昨年の夏から南相馬市を拠点にして福島県に通い続けている。“フクシマ”に通うことで私は、原発を抱えてしまった私のクニを見据えていきたいと思う。
南相馬市原町(はらまち)区片倉(かたくら)の酪農家の杉和昌さん(50歳)は、お父さんが1960年に始めた仕事を継いでいる。訪ねた時には和昌さんはちょうど搾乳をしていたが、畜舎はよく管理されていて牛たちの足元の敷き藁も乾いていた。背後が山のこの辺りは線量の高いホットスポットの一つだが、管理がよほどしっかりしているのだろう、乳は出荷されている。
原発事故後に政府は20キロ圏内に避難指示を、30キロ圏内に屋内退避指示を出したが、和昌さんの家は20キロ圏から100メートルほど外に在る。一家は3月16日まで自宅に留まったが、高1、中3、小5の子供たちの健康を案じて、とりあえず新潟に避難した。畜舎に親牛34頭、子牛17頭を残したままだった。妻子が住む場所を見つけて、和昌さんと両親は19日に家に戻った。生まれた時から牛と共に育っていた和昌さんは、新たな仕事を探すことにためらいもあったし、また、ずっと百姓一筋で来た両親が避難先で暮らせるとは思えなかった。「原発に負けてもいられねぇし、とりあえず一年踏ん張ってみようと腹を括って」戻った。出る時には充分餌を与えて出たし、水は山からの自然水を引いていたが、牛たちはやせ細り、獣医も避難して居なくなっていた。そこで、子牛は他県の酪農家に譲り、孕(はら)み牛一頭だけを残して、残りの親牛は肉牛として出荷した。親の後を継いだ酪農業だが、先も見えないままでの、また一頭からの再出発だった。その後、休業した仲間から孕み牛を譲ってもらったり預かったりもして牛たちも増えてきた。今は子牛を含めて30頭を飼い、15頭から搾乳している。当初は北海道や海外から飼料や畜舎に敷く藁の支援もあったが、今は飼料は買っている。
「酪農というのは稲藁を敷き藁にし、牧草を育てて餌にし、牛糞で堆肥を作り畑に使うというような自然循環型の暮しなんです。それができなくなっちまったし、これまで一緒にやってきた家内は避難先にいるので、とても手が足りない状態です。今は出荷できてるけど、(放射性セシウムの)基準値が厳しくなればこの先は判らない。子供たちがここに戻って来られるようになるかどうかも判らないし……」
一年踏ん張れたが、二年目の今は大きな不安を抱えている和昌さんだ。家族は分断され、不安を抱えたままでの暮しはいつまで続くのだろう。今は出荷できているが、今後も大丈夫だろうか? ここでの暮しを続けていけるだろうか?
小浜(こばま)の集落はほとんどの家が津波で消えたが、前の杉木立が幸いして辛くも二階部分だけ残った家が一軒ある。そこでは、小学生と幼稚園児、母親と祖父母の一家5人が津波に流され、仕事に出ていた父親だけが無事だったという。まだ歳若いであろう、残された父親の胸中を思った。秋の彼岸の頃には、家の前に設えた祭壇に花や供物が飾られていた。祭壇の前で、私も手を合わせた。年が明けて、うっすらと雪が降った日には祭壇はもう無かったが、人待ち顔に思える家に手を合わせて過ぎた。次に行った時は、家の前庭に鯉のぼりが高く泳いでいた。この春は雨の日が多く、久しぶりの青い空に、鯉のぼりは風を孕んで泳いでいた。彼岸の頃の祭壇にも、そしてこの日の鯉のぼりにも、私は残された父親の“生きる意志”を思っていたのだが、とんでもない思い違いだった。同行の現地ボランティア、荒川さんから聞いた話だ。
残された父親のYさんと荒川さんの息子は高校時代の同級生だ。家族を亡くしたYさんを気遣って、同級生たちは時には一緒に食事をして話を聞き、力づけたりもしていたのだが、今ではYさんはすっかり人が変わってしまって同級生たちとも顔を合わせないという。Yさんは今も不明の妻子が生きていると思い込んでいて、毎日探し歩いているというのだ。勤めも辞めて着の身着のままで、風呂にも入らぬ汚れた姿で彷徨っているのだと。
だが、もしそのYさんを精神に異常をきたしたというのなら、鯉のぼりをどう考えたらいいのだろう。Yさんの中では、妻と幼い息子が生きているからこその鯉のぼりなのだ。Yさんにとっては生きている者たちを探し出せない現実こそ、異常なのではないか?
Yさんの鯉のぼりを見た翌日の4月16日の未明に、20キロ圏内警戒区域が解除になった。その日私は、検問所のゲートが解かれた小高(おだか)区に入った。一年前の3月12日、原発事故の後で小高区は警戒区域となり、避難指示が出された。これによって20キロ圏内は人の立ち入りはできなくなり、行方不明者の捜索も打ち切られた。警戒区域が解除された小高区に入ってみると、集落があった辺りはすっかり海になり、そこには乗用車や消防車、農業用のトラクターがゴロゴロと転がっていた。津波から一年以上も経っての、この光景こそが異常ではないだろうか? 原発事故さえ無かったら、助けられた命もあっただろうし行方不明者の数ももっと少なかったろう。
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渡辺一枝
わたなべ・いちえ●作家。
1945年ハルビン生まれ。 著書に『眺めのいい部屋』『わたしのチベット紀行 智恵と慈悲に生きる人たち』等多数。 3・11の大震災以後、執筆活動と並行して、被災地でボランティア活動に参加している。 |
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