数多くの著作を持つ姜尚中さんが、美術をテーマにした新刊を刊行されます。青年期に出会ったデューラーをはじめとする古今東西の絵画、彫刻、陶芸などを通じて得た人生哲学が詰め込まれた一冊です。
姜さんが受けた「感動」と、西洋美術史家の木村泰司さんが説く「史実」の刺激的な交差をお楽しみください。
「私」を見据える
デューラー
姜 NHKで「日曜美術館」という番組の司会を2年間務め、その間にさまざまな美術に触れました。なかでも特に好きなものについて自由に書いてみよう、というのが『あなたは誰? 私はここにいる』のコンセプトです。僕は美術についてはまったくのディレッタントだから、いろいろと勝手なことを書いてしまいました。専門家の目にはどう映るだろうかと、正直なところ気になっています。
木村 たいへん興味深く拝読しました。ご指摘にはずいぶん刺激されました。
姜 ありがとうございます。
木村 姜さんはご自身の人生と重ね合わせて絵画をご覧になり、自由に発見し、感動を表現なさる。
姜 あまり勝手な解釈をしてもいけないと初めは思っていたのですが、取り組むうちに、僕みたいな人間はむしろ勝手なことをいったほうがいいのではないか、と思い直しまして。
木村 感動を語るということは、史実のみに目をやらねばならない私たち美術史家にはできないことなんです。ですから、姜さんならではの解釈は私にとってはとても新鮮でした。
姜 僕にはどういうわけか昔から惹かれる画家がいるんです。それは16世紀ドイツを代表する画家で版画家のデューラーです。
木村 ご著書でも繰り返し取り上げていらっしゃいましたね。
姜 デューラーとの出会いは28歳のころでした。ドイツの国立美術館アルテ・ピナコテークで、初めて自画像を見たんです。小ぶりな絵なのに驚くような存在感を放っていて、文字通り僕は釘づけになりました。
木村 1500年の作品ですね。あの自画像は実は特異な絵画です。自分を真正面から描いているでしょう? これは当時としては掟破りの構図なのです。
姜 まっすぐに描かれていますね。肖像画のなかのデューラーは何ともいえない透き通った瞳でこちらを見据えています。その表情を前にすると、僕は粛然とした気持ちになるんです。
木村 正面から描かれているから、見つめるような強さがあるんですね。実は、中世以来、正面から描いていいのはイエス・キリストや聖母マリアだけでした。ですから自分を正面から描いているこの絵は、異例中の異例です。
姜 デューラーは大胆にも自分をキリストになぞらえた、ということでしょうか。ゆるやかに肩にかかる波打つ髪や、憂いを含んだまなざしからはキリストを連想せずにはいられません。
木村 おっしゃる通りです。ドイツに初めてルネサンス美術を持ち込んだデューラーには、「自分はドイツの美術の改革者である」という自負がありました。パイオニアとしての決意をキリストに重ね合わせたのかもしれませんね。
姜 デューラーが抱いていたのであろう決意というものは、若かりしころの僕も確かに感じ取りました。肖像画には「アルブレヒト・デューラー、ノリクム人、不朽の色彩で自らを描く、28歳」という署名があります。これはデューラーの画家としての自己宣言ですね。当時ほぼ同い年だった僕は、デューラーのその確固たる意志に感銘を受けたのです。「自分はなにものであるのか」ということを考えていたそのころの僕には、大変な感動でした。
木村 デューラーがなぜこのような自画像を描いたのかを読み解くには、当時のヨーロッパの画家を取りまく状況を考える必要があります。16世紀初頭というと、イタリア・ルネサンスの全盛期です。しかしデューラーが生まれ育ったドイツでは、まだまだルネサンスの風は吹いていませんでした。
姜 デューラーはこの肖像画を描く数年前、23歳から24歳のころにイタリアのヴェネツィアを訪れていますね。
木村 はい。デューラーがヴェネツィアで知ったものは、豊かなイタリア美術と、“芸術家”という新しい概念でした。
姜 “芸術家”は、それまでは存在しなかった?
木村 存在していませんでした。もともと画家や彫刻家というのは職人階級に属し、社会の底辺に属していました。しかしルネサンス期に入って、画家たちは“芸術家”というアイデンティティに目覚めます。自己を発見した彼らは、職人階級から脱却して芸術家として生きようと考えるようになったのです。
姜 デューラー自身も、ドイツの金細工職人の息子ですね。そんな彼が芸術家という新しいアイデンティティをヴェネツィアで獲得して、故郷に戻ってくる。
木村 しかし、意気揚々と戻ってきたはいいが、当然ながら周囲の誰も芸術家なんて存在を知らないわけです。デューラーは芸術家であることについて自覚的になれたのに、相変わらず職人扱いをされる。彼はそこで一度アイデンティティの危機を迎えます。その後に描かれたのがこの肖像画です。
姜 なるほど。だから僕は感動したのかもしれません。この絵を見た当時、僕は日本からも在日であることからも逃げるようにドイツに留学をしていました。将来の展望も見えずに。まさにアイデンティティ・クライシスのさなかにあったんです。
木村 ご自身の経験からデューラーを理解なさったということですね。
姜 不思議なのは、絵画がこうして人に個人的な思いを喚起させることです。人と絵画の間にはある種のシナジー(相乗作用)があるのだろうか、と思います。
木村 デューラーのあの肖像画は非常にパーソナルなものです。だからこそ訴える力を持っているのでしょう。デューラーの油彩画は基本的には注文を受けて描かれましたが、この肖像画は違います。不遜ともいえる構図からも、人の目に触れさせようとしたものではないのは明らかです。
姜 確かに、この絵は世間に発表されませんでした。デューラーは、自分が死んだらこの肖像画をニュルンベルク市庁舎に飾ってほしいと願っていたと聞いています。つまりこれは遺言のような絵なのではないか、と思えるのです。まさしくパーソナルな思いを込めた絵画です。
木村 だからこそ、自意識が強烈に表れている。他の作品に比べて圧倒的に力強いのはそのためだと思います。そこに姜さんは共鳴されたのかもしれませんね。
姜 デューラーの自画像を前にしたとき、問いただされているような気がしたのです。「お前はどこに立っているのか」と。その経験は強烈でした。自画像には、見るものの心に封印されているさまざまな思いを鏡のように映し出す力があるのではないかと僕には思えるんですよ。
木村 自画像というのは、ルネサンス期に自己が発見されたことによって誕生したジャンルです。そしてデューラーは自画像を何枚も描いた最初の画家でもあります。自分を描くということは自己に向き合う作業だったはずですし、自伝的な意味もあったでしょう。
姜 デューラーの自画像の持つ力はある種非常に近代的なものです。それは、彼がアイデンティティの問題に取り組んだ近代的な人間だったからですね。僕自身がデューラーにこだわってきたのは、やはり必然だったと思えます。
ベラスケスの
劣等意識
姜 自分の肖像を描いた画家としては、ベラスケスも僕にとって大きな存在です。
木村 ベラスケスを理解するにもアイデンティティがキーワードですね。
姜 ベラスケスは17世紀のスペインを代表する画家ですが、実は「コンベルソ」といわれる改宗ユダヤ人でした。コンベルソは当時のスペインでは蔑視の対象でした。
木村 宮廷画家として身を立てるため、ベラスケスは生涯、出自を隠していました。ときには嘘もついています。「自分にはユダヤの血は流れていない」「先祖にも親類にも商人はいない」 ……。騎士団の仲間入りをするには、自分を偽らねばならなかったのです。
姜 宮廷画家というのは、どのような地位なのでしょうか。
木村 いまでいうと「芸能界の大スター」といったところです。王室お抱えになるということは、職人として低い地位にあった画家が一気にスターダムを駆け上がるようなもの。ベラスケスは上昇志向の強い人でしたから、職人としての画家ではなく、宮廷の職員になりたがった。貴族階級への憧れがあったのです。
姜 傑作『女官たち(ラス・メニーナス)』では、自分自身の姿を宮廷の風景に溶け込ませて描いていますね。この絵にはさまざまな人物が複雑に描き込まれていますが、主人公は、やはりベラスケス自身だという気が僕にはします。デューラーの自画像と同様の、強烈な自意識をこの絵にも感じるんです。
木村 この絵もまた前代未聞の構図です。というのは、王侯貴族とともに画家が同時に描かれるなどということは本来あり得ないのです。掟破りの構図を取ったところにベラスケスの自意識が見えます。
姜 右手に描かれている矮人(わいじん)の女性も印象的です。矮人の人たちというのは、このころのヨーロッパの宮廷に多く暮らしていたと聞きます。
木村 彼らには宮廷人のコンプレックスを癒す役割があったとされていますね。
姜 つまり彼らは宮廷人の愛玩動物的な存在だったということでしょう。僕は、この矮人の女性の描かれ方が気になるのです。ベラスケスがこの女性を蔑むのでも憐れむのでもなく、「同輩」として親近感を抱いているように思えるからです。
木村 ベラスケスの描いた矮人を見たとき、絵の迫力に驚きました。まるで迫ってくるような存在感があるのです。
姜 ベラスケスは宮廷で生きるために、自分の出自を隠さざるを得なかった。貴族に近づくことはできても、完全に同化することはできなかったでしょう。心のなかには自分を偽る虚しさが消えることなくあったのではないでしょうか。ベラスケスには劣等意識があったはずです。だからこそ、矮人の女性をあんなふうに描けたのではないかと思うんですよ。
木村 ベラスケスは、宮廷で蔑まれていた矮人たちにも自分と同じ知性や内面があることを理解し、それを描いています。彼らに対するシンパシーがあったのだろうと想像するのは難くない。ベラスケスというのは、本当に、こういったところを描くのがうまい人ですよね。
姜 人物の内面まで描き取るんですね。
木村 ところで、ご著書を読んでとても驚かされた箇所がありました。蛾のエピソードです。
姜 親しい人が亡くなるときに、僕はなぜか蛾を見かける、という話でしょうか。
木村 そうです。それというのも、蝶はギリシア・ローマ以前のエジプトの時代から、魂の象徴なんです。
姜 それは知りませんでした。
木村 そして蛾は光に吸い寄せられる性質を持っていますよね。そこから蛾も魂の象徴として描かれるようになったようです。17世紀のオランダの静物画によく出てくるんですよ。ですから、姜さんのご体験を知って、こんなことが本当にあるものなのか、と思ったんです。
姜 親しくしていた方が亡くなったときも、父が亡くなったときもどこからか蛾が現れたんですよ。これは非常に個人的な体験であって、まさか美術史的な象徴と合致するとは思っていませんでした。いやあ、驚きです。
木村 姜さんが人生経験やご自身の実感から絵画の真実に近づいておられることを感じさせるエピソードでした。
姜 ありがとうございます。しかしこの本のなかには感覚的すぎたところもあったかもしれないとも思っているんです。たとえばブリューゲルの『絞首台の上のカササギ』について。僕はあのカササギはブリューゲル自身であるという仮説を立てたのです。
木村 正直申しまして、それは美術史的には断言できないところです。というのはブリューゲルという人は、カトリックに属したのか、プロテスタントだったのかについてさえ表明していない。ですから作品の解釈もひと通りでないんです。
姜 無記名的な作家だったのですね。
木村 当時のネーデルラントの政治や宗教問題を考えると、不吉な鳥の象徴であるカササギというモチーフにしても、判断しがたいのです。とはいえ、個人的には姜さんの解釈は非常に刺激的だと思います。
姜 僕は、ブリューゲルは、この絵で死の先にある再生と希望を描いているのだと思うんです。もちろん、これは単なる僕の希望なのかもしれないけれど。
木村 そういった姜さん流の自由な解釈にこそ、引き込まれてしまうんです。世界や時代の移り変わりをブリューゲルがカササギになって眺めているとしたら、面白いではないですか。
構成=濱野千尋
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【姜尚中 著】
『あなたは誰? 私はここにいる』(集英社新書)
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【木村泰司 著】
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姜尚中
カン・サンジュン●東京大学大学院情報学環教授。専攻は政治学・政治思想史。
1950年熊本県生まれ。
著書に『マックス・ウェーバーと近代』『日朝関係の克服』『姜尚中の政治学入門』『在日』『悩む力』『母―オモニ―』等多数。「新・君たちはどう生きるか」を本誌に連載中。
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木村泰司
きむら・たいじ●西洋美術史家。
1966年生まれ。 カリフォルニア大学バークレー校で美術史学士号を取得後、ロンドンのサザビーズ美術教養講座でWorks of Art修了。著書に『名画の言い分』『西洋美術史から日本が見える』『巨匠たちの迷宮』『美女たちの西洋美術史』。 |
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