青春と読書
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集英社新書 落合恵子著 『自分を抱きしめてあげたい日に』刊行記念
対談 言葉をリサイクルする 落合恵子×長田 弘
自分自身を甦らせてくれた言葉たち―――。意外にも一般新書は初刊行という落合恵子さんが本書のテーマとしたのは言葉の力≠ナした。7年間の自宅介護のすえ母を看取った落合さん自身の喪失感をはじめ、仕事や日々の溝を埋めてくれた、さまざまな絵本、詩集、そして人々の姿や発言。本書の冒頭で紹介されている詩を著わした詩人・長田弘さんを迎え、言葉が持っている力について、お話しいただきました。


言葉がやってきたこと

落合 この『自分を抱きしめてあげたい日に』の冒頭に、わたしたちクレヨンハウスがつくらせていただいた長田弘さんの『詩ふたつ』から「花を持って、会いにゆく」の一説を引用させていただきました。
長田 嬉しいです。
落合 そこで今日は言葉を中心に、お話しさせてください。
 長田さんの詩、「ことばって、何だと思う?/けっしてことばにできない思いが、/ここにあると指さすのが、ことばだ」――これ、とても大事ですよね。今、わたしたちは、何でも言葉にかえないと落ち着かなくて、そのために既製の手持ちの言葉の中から、出来るだけそれに近い適当なものを見つけ、そこに自分の気持ちを落とし込む、という作業をする。
 わたしは、言葉に出来ない思いがあると指さすのが言葉なんだと知った瞬間、ちょうど母を亡くした後だったというのもあるんですが、「いいんだ。言葉にしなくていい感情があり、言葉にしなくていいわたしの心という部屋があるんだ」と思えて、とても救われたんですね。
 社会においてもそうで、例えば、被災地に言葉を贈る。これも大事なことだけれども、しなきゃいけないと思い込んでしまう。あるいは「絆」という言葉をみんなが多用することで、ある種のイメージが形づくられていく。そういったことを一回休んで、深呼吸してもいいのかなという気がしています。「言葉の力」について書いたのが本書ですが、同時にそれは言葉から解放される瞬間のかけがえのなさについても書いたつもりです。
長田 言葉って風みたいなものだと思う。言葉に出来ないものの水面を、言葉の風が渡ってゆくと、言葉にできないものが波紋になってひろがってゆく。
 言葉は自分がつくるものでも、自分でつくれるものでもなくて、すでにある言葉をいま自分が使うもの。ですから、どう使うかが問われるのが言葉ですよね。
 言葉というのは本質がリサイクルなんです。書くのも読むのも聞くのも、言葉をリサイクルすること。社会がすでにずっと使ってきたものを、いま、ここに新しく再生利用して、再循環させる。
落合 それはありますね。わたしもこの本ではいろいろな言葉をリサイクルして、使わせていただいています。あと、新しくつくるというか、リサイクルし直すという中で、もう一つ大事なのは、社会や歴史がマイナスのイメージで使ってきた言葉を、違う視点からプラスに転化させること。
 例えば、この本でも紹介したんですが、わたしの愛唱歌ヘレン・レディの『私は女』のように、「女」という言葉はあまりいい言葉ではないから「女性」と言いましょうとか言われてきた長い時代があり、それを、あえて「女」と使うことによって、社会的なある種登録されていたイメージ、つまり固定観念を逆転してしまおうという使い方もたくさんありますよね。
長田 寄ってたかって出来てしまう固定観念が、言葉を役立たずにしてしまう。言葉に付きまとう固定観念は、それだけに一つ一つ丁寧に洗い落としていく、そぎ落としていくしかないんじゃないかなと思うんです。
落合 「孤独」という言葉もそうした一例ですよね。わたしは、「孤独」という言葉をマイナスのイメージで使ったことがないんです。むしろとても大事な、自分を耕す土壌のようなものだと思っています。でも、世の中に流布される「孤独」は寂しくて、暗くて、重くて……。「孤独死」のように「死」がついたりすると、やっぱり怖ろしいイメージがつきまとってくる。
長田 今おっしゃった「孤独死」とか「孤立死」とかにしても、頻繁に使われるのはマスメディアや行政の用語としてであって、そんなふうに用語として使われる言葉というのは、意味を一つにしてしまう。言葉を活かすニュアンスを無くしてしまう。英語だと、ローンスター(一つ星)とかローンウルフ(一匹狼)とか、孤独であることは単独であることで、むしろ誇り高くということだったりする。日本語でも、自尊とか自存とか、天は自ら助ける者を助けるとか、すごく気分のいい言葉があった。だから、「孤独」だって、昔からけっして暗いイメージをまとっていたわけではないはずなのに、たかだかこの百年くらいのうちに出来上がってしまった固定観念ばかりがまだまかり通ってしまってる。

「わたし」の変遷

長田 日本語の一人称は難しい。英語なら「わたし」も「ぼく」も「おれ」も、アイ・マイ・ミーだから、「アイマイだなぁ」なんて(笑)。それに比べると日本語の一人称は結局、それをどう使うかによるでしょう。わたしは、漢字の「私」というのを文章で使いたくないので、平仮名にしています。
落合 平仮名ですよね。わたしも「私」ではなく平仮名。
長田 「わたくし」と言う人もいます。
落合 そう。「く」は抜かしたくないと言う方ね。
長田 いい例かどうかわからないけど、中学生時代のわたしは、ずっとある読み間違いをしていたんです。明治時代の女性解放運動の先駆者福田英子の自伝を、ずっと『妾(めかけ)の半生涯』というふうに読んでいたんですよ。
落合 あれは、妾と書いて「わたし」と読ませるんですよね。とくに中学生のころって、書名に「妾」とあるだけでドキッとする。
長田 それが、一人称にもすごい変遷があるんだというのを知るきっかけになった。それをずっと考えていくと、自分の人称をどう発見するかという、とても重要なことにつながる。
落合 なるほどね。小学生から中学生の女の子にフィクションを書こうと言うと、ほとんどが「僕」という一人称です。主人公は男の子。多分、無意識のうちに「わたし、あたし、わたくし」ではなく「僕」と書く。あるいは、「僕」というものが、今まで歴史や社会の中で手にしてきたもののほうが、悲しいかな、まだ彼女たちにとっては輝いて見えるために「僕」が主人公としてふさわしく思えてしまう。
 それから、男の子言葉を使う女の子を、エライおじさんたちはよく怒りますよね、言葉が性の境界線を越えてはいけないって。でも、わたしは何となくわかるんです。男言葉に自分を託したい女の子がたくさんいるという事実があるっていうことからね。
長田 託すだけじゃなくて、それはかっぱらうことでもある。
落合 まさに「言葉を盗む女たち」ですね。アメリカ女性詩論に同じタイトルの本があるけれども、つまりそういうことだと思いますね。
長田 だから、託したり、かっぱらったりしないと自分の言葉に出来ないということもある。言葉はだれのものかということですね。言葉は私有できないんです。パーソナルなものであると同時にパブリックなもの。その往復が言葉をリサイクルするってことでもあるんです。
落合 そう、まさにリサイクルですよね。フェミニスト、デール・スペンダーの著作“Man Made Language”(邦題『ことばは男が支配する』)ってあるじゃないですか。直訳すると「言葉はすべて男がつくったものだ」と言っている。そこから女性自身が言葉をつくっていくためには、引用してまた引用して自分の体を何度も通さないと出来ないという不幸があるのは確かですね。
長田 言葉も一つの制度として働いている。人間のつくってきた制度というのは多くが男がつくってきたものだし、かつて、あたかも男が人間の基準であるかのようですらあった。でも、チェアマン(chairman 議長)という言葉が、マンだと男性だけをさしているようだという理由でチェアパーソン(chairperson)に変わってきている。
落合 ファイアーマン(fireman)がファイアーファイター(firefighter)に変化したり。
長田 パーソンというのは、「個人」という意味でもあるわけです。マンはそうじゃなくて「男」であって、「人類」まで意味することすらある。ところがなかなかよくしたもので、地球つまりマザーアースというのは女性名詞ですよね。男性名詞は、どこか人工的なもの、制度的なものを意味してる。
落合 フランス語で海、La merも女性名詞ですしね。
長田 自然は女性。人工が男性。今の世に起きているいろいろなトラブルは、多くが男性によってつくられた人工的なものが原因となっているといえるかもしれません。
 ずーっと昔から言われてきた言葉に、「人事を尽くして天命を待つ」というのがありますよね。人事というのは会社の人事と同じ字ですけれども、もともとは人の世のこと。漢和辞典を引くと、実に適切な説明がついているんです。人事というのは「人間として出来る範囲のことをすること」。
落合 それは、おもしろいですね。
長田 感心しました。だから、人間に出来る範囲のことをして後は天命を、自然の摂理を待たなきゃいけない。それが自然なんです。
落合 天命のほうに女がいるわけですね。
長田 言葉だって、人が生まれてもつ言葉は母語であって、父語とは言わない。それなのに、何でもかんでもやれる、決めると言って、自分の出来る範囲を知らずにやっている。
落合 その一番象徴的なものが、わたしも反対の活動をしていますが、原発です。
長田 千年近くも昔からそういう知恵の言葉があるのに、天命のほうはどっかにいっちゃってしまってる。

引用が歴史をつくる

長田 わたしは自分の読書の経験を踏まえても、引用されたからこそ強烈に覚えている言葉というのがいっぱいあるんです。
落合 確かに、ありますね。
長田 どういうふうにして書かれたのかなんてことは抜けちゃって、引用されたことだけを覚えているんですよね。あの言葉、あのときだれが引用していたなという覚え方は、非常に自然なんじゃないでしょうか。歌もそうでしょう。サビのところは覚えているけど、あとは覚えてない。覚えているところこそが引用なんです。
落合 全部覚えているわけじゃないです。でも、自分の内側を通して、自分の中に根をおろしてくれる言葉があります。
長田 だれのどういう本を読んでも、そこでもし自分が引っかかる言葉、あるいは引きつけられる言葉があるとすれば、その言葉を自分の中でリサイクルする瞬間があると思えるんです。引きつけられる本というのは、間違いなく他者との架け橋というか、いわば互換性を持ったもの。
落合 そう思います。“たびたび”を許されるものというのかな。読むたびに、あるいはその人が書くたびに、互換性が深く広がっていくものが、わたしたちにとって大切な言葉なんだろうと言えますね。
長田 そうですね。だれかがそれを引用していた、あの人も引用していたというようなことがつながって、むしろ歴史となってきた。言葉にオリジナルなものというのは、ないんじゃないかと思います。もともと言葉そのものがオリジナルなものではなく、手渡され伝えられていくものですから。ところがなぜか今はすぐに造語しようとするんですね。でも実は造語というのは、一等初めに古くなっちゃうんです。
落合 ある期間だけの、ほんとうに限定された言葉という感じですよね。
長田 今、アジャパーなんて言ったら笑われるでしょう?
落合 アジャパー(笑)。何ですかぁっ!? て言われちゃう。
長田 それってスカパーのことですか? とか何とか言われたりして(笑)。造語はすぐに忘れ去られてしまうんです。互換性がないし、リサイクルも出来ないから。
落合 ところでわたしの場合は、声に出して読みにくい本というのは、自分との距離が出来てしまいますね。ご本人を前にして照れますが、長田さんの詩は声に出して読むのがとても気持ちいいんですよ。本には、声に出して気持ちいいのと、そうでないものがあって、その違いってとっても大きいと思います。
長田 実際に朗読して、読みにくいところがあったら直したりすることもあります。声に出して読むというのはすごく大事なんですね。わたしは時々、本を読んでいて気に入った部分があると声に出して読むんです。自分で自分に読む。それでその読んだ感覚を通して覚えていくということがあるんですね。
 例えば、わたしがものすごく好きなT・S・エリオットという詩人の『アルフレッド・プルーフロックの恋歌』。出だしがいいんです。“Let us go then, you and I”「さあ行こう、君と僕と」で始まるんです。レッツゴー・ゼン・ユー・アンド・アイなんて、どこが独創的なんだって思うぐらいなんですけど、しょっちゅう思い出しますね。どこかへ行くとき、自分でもう一人の自分に、ユー・アンド・アイと呼びかけるといいなと思う。今ではこの一行は最も知られている一行になったんじゃないでしょうか。でも、もう今となってはこれがエリオットの作品の一部だったなんて、きっとだれも覚えていないでしょう。突然アメリカのポップスにそっくり出てきたりするんですよ、この一行が。
落合 フォークはもちろん、エリオットとはイメージが全く重ならないビーチボーイズなどもやりそうですね。
長田 この部分が聞こえてきたら、どこにも指摘がなくても、「あ、読んでいるな、知っているな、同じようなものを共有しているな」というふうに思いますよ。変な言い方ですけど、こんなありふれた簡単な言葉が、不朽の一行になるということを、わたしはこの一行から教わった。
落合 脱原発集会等でも、言ってしまいそうです、レッツ・ゴー・ゼン・ユー・アンド・アイ。
長田 だから、そういうふうにして言葉って覚えていくものじゃないかと。言い換えれば、リサイクルしていくことが重要なんだという考え方に立って言葉がまとめられ、生まれ、広がっていく。それがリサイクル可能かどうかを読み手は見極めて求めていく。そうして、自分にとって必要な言葉、今現在の活きた言葉を見出していく。リサイクル度が高く互換性のあるのが大事な言葉なんだということだと思う。
落合 なるほどね。言葉リサイクル論と互換性という視点って、とてもおもしろいです。

構成=武市智恵

 
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プロフィール
落合恵子
おちあい・けいこ●作家。
子どもの本の専門店「クレヨンハウス」主宰。1945年栃木県生まれ。著書に『崖っぷちに立つあなたへ』『積極的その日暮らし』『「孤独の力」を抱きしめて』等多数。翻訳も数多く手がけ、近刊に『キスの時間』『せかせかビーバーさん』がある。
長田 弘
おさだ・ひろし●詩人。
1939年福島県生まれ。著書に『私の二十世紀書店』(毎日出版文化賞)『記憶のつくり方』(桑原武夫学芸賞)『森の絵本』(講談社出版文化賞)『幸いなるかな本を読む人』(詩歌文学館賞)『世界はうつくしいと』(三好達治賞)『詩の樹の下で』等多数。
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