7月28日から3日間、「相馬野馬追(そうまのまおい)」が行われた。初めて南相馬を訪ねたのは、昨年のこの祭事が終わった後だった。昨年は震災と原発事故で開催が危ぶまれながらも、亡くなった方たちへの鎮魂と復興への願いをかけて規模を小さくして行われたという。それを聞かせてくれた人たちの口調が、ずっと耳に残っていた。津波によって人も、道具も、騎馬の練習をした浜も流されてしまった喪失感と、それでも小規模ながら行った誇りと、小規模でしかできなかった無念さと、それらが入り交じった口調だった。その後も何度か南相馬へ通う中で、この伝統の祭事のことを幾度か耳にした。今年も開催されるなら、ぜひ見たいと思っていた。年が明けて今年の開催を知り、その日を待ち望んでいた。
この祭事の由来を尋ねると、1000年以上昔にさかのぼる。相馬家の始祖、平小次郎将門が相馬御厨の官職だった頃に、下総国葛飾郡小金ヶ原(現在の千葉県流山市付近)の牧に敵兵に見立てた野生馬を放ち、軍事訓練として自軍の兵に捕らえさせ、捕らえた馬を神前に奉じて妙見の祭礼としたことが始まりだと言われている。その後、1323年に相馬氏が南相馬に移り住んでから歴代当主が、自領の安寧と豊穣を願っての神事として明治維新まで連綿と続けてきたという。廃藩置県により相馬藩は中村県になり野馬追は消滅したが、1878年に太田神社が再興して、現在の祭事の形になった。
7月28日、朝7時過ぎに騎馬武者として出陣する村上和雄さん(62歳)を南相馬市大原の自宅に訪ねた。大原は南相馬市でも放射線量が高く、中でも村上さんの家の辺りはホットスポットで帰宅困難区域だ。村上さんは市内の借り上げ住宅で避難生活を送っているが、この日のために数日前から自宅に戻っていた。山形県に避難している息子の光一さんと父子2代での出陣で、和雄さんは今年で30数回、光一さんも既に20回以上になるそうだ。被災前には、小学生だった孫も一緒に3代で出たこともあったという。
馬に衣装を着け、村上さん父子も陣羽織姿に着替えて集合地へ向かった。父子は、まずこの地区の騎馬武者の集合地点で、幔幕の前に腰を下ろしている副軍師の前に進んだ。「某は中ノ郷大原の中頭、村上光一。本日のご出陣、誠におめでとうございます。出陣の折であれば、馬上にての挨拶失礼いたします」などと馬にまたがったまま口上を述べ、軍者の和雄さんも他の武者たちもそれぞれ挨拶をし終えると全員騎馬で、太田神社に向かった。
太田神社での参拝と祝杯の後に大将が出陣の命を出し軍者の振旗を合図に法螺貝が響き渡り、揃って雲雀ヶ原の祭場地へ向かった。その数188騎。小高神社からは小高郷、標葉郷の、中村神社からは北郷、宇多郷の武者たちが出陣し、総勢404騎が雲雀ヶ原の本陣へ集まり出陣式を行った。
翌29日、中ノ郷を先頭に行列して再び本陣に集まった武者たちの衣装は、誰もが昨日と違って筒袖に野袴、それに甲冑を着けている。武者たちの背には、家紋の旗指物が翻っていた。纏や陣太鼓、槍、鉄砲隊など徒の者たちも多数従っていた。照りつける夏の日差しの下で、馬の腹からも汗が滴り落ちていた。
午後はいよいよ甲冑競馬と神旗争奪戦だ。背中に旗指物を着けた白鉢巻きの武者が疾走する競馬も、打ち上げ花火で空高く上って舞い降りる旗を騎馬武者が争い奪うのも、まさしく戦国の合戦絵巻さながらの迫力だった。光一さんは旗を捕り、祭場地の小高い場所にある本陣地まで坂を駆け上り、総大将から褒美の品を受けた。
30日は小高神社での野馬懸だった。騎馬武者10数騎が裸馬を小高神社境内の竹矢来の中に追い込み、白鉢巻きに白装束の御小人と呼ばれる者たちが、思し召しに適う荒馬を素手で捕らえ神前に奉納する。もともと御小人は藩主の身近に仕えた武芸にすぐれた者たちだったという。奉じられた馬は神馬として大事にされたそうだ。これが本来の野馬追の名残をとどめる神事だ。前日の甲冑競馬や神旗争奪戦などの合戦は明治時代以降に生み出された祭事だという。それを知って日本の近代国家への道筋を見た気がした。
村上さんは、野馬追がこうして震災前同様に復活したことを喜びながら、「だけど、大原の家には戻れないな。あそこでは家族8人が一緒に暮らしてた。今は3カ所に分かれて暮らしてるよ。一番悔しいのはそれだな。家族も近所の人も、みんなバラバラになってしまった。毎朝出勤前に馬に餌をやってたんだが、馬も手放した。市内のアパートじゃ、飼えないからなぁ。今年は栃木県の牧場から馬を借りて出たんだ。野馬追は、自宅から出陣するのが本当なんだがな」。除染もされていないし、地区での除染廃棄物の仮置き場も決まらなければ除染に手が付けられないという。祭りは復活しても、故郷を奪われた暮しがあった。
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渡辺一枝
わたなべ・いちえ●作家。
1945年ハルビン生まれ。
著書に『眺めのいい部屋』『わたしのチベット紀行 智恵と慈悲に生きる人たち』等多数。3・11の大震災以後、執筆活動と並行して、被災地でボランティア活動に参加している。 |
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