も落ちて白くなり、救援物資で貰った服を着て身ぎれいだったので、まったく別人のようだったという。
辛い話を聞くことが多い中で、ホッと笑いを誘われる話だった。
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渡辺一枝
わたなべ・いちえ●作家。
1945年ハルビン生まれ。
著書に『眺めのいい部屋』『わたしのチベット紀行 智恵と慈悲に生きる人たち』等多数。3・11の大震災以後、執筆活動と並行して、被災地でボランティア活動に参加している。 |
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