青春と読書
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第24回小説すばる新人賞受賞記念エッセイ 受賞作『サラの柔らかな香車(きょうしゃ)』
エッセイ 橋本長道 将棋、小説、無限大
 何者でもないということは、若者の特権だ。何者でもないがゆえに、何者にでもなれるというアレである。しかし、残念ながら若者であることを許される期間は、ひどく短い。
 私は10代の後半を、奨励会という場所で過ごした。奨励会というのは、将棋のプロ棋士の養成機関だ。6級から始まり、順調に昇級・昇段を重ね、三段リーグという大所帯を抜けると、晴れてお給料が貰えるプロとなる。勿論、全員がなれるわけではない。年齢制限という大きな壁が立ちはだかっていて、大半がそこで弾かれるのだ。23歳で初段、26歳で四段というのが壁の具体的な名称である。私は19歳、1級。気付けば、そこで老人だった。高校卒業までに初段になれぬ者は落ちこぼれなのである。壁は目前に辿り着く前に、多くの者を自ら去らせる力を持っているのだ。私は自分の才能を見つめ直し、小賢しくその世界を去った。
 驚いたことに、将棋の世界を離れると、いきなり自分は若者だった。時の流れが異なっていたのだ。大学に入ってできた友人たちは、例外なく自分の具体的な将来像を持っていなかった。日本の総合大学の文系に進学する人間の、ほとんどがそうであるらしい。小・中学生の頃から棋士になるために鎬(しのぎ) を削る、あちらの世界のほうが異常なのだ。
 そうして私は何も考えず、レールに乗ることにした。就活時、私達の年代を待っていた列車には「超売り手市場!」と書かれていた。未曾有の金融危機が訪れる前年である。私は本当に何も考えず、一番最初に内定を貰った企業に就職した。
 そして、1年後、どうしようもなくなった。
 明確に未来が見えたのだ。30代後半か、40代で自分は自殺することになるだろう。職場で上手くいかぬゆえの鬱気質が、そのような思い込みをさせたのかもしれない。いや、それはフリであって、私は戦略的にどうしても会社を辞めたかったのだ。何故だか知らないが、人生に対する前向きな諦観を持っていたのである。
 そもそも奨励会を辞めた段で、人生の見通しなどなくなっている。しかし、死んだと同然に生きるはいいが、顔をずっと下に向けたままで消えるのは嫌だった。少なくとも前向きには死にたかった。会社という場所はそれを自覚させてくれたに過ぎない。
 働きながら作家でも目指せばいいじゃないか? 確かにその通りである。労働条件も悪くない。職場での経験は小説に生かされ得るだろう。だが、帰宅して膝を三角に丸め、「明日会社行きたくない……。死にたい……。あいつらと顔合わせたくない……」とぼそぼそ呟いているようではどうしようもない。私は、この時になって初めて、不登校児童の本当の心境を理解したのである。いじめっ子がいなくなったりするなど、病根が消えれば学校に来られるものだと、かつては思っていた。そうではない。空気がもう駄目なのだ。
 思えば、会社を辞めて2年半。これほどまでに充実していたのは、奨励会に入って3年間程、真剣に将棋に打ち込んでいた時以来である。最初の半年はハローワークに通い、次の半年は図書館通いをして集中的に読書をした。平日の昼間に老人たちに交じって読書をしていると、不思議と壮年期をすっとばして、老成してしまったような気がした。確かにそう長くは実家に置いてはもらえまい。だが、親には迷惑な話であるが、今度は途中で投げ出すつもりはなかった。小説を書き始めると2ヶ月に一度投稿できるだけの分量が溜まった。ミステリ、エンタメ、ライトノベル……。黙々と投げ続けた。構想し、想像し、集中する。それはどこか将棋の楽しさに似ていた。そして自分が将棋では乗り越えられなかった何かを越えられるような気がした。
「受賞……しましたっ!」
 編集の方から知らせを受けた瞬間、私は何者かにはなった。嬉しいのは勿論だが、反面何者かになってしまうことは恐ろしいことでもある。形が決まり、大人になるのだ。冷静さを取り繕って、電話を切った後、自室の隅で一人ニヤニヤする。気付けば、私は将棋に勝った時と同じ作法で喜んでいた。
「サラの柔らかな香車(きようしや)」が私の第一作になったのは幸運だった。10代から今まで燻(くすぶ)らせてきた鬱屈を、物語の形で具現できた。名刺代わりに最上だろう。そして、それ以上の幸運は、本作を書き終えてなお、私が根本的な問いに答えを見出せていないことかもしれない。何事も悟ってしまっては物語を紡げないのだ。とにかくこの世界はわからないことだらけで、そのお蔭で小説を書くことができる。
 受賞作では将棋と彼女達を通して才能について、天才について書いた。小説家と名乗り始めた今、ふと思うのが「小説の才能って、小説の天才ってなんだろう?」ということである。これが全くわからない。わからないから書き続けるのだと思う。


 
【橋本長道 著】
『サラの柔らかな香車(きようしや)』
(単行本)集英社刊
2012年2月3日発売予定
プロフィール

橋本長道
はしもと・ちょうどう ●1984年兵庫県生まれ

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