東野圭吾は、読者に隙を見せるのが巧い作家だ。
脇が甘いという意味ではない。自作の中にたくさんの隙間を作り、そこに読者を招じ入れる技に長けているのである。試しにいくつかの作品について、東野圭吾ファン同士で語り合ってみるといいと思う。同じ作品を読んだとは思えないほど、千差万別の感想が出てくるはずだ。みんな入りこむ隙間が違う。「ここから入れば眺めがいいですよ」と声をかけないのが創り手としての東野の作法である。
直木賞を受賞したヒット作『容疑者Xの献身』を、私は男同士の友情の話として読んだ。ちょっとホモセクシュアルな感じまでするな、と思ったくらいだ(湯川学がひさしぶりに再会した石神の部屋を訪れて一泊するところなんて、意味もなくドキドキした)。ところが世間では、女性に無償の愛を捧げた男の話としてこの小説を賞賛する声が多かったのである。あ、入った隙間が違ったんだな、と感じた次第。おそらくどちらの読みも間違いではないのだと思う。中に入ったら、何を選んでもいいのが東野圭吾の世界だ。
多様な読みを許す作品といえば、一九九九年の『白夜行』がある。この作品は、ある人物が高度成長期からバブルの時代に至る長い歳月をどのように送ったかが問題とされるものだ。叙述にミステリーとしての芸があり非常に内容紹介がしにくい作品である。だが、同作がドラマ化された際、制作者は終盤で出てくるネタをあっさりと明かしてしまった。ミステリーとしての魅力が減じても、それ以外の魅力で視聴者を惹きつけられる、という計算があったからだろう。それは当たりで、ドラマ版『白夜行』は一般の視聴者から熱烈に支持されたのである。マニアとは違うところに彼らの隙間があったのだ。『白夜行』とは姉妹編のような関係にある『幻夜』も、同様の自由度に満ちた作品である。
東野圭吾には一徹な職人作家の顔もあり、特にミステリーを書いて人を驚かせるということへの情熱は並々ならぬものがある。新人から中堅作家に肩書きが変わりつつあった一九九〇年頃に東野の講演を聴く機会があった。そのとき東野が「トリックのストックは人に売るほどある」と冗談交じりに語ったのは、折からの〈新本格ミステリー〉ブームを横目で睨んでのことだろう。
このころの東野は、さまざまな業物(わざもの)を前にして試し斬りの作業で忙しかった時期だったはずである。デビュー第二作の『卒業 雪月花殺人ゲーム』で主役を張った加賀恭一郎を警察官にして再登場させ、刑事の視点から犯人の内奥を掘り下げる小説『眠りの森』を書いたのが一九八九年のことだ。同年に発表された『鳥人計画』はジャンプ競技の世界に題材をとった力作で、東野圭吾という作家の取材力に読者は目を見張った。しかし、東野版〈館ミステリー〉といえる『十字屋敷のピエロ』もこの年に出ていたのだ。
『眠りの森』『鳥人計画』の両作は狭義のトリックがなくても十分にミステリーとして成立する内容の作品だったが、それでも東野はオリジナルのトリックを入れる途(みち)を選んだ。一九九〇年代前半までの東野は、トリックメーカーの顔を第一とする作家だったのである。一九八六年の『白馬山荘殺人事件』に始まる〈雪の山荘〉三部作、『仮面山荘殺人事件』『ある閉ざされた雪の山荘で』なども一九九〇年代の前半までに発表された作品だ。特に『ある閉ざされた雪の山荘で』はゲーム性を前面に押し出した作りに始まって頭からお尻まで稚気の横溢した作品で、最後に明かされる真相は意外どころの騒ぎではない。
そして一九九六年に犯人当て小説の究極ともいうべき『どちらかが彼女を殺した』と、謎解きミステリーのお約束をパロディ化した『名探偵の掟』を上梓し、ファンのマニア心を大満足させたのである。その後一年の空白期間を意図的に作り、翌々年の一九九八年に発表した『秘密』が世間一般を巻き込む大ヒット作となって、東野圭吾という名は一気に大ブレイクを果たした。
東野自身が自作を振り返ったコメントを見ると(『東野圭吾公式ガイド』参照)、一九九〇年に上梓した『宿命』の時点で、「トリックのようなことよりも、人間のおもしろさを書くことのほうに興味が向かって」いたという。その翌年に発表した『変身』は、脳科学を題材としたサスペンスだが、人間描写の粋を凝らす技能がなければ小説としては成立しえないものだ。翌々年の『分身』も同様だろう。異常な事象に直面した人間がどのような行動をとるか。そこからどんな人間性が見えてくるか。人間のとる行動はどれも特異で奇妙なものであり、それ自体を描くことで謎解きとして成立する。そうした確信から作風を変化させていったのだ。
前述のとおり、東野は一九九六年に発表した『どちらかが彼女を殺した』『名探偵の掟』の二作で従来型の謎解き小説の書き手としては頂点を極めたのだが、その次に上梓した『秘密』は明らかに人間の心理を描くという側に軸足を移した小説だった。ここがやはり大きな転機だったのである。もちろん『どちらかが彼女を殺した』の延長線上に並ぶ『私が彼を殺した』のような作品もあり、従来の作風を捨てたわけではなかったし、『探偵ガリレオ』に始まる〈探偵ガリレオ・湯川学〉のシリーズでオリジナルの謎の創出を依然として続けてはいた。その結果、『容疑者Xの献身』という大傑作が生まれるに至ったわけである。
『聖女の救済』は『容疑者Xの献身』ほどファンに言及されることが少ない作品だが、オリジナルのトリックを中心に据えた小説としては〈探偵ガリレオ〉シリーズにおける最高傑作といっていい。ここで東野は、とんでもない荒技をやり遂げているのである。それは観客の注目を集めながら壇上で行うクロースアップマジックに近い。発想の逆転、視点のずらしによって生み出されたトリックとしては、『容疑者Xの献身』よりもこちらのほうが上だ。トリックの核となるものは始終読者の目の前に置かれているのに、絶対に気づくことができない。そういった意味で凄い謎解き小説なのだが、さらに素晴らしいのはこれが直木賞獲得などのイベントがあり、東野圭吾という名が爆発的に浸透した二〇〇六年以降に書かれたということである。この作品を読んだとき私は、作家が自分の原点を忘れずにいたことに感動を覚えた。隠し持っていた業物をちらつかせ「これだってあるんだぜ」とほくそ笑んでいる作家の顔が目に浮かぶ。実はまだトリックは「売るほどある」のではないだろうか。とんでもないときにそれが出てきそうで、まったく油断ができないのである。
ここ数年の東野の活躍については、改めて書くまでもないだろう。加賀恭一郎シリーズは、犯罪という許されざる途を選んでしまった人間の弱さを描くことを中心とし、その周辺の人間模様を点景として楽しく提供するという総合的な娯楽小説のシリーズに化けた。特に二〇〇九年の『新参者』以降は、街の風景を描く小説という性格も強くなっている。東野は一九九〇年代に人間を描くことのおもしろさを知って小説家としての奥行きを深めたが、都会小説の書き手としてもさらなる可能性を秘めているように思われる。
このたび単行本化される『マスカレード・ホテル』は、ホテルに集う人々を描くとともに、ミステリーとしても正攻法のおもしろさを追求した力作だ。『新参者』で披露したとおり、東野は人生の一部を切り取って一幕もののドラマとして提供する手腕に長けている。ホテルという場は、ひとびとにちょっとだけよそゆきの顔をさせ、また同時に欲望をむき出しにもさせるという両義性を備えている。その特異性によって織り成されるのは良質の人間喜劇である。たくさんの人物が登場するが、読者はそれぞれに感情移入する対象を見つけられるのではないだろうか。今回も〈隙間〉はふんだんに空けられている。ミステリーとしての趣向は、未読の方の興を削がないために伏せておくほうがいいだろう。おもしろいのは、ホテルの小説でありながら正統派の警察小説としても仕上がっていることで、その取り合わせの妙でも楽しませてくれる。マスカレード・ホテルに長期滞在し、ぜひその魅力を味わい尽くしてもらいたい。
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本誌では、東野圭吾先生のエッセイも読めます。 |
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杉江松恋
すぎえ・まつこい●評論家
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