暴走するグローバル経済が世界秩序を崩壊させ、社会は極度に不安定化。これに耐えるうのは「大きな政府」しかないというジレンマ――。
集英社新書の新刊『静かなる大恐慌』で、大恐慌の本質とグローバル化の反転という危機を精緻に描き、世に警鐘をならす気鋭の経済思想家・柴田桂太さんにお話をうかがいました。
「静かなる恐慌」が始まっている
――柴山さんの初の単著『静かなる大恐慌』は、今のEU危機を対岸の火事としてしか見ていない日本人にとっては、かなりショッキングな内容です。日本人が体感できていないだけで、これは「静かなる恐慌」なのだという警告から本書は始まりますね。
今の「静かなる恐慌」は、「恐れ慌てる」パニック型の恐慌ではないので、この経済危機を「恐慌」と呼ぶことに反発があるのは、分からないでもないのです。銀行の取り付け騒ぎが世界各地で起こったりした一九二九年のあの世界大恐慌と、今の不景気を同列に置くのは、おかしいじゃないか。そういう反論が来ることは、予想しながら、書いていました。
しかし、実際にはじけたバブルの大きさを見れば、戦前の大恐慌前のバブルに匹敵するか、あるいはそれ以上の規模ですから、この経済危機は相当なものです。にもかかわらず、二〇〇八年のリーマン・ショック以降の経済危機が、おだやかに見えてしまうのはなぜか。
それは各国の政府がなりふりかまわずに、企業を救済し、金融緩和で市場にお金を流し、財政出動を行って、あの戦前の世界恐慌のときのようなパニックを防いでいるから、というだけのことなのです。バブル崩壊後の債務デフレは長引くので、たとえて言えば、今は止血剤を施したという段階です。その処方の副作用が問題化してくるのはこれからです。
しかも、現在の恐慌によって影響を受けるのは、いわゆる経済だけではありません。世界経済の混乱が長引けば、各国は争って他国の需要を奪いあい、国際関係は相当ぎすぎすしてきます。国内の政治や社会が受けるダメージも大きく、内紛も頻発するでしょう。つまり、二○世紀初頭の世界恐慌、世界大戦の時代にも似た様相を現代は見せ始めている、というのが私の見方です。
恐慌を引き起こした真犯人は?
――現在の世界経済危機、そして戦前の大恐慌のいずれも「グローバル化」が問題の根っこに存在している、という柴山さんの指摘は、非常に刺激的でした。しかも、今、進んでいるグローバル化は近代に入ってから、実は二度目のグローバル化である、と。
歴史統計が整備されてきたおかげで、一九世紀末から二〇世紀前半にかけても、ヒト・モノ・カネの移動が相当さかんに行われていていたこと、つまり、世界経済の結びつきが現代と同じように密接だったことが分かってきました。当時を第一次グローバル化の時代だとすると、現代のグローバル化は第二次のグローバル化なんですね。
グローバル化というと、ポジティブな面ばかり日本人は見る傾向がありますが、世界が密接に結びついた、資本移動の激しい時代の経済は、非常に不安定で、脆弱なのです。ある国でバブルが起きれば、そこに資金は一気に流れ込むため、急激に、そして大規模にバブルは膨らみ、またそれがはじけるときには、一気に破裂し、国境を越えて深刻な経済危機が連鎖してしまう。
しかも、世界的な恐慌を引き起こすだけでなく、急激な経済の崩壊は、国家間の対立にまで発展してしまうでしょう。実際、歴史を振り返ってみれば、第一次グローバル化は第一次世界大戦、第二次世界大戦という二つの戦争によって終わったのです。つまり、第一次グローバル化は平和をもたらすどころか、経済戦争で始まった国家間の対立が、戦争にまでいきついてしまった。このことは、現代のグローバル化を考えるうえで忘れてはいけないポイントだと思います。
グローバル化のあやうさ
――柴山さんによれば、第一次グローバル化によって、ドイツが急成長してイギリスの優位性が失われていく。その結果、ヨーロッパ諸国のパワーバランスが大きく変化したことが、欧州情勢を不安定にさせて、第一次世界大戦につながっていったのだと。現代のグローバル化も、同様に各国のパワーバランスを変えている面があるのでしょうか?
現代では中国が、戦前のドイツと同じようにグローバル化を利用して一気に経済大国にのし上がりました。しかもその力はすべて軍事力に反映されます。たとえば中国はこの二〇年間で軍事費が五七五%も増えているんですね。ですから、いま、中国を中心にアジアできな臭い動きが数多く起こっているのは、中国の急成長によるところが大きい。これは戦前のヨーロッパで起こったことと、基本的には同じ構造です。
もちろん、現在は核兵器の時代ですから、簡単に大国間で戦争が起きることは考えにくい。しかし、中東で起きている一連の動乱もこの経済危機と無縁ではないですし、現在の欧州危機がアジアに飛び火していくようなことが起きると、さらに紛争リスクは高まっていくと思います。
――歴史に学べば、グローバル化は決して手放しで礼賛できるようなものじゃないということですね。それなのになぜ、グローバル化に対しての楽観的な態度が広がってしまったのでしょう?
現象面でいえば、グローバル化は半ば政策的に導入されたものであり、半ばつき合わざるをえないものでした。日本の視点から見ると、そもそもアメリカの経常収支赤字が広がってきて、九〇年代以降、金融自由化を始めていくという流れがあったわけで、世界の中心がやり始めたら、ほかの国もつき合わざるをえないですよね。その結果、どの国も金融を自由化して、金融グローバル化が進んでいく。そういった流れのなかで、グローバル化に乗り遅れるな、という論調が何度も繰り返されてきたんです。
ケインズを通して気づいた現代の危機
――柴山さん自身がグローバル化はあやういと考えたのはいつ頃でしょう?
九〇年代の終わり頃ですね。アジア通貨危機で世界経済が混乱し、日本でも大手金融機関が次々とつぶれて、就職氷河期が到来した、あの頃です。私も、いわゆるロスト・ジェネレーションですから、同世代はみんな苦労していたかな。
――日本が本格的にグローバル化に傾いていくのは二〇〇〇年代に入ってからですから、かなり早い時期から気づいていらっしゃったわけですね。
もし早いとしたら、経済思想、特にケインズの研究をしていたせいですね。当時、驚いたのが、ケインズの分析が、ほとんどそのまま現代にもあてはまる、ということでした。ケインズは戦前の恐慌期に財政出動を提唱したことで有名ですが、彼の研究全体を見渡すと、彼の目にはグローバル経済が持つ本源的な不安定性がはっきり映っている。そんなふうに感じられたんですよね。そして、ケインズを読み込むうちに、この危機は、グローバル化のせいだ、と直感したというわけです。
しかし、現在の主流派の経済学には、ケインズのように危機を見据える思想がありません。いわば平時の思想でとどまってしまっている。何もない無風の状態での市場のことしか念頭にない。だから、大きなバブルが崩壊するような危機を、経済学はあまり想定してこなかったし、こんな時代は、経済学だけの知見では乗り切れない。政治学、歴史学、経済思想など、もっと総合的な見方を踏まえたうえでの議論をしないと、この混乱した時代から抜け出すための処方箋は得られないんじゃないか。それが今回の本の執筆の動機でした。
――現在のグローバル化は今後、どのように展開していくと考えていますか?
グローバル化が進んでも、民族意識って簡単に消えませんから、世界経済が悪くなると、まず一国のなかの外資系が叩かれるんです。途上国、新興国ではその傾向は特に顕著で、実際、インドではスズキの自動車工場に火をつけられたりしているし、中国でも日系と外資系の企業が襲われている。だから、これから海外に投資することのリスクが、すごく高まると思うんですね。
戦前のグローバル化の帰結がそうであったように、グローバル化の動きは、これから、必然的に「脱グローバル化」のプロセスに入っていくはずです。つまり、外に開くより、国家単位、地域単位で閉じていくプロセスに入るわけです。ブロックとか保護という形で閉じていくというプロセスが必ず来るのだと思うのですよ。
ところが、特に日本では、これだけ経済が混乱しているにもかかわらず、グローバル化が終わるとは誰も考えていない。人類の歴史はグローバル化に向かうのが必然だと、みんな、信じて疑っていない。僕はそこに強烈な違和感を持っています。
グローバル化ではなく国民資本主義を
――戦前は世界恐慌から各国が保護主義へと舵を切って、ブロック経済のもとで「経済戦争」に突入してしまいました。今回の脱グローバル化も、そうした危険性をはらんでいるのでしょうか?
僕は保護貿易そのものが悪いとは考えていません。それは程度の問題であって、戦前の場合は、極端な自由主義が極端な国家統制に急転回してしまったところが問題でした。実際に一九三〇年代のアメリカは、工業、商業、金融といった分野で強い規制がかけられました。つまり国が市場を抑え込むわけです。ナチスもそうですね。
ですから、理想を言えば、極端な自由放任でも統制経済でもないところに、着地点を見つけるのが文明の知恵というものだと思うんですが、それを言おうにも、現在の経済学や経済思想はあまりに自由貿易に傾きすぎている。だから、僕はいろんなところで言うんです。純粋な意味での自由貿易なんて、人類史上実現したことは一度もないし、それが望ましいという保証だってないんじゃないかと。
――それは資本主義の適正な着地点を問い直すことでもありますね。本書の終盤でも、「資本」の概念を拡張する必要性を説いていました。
じつは我々の生活というものは、すべて先行世代からの有形無形の投資の上に成り立っているんですよね。それは貨幣だけじゃありません。人間関係、組織、教育、知識といったものも含めて、先行世代から蓄積されてきた「国民資本」と呼ぶべきものが、今の私たちの生活を支えているわけです。
そのように考えるならば、これからは逆に、我々の世代が、次の世代にそれを送り渡すという義務を負うわけですよ。こういう議論も、経済学にはなかなか入ってきませんが、農業だって製造業だって、一度壊すと簡単には再生できない。それは多少なりとも働いた経験があれば、常識として分かることだと思います。
グローバル資本主義は、貿易や投資を自由化することで、グローバル市場全体で分業が進むので、各国の国民資本を不安定なものにしてしまいます。はたして、それでいいのでしょうか。
戦後の経済は、グローバル資本主義から国民資本主義へと転換することで、「資本主義の黄金時代」をもたらしました。国民資本主義とは、農業から工業、商業まで含めた国内の多様な産業を各国が持ち、国内で内需を生み出したうえで、お互いの足りないものを貿易しあうような世界経済のビジョンであり、アダム・スミスが「諸国民の富」という理念で述べたことでもあるのです。
戦争へと至った戦前の歴史を繰り返さないためにも、グローバル経済の危機を正面から見据えながら、「国民資本主義」という理念を鍛え直す時期に来ているように思います。
構成=斎藤哲也
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柴山桂太
しばやま・けいた●滋賀大学経済学部准教授。
1974東京都生まれ。共著書に『成長なき時代の「国家」を構想する 経済政策のオルタナティヴ・ヴィジョン』『危機の思想』『グローバル恐慌の真相』『日本および日本人論』等。 |
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