激変する世界への違和感と、寒々とした孤独感に囚われる現代人に、「悩み」を手放さずに真の強さを掴みとる生き方を提唱した、姜尚中さんの『悩む力』。多くの人を勇気づけたベストセラーの続編、『続・悩む力』が刊行されます。生きる意味をより深いパースペクティブでとらえなおした本作について、姜さんにお話をうかがいました。
悩みはますます深く
――前作の『悩む力』から、はや四年たちますね。
幸いなことにいろいろな方面で話題になり、多くの方に読んでいただいたその続編を、このたび刊行することになりました。
政治学を専門とする私がこのような本を出すに至ったことを、いまでもわれながら不思議に思うことがあるのですが、そこには理由があって、ちょうど前作の少し前ごろからメディアで鬱や引きこもりの問題が大きくとり上げられるようになり、また、社会全体が心身症にかかってしまったような妙な気配をしきりに感じるようになったことが、私の問題意識を刺激したのです。それは、小泉改革のときに一時的に現出した“躁”の状態の反動で、世の中全体がシュンとして“鬱”の状態になったのだと説明できなくもありませんでしたが、根はもっと深いところにあるのではないかと思われ、ただ経済や制度といったものを云々するのではなく、より個人の内面に注目した視角からアプローチしてみたいと思ったのです。
――その切り口が、新鮮でした。
より広く目配りするため、近代の始まりまでさかのぼり、そのとば口に立っていた先達である夏目漱石とマックス・ウェーバーのまなざしを借りて、問題を考える切り口とすることにしました。そして、悩むことは特殊なことでも異常なことでもなく、むしろ、そこにこそ人間らしさがあるのだから、大いに悩んでつきぬければよい、と私なりのエールを送ったのです。
その考えはいまも変わっていませんし、あながち間違っていなかったとも思います。というのも、その後、心を病んで社会生活が難しくなる人はどんどん増え、事態はますます深刻になっていったからです。
先日、新聞を見て、驚きました。内閣府が実施した「自殺対策に関する意識調査」 (二〇一二年五月二日発表、 アンケート対象三千人、二〇代〜七〇代の男女、回答率約七〇%)によると、本気で自殺を考えたことがあると答えた人の割合が約二三%にものぼるというのです。そう答えた二〇代女性の四〇%以上が、最近一年以内に自殺を考えたのだそうです。女性の二〇代といえば、もっとも溌剌とした、人生でもっとも楽しい時期ではないでしょうか。少なくとも、少し前まではそうだったと思います。ところが、いまはこれだけの人が死ぬことを考えている。これはあきらかに異常事態です。いま、この国の相当数の人びとが、「生きる」ことに希望を失い、どうしようもない無力感を感じているのです。
「創造性」は至高ではない
――『悩む力』と『続・悩む力』の関係について、お聞かせください。
前作は問題に立ち向かっていくためのイントロダクションをまず提示しようという意図で書きましたが、今回はもっと奥深くまで分け入り、より本質的な答えを探りあてたいと考えました。前作同様、漱石やウェーバーやヴィクトール・フランクルなどを手がかりにしていますが、新たに心理学者のウィリアム・ジェイムズや経済学者のE・F・シューマッハー、哲学者のチャールズ・テイラーなどにも登場してもらっています。
それにしても、いまのこの社会は、なぜこんなに生きづらいのでしょうか。かつては、「この世の中は生きにくい」などと言うと、努力が足りないとか、軟弱だなどと切って捨てられたものですが、いまや国民の四人に一人が自殺を考える状況ですから、明らかに世の中のほうがおかしいのです。そこで私は、近代以降われわれの社会を形づくってきたさまざまな価値観を問い直し、それらは本当に真理なのか、疑ってみることにしました。
たとえば、そもそも「幸福」とは何なのでしょう。戦後の復興期や高度成長期には、「出世」や「お金」などが幸福とイコールだったのですが、いまやそれほど単純ではありません。では、いまの人びとの幸福感を満たす価値観は何なのかといえば、たとえば「自己実現」というものがあります。多くの人が他の人とは違う自分らしさを求め、個性を主張しようとしています。そのときに必要となるのは、「創造性」です。“デキる”社会人の第一条件は創造性である――これは、いま常識としてまかり通っているように思います。
しかし、ここに大きな落とし穴があるのです。というのも、創造性を発揮して唯一無二の自分を表現するなどということは、そう簡単には成功しません。きわめてハイレベルなチャレンジなのです。にもかかわらず、現代社会は当たり前のようにそれを求め、できない者は無価値であるかのようにみなすのです。この「創造性至上主義」こそが、いま、多くの人びとの精神を圧迫し、絶望感を大きくしている一因ではないかという気がします。
たしかに、この世に生まれた以上、社会の中で何ごとかをなし、名を上げたいと誰もが思うでしょう。しかし、そのことと人間としての価値を結びつけるのは間違いです。なぜなら、いま巷には仕事につけない人があふれています。就職浪人の人、リストラされてしまった人、あるいは、心身の病気で働けない人。この人たちは創造性を云々する以前の状況にあるわけですが、では、彼らはみな個性もなく価値もないのでしょうか。そんなはずはありません。このこと一つとっても、人間の真価はまったく違うところにあるはずなのです。
「病める魂」が叡智となる
――フランクルについても、多く紙面を割いていますね。
ヴィクトール・フランクルは、人間がなすことができる価値について、三つに分類しました。それは、「創造」「経験」「態度」です。そして、このうちでもっとも地味な「態度」の価値がもっとも高いとしました。なんらかの理由があって創造的な行為がまったくできない人や、特別な体験を持たない人でも、他者に対する思いやりの心を持ったり、美しい態度でこの世に存在することはできます。それだけでも、人間としての尊厳は十分に示されるのです。そのようなところでこそ、その人の真価が問われるべきなのです。
われわれの社会では長いこと、楽観的な思考を力に通じる「前向き(ポジティブ)」なあり方として肯定的にとらえ、悲観的な思考は「後ろ向き(ネガティブ)」だとして否定的にとらえてきました。それを証すように、世に存在する「幸福論」と呼ばれるものは、おおむね自分の世界に閉じこもるな、外の世界に目を向けよ、でなければ幸せは訪れないといったトーンで語っています。しかし、これもまた大いに疑わねばなりません。
この点を考えるときによい手がかりとなるのは、アメリカの心理学者ウィリアム・ジェイムズです。漱石とジェイムズは同時代人で、漱石はずいぶん影響を受けたようなのですが、私はそのジェイムズが提唱していることの中でも、「二度生まれ」という概念に、とても注目しているのです。
――生まれ変わり、ということでしょうか。
この世の中には二種類の人間がおり、一つは比較的楽天的に生まれつき、目の前の世界を素直に受け入れ、信じることができる健康な心の人たちです。この反対側に、生まれつき内省的で、ものごとを容易に信じられず、世界を悪いほうにしか見ることができない病める魂の人たちがいます。言うまでもなく、前者はそれほど苦しまずに生きられますが、後者は非常に苦しい人生を送らざるをえず、おおむねは精神を病んだり、死ぬことを考えたり、引きこもったりしてしまいます。しかし、ジェイムズはそのような人たちが七転八倒したのちになんらかの境地にたどり着けたときこそ、苦労もなく救いを得られた「一度生まれ」の人びとよりも、はるかに素晴らしいものを獲得できているはずだと考えました。これが「二度生まれ」です。
ジェイムズ自身、一時精神を病んだ経験を持つ二度生まれの人なのですが、私がこのシリーズでとり上げている人びとは、はからずも、漱石も、ウェーバーもフランクルも、みな生死の境、あるいは狂気と正気の境をさまよった人ばかりです。その意味では、懐疑的であったり悲観的であったりすることは、よく言われてきたように不幸なことではありません。むしろそれこそが、人間ならではの深い叡智の源泉になっている側面もあるのではないでしょうか。そして、それは、人類が誤った方向に走ったときに警告を発し、揺り戻しをかけ、軌道修正を促す力として、機能してきたのではないかとも思います。
加えて、二度生まれという言葉には、もう一つ、そうしたこととは異なるニュアンスを読みとることもできそうです。それは、「いまこそ、生まれ変わらなければ」という叱咤激励の意味あいです。人びとの精神がギリギリの状況にあるいま、この言葉を「再生への希望」という側面からとらえることは、少なからぬ効用がある気がします。
――『続・悩む力』は、既存の幸福論への批判的な側面もありますね。
これまでの幸福論は、言ってみれば、光あるところに光を求めるものばかりでした。しかし、それとは逆に、陰の部分に光を求めることも可能なのではないかと私は思います。ですから、この本では、従来の「幸福の方程式」を揺るがすことに挑戦してみました。もし読者の方がそれによって少しでも何かに気づき、自分も生まれ変わろうという気持ちになってくださるなら、これほど嬉しいことはありません。そのときには、幸福と不幸はそう単純な二項対立ではないことに思い至られているでしょうし、つらいだけのように思えた「生きること」も、それまでには感じられなかった味わい深いものに、転じているのではないでしょうか。そのように念じます。
構成=渥美裕子
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『悩む力』
発売中・集英社新書 定価714円
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『続・悩む力』
発売中・集英社新書 定価777円
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姜尚中
カン・サンジュン●東京大学大学院情報学環教授。
専攻は政治学・政治思想史。1950年熊本生まれ。著書に『悩む力』『マックス・ウェーバーと近代』『姜尚中の政治学入門』『在日』『母−オモニ−』『あなたは誰?私はここにいる』等多数。「新・君たちはどう生きるか」を本誌に連載中。 |
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