最新刊『水のかたち』は、五〇代になったばかりの主婦・能勢志乃子を主人公に、その日常に起きた出来事や人間関係が織り成す綾を丁寧に描いた長編小説である。志乃子は、東京の下町に夫と子供たちと共に暮らす、空想好きの人のよい主婦。そんな彼女がある日、閉店するという近所の古い喫茶店の女主人から、年代物の文机と茶碗、手文庫を貰い受けることに。その茶碗に三〇〇〇万円の価値があることが後で判明したり、同時に手に入れた手文庫には戦後北朝鮮から大変な苦難を越えて脱出した人物の手記が入っていたりと、穏やかだった志乃子の人生に思いがけない変化が生じる。緩やかな水の流れにさざ波が立つように―。
五〇代の坂で試される人間力
――どう五〇代の水は流れ落ちていくのか、最後まで志乃子に寄り添うように一気に読んでしまいました。この小説を読んで「平凡な主婦」などない、みんなそれぞれに自身の「水のかたち」があるのだと思いました。
この小説のタイトルを『水のかたち』にしようと思った最初から、僕は水がサラサラと流れていくような文章の小説にしたいと思っていたんです。さあ小説が始まるぞという始まり方やこれ見よがしの大団円があってというのではなく、どこからか水がサラサラと流れてきて、それが少しずつ太くなっていき、そしてそれが小さな川になり、大河になり、いつのまにか海のどこかに消えていくというような小説にしたかった。逆に言えばそういう小説を書きたいと思っていたから、自然に題も『水のかたち』になったんでしょうね。
――五〇代の女性主人公を描くのは初めてだそうですね。五〇肩だの腰痛だの、のぼせだの、更年期にまつわるこの世代の女性たちの厄介な症状がさりげなく挿入されていて、とてもリアルでした。
ええ。男も女もですが、五〇歳という年齢を境に、いろいろ体の変調などもはっきりと出てきますし、けっこうつらい時期なんです。僕もちょっとうつっぽくなったり男の更年期を経験していますから、そのつらさはよくわかる。もう何でも妻の後からついていくという濡れ落ち葉みたいになってきてね(笑)。すると自分の行く末に対する考え方もどんどんネガティブになってくるんです。
でもね、今から考えると五〇歳なんてまだまだお尻の青い、嘴(くちばし)の黄色い、はなたれ小僧やったなーと思う。つい先日
も八三歳の方に「宮本、おまえいくつになった」と聞かれて「六五歳です」と言ったら、「若いなー。還暦を過ぎたということはゼロに戻ったということだよ」と言われましてね。で、「おまえいくつだ」ともう一遍聞かれたので「五歳です」と答えた(笑)。
――「はなたれ小僧」は女性の五〇代も一緒ですね。
同じです。二〇代で結婚して子供を生めば、五〇代になれば子供はもう社会人になる年頃ですね。そうすると、亭主も年を取ってくるし、何となく、私の人生これでいいのかな、私これで終わり? みたいな気になってくる。このままずっとおさんどん続けて、夫の世話を焼いて、そのうちどちらかが要介護認定を受けてと。「え、私の人生こんなものなの」という思いが精神的に一番どんとくる時期だと思うんですよ。
肉体的な老化は、誰にでも当然やってくる自然現象です。それによってつながっていく自分の人生との向き合い方は、性格によってそれぞれに違います。五〇歳というのは、いい意味でも悪い意味でもそういう大きな山を越えるときなんだと思いますね。
だからこそ、五〇を過ぎた人間と、そうでない人間とは、そこで人間力の差が出る。といっても人間力なんて、つけようとしてつけられるものじゃないし、鍛えようがないものですよね。病気になれば、人間力がつくというものでもない。いろいろなことがあるでしょう、子供のこと、家庭のこと、夫の仕事のこと、あるいは年取った親のこともあるし、ご自分が仕事をなさっていたら、そのこともあるでしょう。
そこへ同時に体の不調や変調がやってきたときに、どうそこで人間は乗り越えていくのか。その一つの流れをこの志乃子という一人の女性主人公に託したということです。
善き人たちとのつながりが幸福を呼ぶ
――読み終わってみると、偶然の出会いや新たな人物との邂逅も含めて、志乃子らしく自然に乗り越えていったように思えます。
そう、彼女は別に乗り越えようとして乗り越えたわけじゃない。自然に、一つの流れの中で乗り越えていくんですね。流れに身を任すというと、他力本願的ですが、決してそうではない。彼女は無意識のうちにいい流れの方に自分の人生を導いたのですね。
じゃあ、いい流れはどうすれば、自然にその人に寄ってくるのか。人には、いい流れを呼ぶ人と、悪い流ればかりを呼ぶ人とがあるんです。これは小説の後書きにも書いたのですが、やはり、善き人たちとのつながりだと思うんです。その善き人たちとのつながりが、つらい時期を癒し、いい流れを呼び込むきっかけになる。
私たちの人生には、予期せぬ災厄や突然の不幸はつきものですし、何かと思い通りにいかないことも多いですよね。そういう渦中にあっても、善き人たちがつながりあっていくことで、求めずして幸福が舞い降りてくるということがあるんです。それは私自身が経験したことでもあります。では、いかなる人を善き人というのか、それは、この小説を読んでいただければわかると思います。
――志乃子の姉や母親、近所のおじさんやおばさん、あるいは同世代の女友達との関係など、それぞれ葛藤は抱えていても、みんな善良な人々です。でも考えてみると、この小説に出てくる善き人たちとのつながりというのは、ありそうで意外とないかもしれないですね。
ええ、現代社会ではどんどん希薄になっています。それはどうしてなのかと考えてみると、人間って非常に嫉妬深いんですね。友達の旦那は大会社の役員になったのに自分の亭主はリストラされたとなれば、仲のいい友達だろうが妬み心が生じますね。でもね、立場が逆になったらどうか。そういう嫉妬心が強い人が、今度はきっと必要以上に上から目線になるんでしょうね。
収入だとか地位だとか、そんなものを尺度にして物事を考える人の一番欺瞞的なところは、今の自分よりいい人に思われたいという気持ちが人一倍強いということなんですね。
僕は人間の一番汚いところは、じつはそこなんじゃないかと思っているんです。人からもっとこんなふうに思われたい、いい人に思われたいという気持ちは表裏一体で、自分より劣っている人をさげすむのと同じことです。これを同じだと考えない人が、今すごく増えていますね。
――そういう部分が志乃子にはまったくないですね。
志乃子自身もそうだし、姉の美乃にもジャズボーカルをやっている女友達の沙知代にもない。小説の最後の方で、沙知代に志乃子のよさを語らせたのは、少し説明しすぎかなとは思ったんですが、読者に善き人のあり方に気づいてほしかったということもあるんですね。
志乃子は自分を自分以上のものに見せようとしたことが一度もないと、沙知代は言う。自分は自分の技量以上に見られたいと思っていたからだめだった。それがわかってから自分の歌は変わったと。
――女友達の沙知代からすれば、志乃子という善き人とのつながりが、自分の歌を変えてくれたわけですね。
五〇代というのは、結婚でも仕事でも、成功したかしなかったかみたいな、そういう表層的な面で差が出てくるときなんですね。自分をよく見せたい、幸せそうに見てほしいという気持ちが出てくる時期といっていい。でもそこで悪い流れに身を任せてしまうと、どこまでも救われないし、幸福は舞い降りてはこないと思うんです。
お金のあるなしとか、社会的な地位があるとかないとか、学歴のあるなしとか、人にはすごい格差があるように見えるけど人間としての基本は同じですよ。だからこそ五〇代から人間としての力が試されるんですね。
実話を小説に合体させる試み
――志乃子が偶然手に入れた手文庫の中から、一九四六年に北朝鮮から三八度線を越えて脱出したことを書き留めた壮絶な手記が見つかり、この小説は思わぬ展開を見せていきますね。
後書きにも書きましたが、最初はこんな話の展開になるとは自分でも予想がつきませんでした。じつはこの小説の連載中に、昔仕事でお世話になった方の奥さんで、和泉喜久子さんという方から三〇数年ぶりに連絡がありまして。自分の父親の遺品にあった手紙や手記を読んでほしいと言うんですね。
その熱心さに動かされて、八六歳になるという和泉さんのお母様を訪ねると、亡きお父様の手記や古いアルバム、そして北朝鮮脱出時に五歳だった幼い喜久子さんが背負っていた小さな手縫いのリュックを見せられたんです。
その手記や手紙を読んで、これはすごい話だなと思いましてね。僕は戦後生まれですし、戦時中も戦後すぐのこともよくわからない。でも、シベリア抑留から、あるいは中国満州から命からがら帰ってきた話というのはよく聞いても、三八度線越えというのは、めったに聞けない話です。
しかも、喜久子さんのお父様は、自分の家族だけでなく、北朝鮮に渡って一緒に苦労をした同期の人たちを一人でも多く祖国の土を踏ませようと奔走し、朝鮮の人を船頭に雇い、小さな船に百五十人もの日本人を乗せて脱出を試みるんですね。
ああ、これはまさに僕が今書こうとしている、善き人のつながりの非常に大きなキーポイントになる人物だと直感的に思ったんですね。それで何としてもこの話を入れようと思い立ったわけです。だからほぼ内容は実話なんです。どう入れるかは悩みましたが、この小説の主題に深く結びついていくだろうという確信はありました。
――時代も空気も今とはまったく違う話なのですが、志乃子の人生に触れる話として、驚くほど違和感はありませんでした。むしろこのエピソードがあることによって、過去に生きた人々の勇気や希望が、連綿とつながって水の流れを作っているという宮本さんの眼差しの深さを感じました。
そう読んでもらえたらありがたいですね。突然違う世界がぱっと入ってくるという小説のかたちになりましたが、ついだらだらとしてしまいがちな長い小説の中で、キュッキュッと結わえ直すというか、締め直すというか、そういう部分ができたかなと思うんですね。
僕はね、小説というのは比喩や抽象だけではだめだと思っているんです。物事や人生には具体がないとだめです。具体的ではなく、具体そのものが小説には非常に大切で、そのために芸術ってあると思う。その具体をどう表現しようかと考えて、まず最初に志乃子が喫茶店の女主人から貰い受ける古い文机を登場させたんです。どうしてかわかりませんが、その具体が出てくると、小説ってどんどん勝手に動き出していくんですね。
五〇歳を過ぎないと巡り合えない幸福
――五年という長い連載期間、志乃子という五〇代の女性主人公と付き合ってきて、宮本さんの中で何か変化がありましたか。
志乃子に限らず、登場人物のみんなを少しずつ成長させたいというのはありました。目に見えて成長するのではなく、気が付くと、あれ志乃子が何か変わったなとか、姉の美乃の印象が変わったなとか。別に本人がよく変わろうと思ってたくらんだのではなくて、先ほどから言っている善き人たちとの関係の中で自然に成長しているという変化を見せたかったという思いはあります。
志乃子は空想好きな主婦ですが、そのファンタジーは、ワンダーランドのような架空の世界に入っていくものではないんですね。あくまで現実の世界での空想です。そして『水のかたち』という小説も、どこまでも現実の世界で巡り合う出来事や人間関係を描いている。
我々だって現実のこの世界でしょっちゅうお金の心配したり、嫌な人間と付き合ってストレスをためたり、思い通りにいかないことばかりですよね。そういう中に、志乃子も生きている。そういう現実の世界において、開けていく世界を僕は描きたかったんですね。彼女たちの善きつながりを通して、突然舞い降りてくる幸福な世界があるよということを。
そして、人間、五〇歳を過ぎないと絶対に訪れない幸福が山ほどもあるよということもね。僕自身、五〇を過ぎてからそれを実感しました。だから人生、五〇からです。五〇歳を過ぎないと巡り合えないことっていっぱいあるし、それはそれまでに巡り合ったものより、はるかに大きいものですよ。だからね、ああまた一つ年を取ったという考え方をやめて、年(イヤー)を重ねるごとに人間として若返っていくと考えた方がいい。
――どんどん「はなたれ小僧」になっていくと。
うん、ホントにはなたれたりして(笑)。でもそのくらいに思った方が、今まで考えもしなかったような世界が開けていくんだと思いますよ。読者にはぜひそういう幸福を味わってほしいと思います。
聞き手・構成=宮内千和子
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【宮本 輝 著】
『水のかたち』(上・下) 単行本・集英社刊 9月26日発売・定価(各)1,680円 |
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宮本 輝
みやもと・てる●1947年兵庫県生まれ。
77年「泥の河」で太宰治賞を、87年「螢川」で芥川賞を受賞。著書に『道頓堀川』『錦繍』『青が散る』『流転の海』『優駿』(吉川英治文学賞)『焚火の終わり』『約束の冬』(芸術選奨文部科学大臣賞文学部門)『宮本輝全短篇』『骸骨ビルの庭』(司馬遼太郎賞)『三十光年の星たち』等多数。
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