第24回柴田錬三郎賞は、京極夏彦さんの『西巷説百物語』が受賞されました。同作品は、幕末から明治初期にかけて、さまざまな怪事件、難題などの解決を金で請け負う小悪党たちが活躍する“巷説百物語シリーズ”の最新第五作。幕末の上方を舞台に、ひと癖もふた癖もある面々が奇抜な仕掛けを施し、欲深く、罪業に塗(まみ)れた人間たちの化けの皮を剥いでいく――京極ワールド全開の作品です。
受賞に当たって、京極さんは「通俗娯楽として不特定多数に受容されるコンテンツを、ニーズに合わせて提供し続けること――それが己の職分」であり「通俗娯楽小説職人として、精進を重ねて行く」(受賞の言葉)と書かれています。ここでいわれる〈通俗〉とは何か? 京極さんにお話しいただきました。
低俗ではなく通俗を
ぼくはずっと以前から、〈通俗娯楽小説家〉と名乗っています。
卑下しているように聞こえるかもしれませんが、それは違います。通俗娯楽作品を一段低いものとして見る風潮はあるのでしょうが、ぼくはむしろ誇りに思っているくらいです。
例えば、作品が〈芸術〉として認められることはあるのでしょう。でも、芸術と認めるのはあくまで鑑賞者なのであって、作者ではないとぼくは思う。第三者によって芸術と認められた作品の作者は〈芸術家〉なのでしょうが、作者が自ら〈芸術家〉と名乗るというのは、ギャグとしてしかあり得ないでしょう。そもそも、アートの和訳が〈芸〉術というのも、皮肉めいているんですけど。同じように、〈文学〉という言葉もぼくには馴染まないものです。テキストを研究する学問という意味での〈文学〉はあるでしょう。ですから、ぼくの書いたテキストが研究対象になることもあるのかもしれない。でもぼくは〈文学者〉ではありません。そもそも自己表現も自己実現も関係ありません。ぼくは、〈仕事〉で小説を書いているんです。
仕事でやっている以上、お客様に喜んでいただけるより良い商品をつくらなければいけません。ぼくがテキストを納品するのは出版社ですが、エンドユーザーは読者ということになります。そうすると、顧客である読者のニーズを何よりも優先して商品作りをしなければならない。しかし、小説の場合一人一人の意見を聞いて書いてはいけないんです。百人いたら百通り、十万人いたら十万通りの読み方がある。一人の意見を反映することは残り全員の意見を無視することになります。読者の反応は個人の想像をはるかに凌駕するものです。「大いに感動した」から「読めたもんじゃない」まで、どれだけヴァリエーション豊かに想定しても十五、六パターンくらいでしょう。それでは話にならない。市場リサーチは参考程度にはなりますが、何の役にも立ちませんし。先を行くならともかく、流行の後追いをしてもしようがないです。
不特定多数には、もう個人の顔は見いだせないんです。そういうと、「だから世界に向けて」みたいな話になるんだけど、それこそ勘違いですよね(笑)。百万人読んでくれたって日本の人口の一パーセントに満たないんですから。小説では、世界どころか社会に影響を与えることもできません。社会は言論や思想をつくるけれど、言論や思想が社会を動かすというのは幻想に過ぎないと思う。でも、読者個人の内面を揺さぶることはできるでしょう。人生を変えるような大袈裟なことじゃなくて、泣かせたり笑わせたり怒らせたりはできる。
小説はだから、やはり「たくさんの個人」に向けて書かれるものなんです。泣くのも笑うのも個人です。たしかに不特定多数ではあるんだけれども、「本を読んでくれる人」に限られているわけですね。それって、世界でも社会でもなく、〈世間〉なんですね。つまり、ぼくたち小説家は、せいぜい、十万から十五万人、多く見積もっても百万人、それくらいの世間を相手に商売をしていることになるわけです。
世間を相手にする以上、世俗を知っていなければなりません。〈俗〉に通ずるというのは、聖でい続けることと同じか、それ以上の努力を強いられるものです。さらには、よりテクニカルな研鑽を要するものでもあります。自分の内面を浮き彫りにする作業を誰に理解されるでもなくコツコツやっている孤高の〈芸術家〉の努力というのは、まあ大変なものなのでしょうが、テレビで一千万人を一度にドッと沸かせるお笑い芸人さんの、その一瞬にかける力のほうがポテンシャルは高いかもしれない。通俗娯楽小説家でいるためには、そのポテンシャルを維持していかなくてはならない。一発芸で終わってしまってはダメなんですね。
ぼくは文学賞のようなものに対しては非常に無頓着なたちで、いただけるとも思っていなかったし、欲しいと思ったこともなかったんです。それでもありがたいことに、最初に日本推理作家協会賞をいただいて以降、直木賞までいくつも賞をいただきまして、その度に驚いた(笑)。正直、もうないだろうと思っていたものですから、この度、柴田錬三郎賞受賞のお知らせをいただいて、また大いに驚いた。柴田錬三郎さんという方は紛う方なき通俗娯楽小説家だと思うんです。でも、俗なものを書かれても品があって、決して低俗に陥ることがなかった。言葉は似ていますが、〈通俗〉と〈低俗〉は違う。一線を画しているんです。ぼく自身、そこのところは肝に銘じるようにしているものですから、柴錬さんのスタイルには憧れていました。その意味でも今回の受賞は、大変うれしく、光栄に思います。
ギャグ小説の開拓
今度、集英社文庫から『南極。』が出ます。これは、『どすこい。』に続くギャグ小説ですね。小説にも、刹那的で、痙攣的な、テーマ性のない笑いがあってもいいのじゃないかと考えたんです。〈ギャグマンガ〉というジャンルは確立してますが、〈ギャグ小説〉はないでしょう。ユーモラスなものはあるんですけど。だから開拓したかったんですけど、これが難しい。くだらないんだけど、普通の小説を書くほうがはるかに楽でした(笑)。
『南極』の場合は、『南極(人)』(単行本)、『南極(廉)』(ノベルス版)、そして今回の文庫版が『南極。』とタイトルとともにテキストも少しずつ変化してきて、これが最終形態ということになります。『南極』では、いろんな作品とコラボレーションさせていただいているのですが、なかでも、赤塚不二夫さんと秋本治さんというギャグマンガの二大巨頭とコラボレーションできたことは、僥倖でした。
ギャグ小説の需要を高めるためには、更なる精進が必要ですから、許していただけるならこれからもやります(笑)。バカバカしいことをし続けることが通俗の本領ですから。
(談)
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【京極夏彦 著】
『南極。』 (集英社文庫)
発売中
定価1,050円 |
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京極夏彦
きょうごく・なつひこ●小説家、意匠家。
1963年北海道生まれ。
94年『姑獲鳥の夏』でデビュー。著書に『魍魎の匣』(日本推理作家協会賞)『嗤う伊右衛門』(泉鏡花文学賞)『覘き小平次』(山本周五郎賞)『後巷説百物語』(直木賞)、近著に『オジいサン』『虚言少年』『厭な小説』『南極。』等。この度『西巷説百物語』で第24回柴田錬三郎賞を受賞。
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