長編小説の構想ほど心躍る仕事はない。構想から完成に漕ぎ着けるまで、早くても二年、長いと四年もかかる個人プロジェクトを、三島由紀夫は工期の長いダム建設に喩(たと)えた。完成へのショートカットなどというものはなく、毎日の規則正しい労働の積み重ねなしには陽の目を見ない。労働自体に喜びを見出さない限り、永遠に完成しない。だから、構想時に「これなら飽きることなく、執筆を続けられそうだ」という確信が持てなければ、その長編小説は諦めた方がよいだろう。
これまで、いくつもの長編小説がお蔵入りしてきた。タイトルと走り書きのメモだけが残された作品なら、特に執着はないが、四十枚に及ぶ第一章を書いたきり、そのまま放置された作品などは、クローゼットの奥に眠るタキシードのように捨てるに捨てられない。あるいはある長編から派生したり、脱線したりした断片が単行本未収録のままPCに保存されていることもある。それらが別の作品の一部となって、復活したり、短編としてリサイクルされることもある。
『英雄はそこにいる』は、「英雄とは何か」というかなり漠然とした妄想の泡から構想し始められた。ここ何年か、趣味的に神話の解読を行ってきたが、それが初めて実益になったという感じだ。このタイトルは『すばる』に連作形式で連載していた時に、一回だけ使った。ほかにも『我らがシバ神』とか『暗殺の天才』とか『イエスはキリスト教徒ではない』とか『ヘラクレスのDNA』といったタイトル候補があったが、現在の物に落ち着いた。
英雄というのは、常に理不尽な目に遭う存在であり、実に割の合わない生き方である。ハイリスク、ローリターンの極みというか、誤解を招くために生まれてきたというべき人物で、奇跡を起こしたり、人類に計り知れない貢献をしているにもかかわらず、考えられる限り、最も悲惨な死に方をする。誰もがなれるチャンスがあると信じられているアメリカン・ヒーローとは違って、およそ人々の人気や憧れとは無縁な存在だ。
古代の神話や叙事詩の多くは英雄に捧げられている。とりわけヘラクレスは、ゼウスやヘラの理不尽な仕打ちにもめげず、十二もの難行を成し遂げ、哀れな末路を辿ったが、英雄の代名詞ともいえる存在だ。
現代人はしばしば神話の荒唐無稽を前に途方に暮れる。ヘラクレスなどコミック・ヒーローと同様の誇張された空想の産物に過ぎないと思ってしまう。古代にはそういう勇猛果敢、怪力無双がいたかもしれないが、現代にその類の怪物の居場所はない。いるとすれば、刑務所の中か、格闘技のリングの上か、さもなければ、権力の座かもしれない。中東や中南米のマッチョ・リーダーたち、たとえばフィデル、カダフィ、チャベスは確かに現代のヘラクレスといってもいい。しかし、「民主化」あるいは「世界標準化」した地域では、その種の英雄たちは用済みになった。英雄が必要とされるとすれば、それは世代交代と新陳代謝が求められる世界であり、革命と新しいシステムの導入が不可欠な国である。
『英雄はそこにいる』はフィクションのテロリズムを実行すべく、ヘラクレスを英雄不在の現代に甦らせる試みである。出る杭は打たれる平等主義と前例のないものを排除する官僚主義が徹底した日本では、カリスマの登場を期待する声も聞こえる。ヘラクレスの末裔たるサトウイチローに特定のモデルはいないが、平凡な名前の非凡なカリスマに暗殺される人々の方は特定の顔を思い浮かべる読者もあろう。たとえば、維新の志士を気取るあの政治家たちはここで血祭りにあげられてしまう。
ところで、名探偵エルキュール・ポアロはヘラクレスのフランス名を持ち、その生みの親であるアガサ・クリスティは『ヘラクレスの冒険』で、彼にヘラクレスの十二の難行に匹敵する事件の捜査をさせている。私もそのひそみに倣い、失敗すれば、確実に死ぬ十二のミッションを主人公に課した。サトウイチローはコンビニでサンドイッチを買う気軽さで、暗殺とテロを重ね、ことごとく成功させてゆく。
暗殺の天才に挑むのは『カオスの娘』で誘拐監禁され、記憶を亡くした少女を救ったシャーマン探偵ナルヒコである。二十になった彼は特命捜査対策室の穴見警部の依頼で、謎の多い迷宮入り事件の捜査を手伝う中で、神がかり的犯罪者の存在に行き当たる。
迷宮入り事件も神話に似ているが、その荒唐無稽は現実のものである。思えば、3・11以降、私たちが直面しているもろもろの現実も従来のシステムやセオリーでは対処できないものになってしまった。絶対安全なユニットも、万全の危機管理システムも破綻し、千年王国を築くかと思われた資本主義も終焉を迎えようとしている。私たち自身も初期化され、人類の幼年時代というべき古代に回帰させられてしまった感がある。
また、市民に安全や平等や福祉、そして正しい情報をもたらすべき国家さえも、実際には市民を危険に晒し、富める者をより豊かにし、貧しい者をより貧しくし、未来のための蓄えを浪費し、情報を隠蔽する母体に他ならないことが明らかになってしまった。国家への信頼が失われた状況にあっては、代議制など実質的には機能しない。日本に限らず、一国の指導者は独裁者になるか、無能な施政者たちが談合し、交代で政権を運営するか、あるいは民主主義の最終形態であるポピュリズムの手法で、大衆迎合を図るほかない。民意を受ける形で代表に納まった施政者は、自分に敵対する勢力と戦っているあいだは衆目を集め、支持率も高まりはするが、目新しい施策も尽き、不祥事が明るみに出る頃には、支持者に飽きられているだろう。
こんな政治状況のもとでは、国際金融組織や軍事、エネルギー大国のバックアップを受けた愛国主義者あたりを政権中枢に据えておくのが無難と、保守は考える。大国の思惑を密かに内政に反映させていさえすれば、タカ派的なパフォーマンスも大目に見てもらえるし、外交的なポイントも稼ぎやすくなる。つまるところ愛国主義者と売国奴は表裏一体なのである。
作中、世界を操作していると自負する陰の権力者「デウス」がこう呟くところがある。
――神への信仰、通貨への信用、人間関係の信頼、それらが信じられなくなったら、世界は戦争状態に逆戻りだ。
その戦争状態を生き延びるためには国家や、権力が必要不可欠だと「デウス」は主張しているのだが、私たちは長いこと、国家の存在を正当化しようとする理屈に騙されてきた。実際には国家が神を殺し、通貨の信用を失墜させ、人間関係を破壊し、戦争状態を作り出しているのである。日本人も震災とそれに伴う原発事故を機にようやく気付いたのだ。この国の自然や人々を滅ぼすのは国家だ、と。見えにくかった敵の存在が明らかになった時、人々が抵抗運動に立ち上がるのは当然の欲求であり、権利である。抵抗運動のカリスマはまだ現れていないが、すぐそこにいる気配を感じる。
構成=増子信一
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島田雅彦
しまだ・まさひこ●作家、法政大学国際文化学部教授。
1961年東京都生まれ。著書に『夢遊王国のための音楽』(野間文芸新人賞)『彼岸先生』(泉鏡花文学賞)『退廃姉妹』(伊藤整文学賞)『カオスの娘』(芸術選奨文部科学大臣賞)等多数。 |
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