青春と読書
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インタビュー
インタビュー 京極夏彦 おもしろきこともなき世をおもしろく
 緑山田小学校に通う健吾、誉、京野の六年生トリオは、クラスの中では目立たず、「馬鹿」という位置についている。彼れらがなによりも重きを置いているのは、なんでもいいからともかくおもしろがること。登下校の道々で出会う個性的な人たちに勝手に渾名(あだな)をつけておもしろがったり、クラスで深刻な話題が持ち上がると、表に立つことなくいつの間にか笑いの方向へと巧みに誘導していく……。京極夏彦さんの新刊『虚言少年』は、このトリオがくり広げるおもしろ可笑しい日常が描かれているのだが、彼らの変哲もない日常には、高度な生きる知恵が織り込まれてもいる。京極夏彦さんがこの作品に込めた思いを伺いました。


時代や場所は、
読者のイメージにゆだねる


――ふつう少年ものというと、「スタンド・バイ・ミー」のように、ある事件に遭遇してそれをきっかけに成長するという話か、あるいは「三丁目の夕日」みたいなノスタルジーをかき立てる話が多いのですが、『虚言少年』にはそうした要素はほとんどなく、具体的な時代もあまり表に出てきません。

 ぼくは、「時代」で人を括るのが嫌いなんですね。明治時代の人だって平安時代の人だっておつむの構造は変わらないし、やってることだってそう変わりはないと思うんですね。技術や社会の構造なんかが文化に影響を与えることは間違いないことだろうから、そうした環境がその時代を生きた人に「色をつける」ことはあると思いますが、基本は変わらないだろうと。「〇〇年代の若者」という括りは、結局文化論だったり環境論だったりするだけで、普遍的なものではないわけだし。七〇年代はよかったという人は七〇年代にいいぐらいの歳だったというだけの話で、八〇年代にいいぐらいの歳だった人は、八〇年代はよかったという。自分に照らし合わせているだけですよね。
 まあ、五十も近くなってくると、子ども時代のことを懐かしく感じます。でもそれって、要は個人的な記憶なんだし、それをそのまま書いたって小説にはならないだろうなと。エッセイならいいかもしれないけど。だから極力時代や郷愁に寄りかからないように努めました。

――時代もそうですが、この健吾たちが暮らしている町も、具体的にどことは書かれていません。

 場所への思い入れはもっとないんです。土地に対する固執が全然ない。住めば都で、まあ大体環境に順応しちゃいますし、どんなところにも長所も短所もあるわけで、住んでいたというだけで絶賛なんかできないし。ぼくの場合、郷愁というのは体験から導き出されるものではなくて、最初から郷愁としてあるんだろうと思うんです。だから、一度も行ったことがないところが懐かしかったりするわけですね。
 この小説の舞台も、ぼくが住んでいた町の面影がどこかしらあるだろうとは思うけれども、なるべくそう思われないように努めました。読んでいる人それぞれがイメージする町にならないと意味がないからです。そこを知っている人にはおもしろいけど、知らない人にはおもしろくないというのは、いかがなものかと。私小説的なものならまた別なんでしょうけど、そこは通俗娯楽小説なので、読者の中でおもしろいものになってくれないと困る。そんなわけで、あまり体験談的なものにはしたくなかったんですね。

――時代、場所のほかに、こうした物語によく出てくる家族、それから恋愛もほとんど出てきません。

 家族が嫌いとか、親が憎いとか、そういうことじゃないんだけど、このくらいの時期って、親や家族との距離が微妙ですよね。小さいころは家族と一緒に旅行や遊びに行ったりしたけれど、小学校六年生にもなればお父さんとお母さんと手をつないで遊園地には行かないでしょ。もう親の囲い込みからは外れかかったところで世界を作ろうとしている。家庭は家庭で大事なんだけど、家族をシャットアウトする時間を持ち始める。もちろん親離れできない子もいるんだけど、それも子ども社会ではむしろ隠すだろうと。家族というのは最小ユニットの社会で、そこのローカルルールが一つ上の社会では通用しないと気づくんですね。
 フィクションの中の家族って、それは驚くほど仲良しで慈しみ合ってる教科書的な関係だとか、反対に憎み合って殺し合ってるとか、そういう特殊なのが多いわけですけれども、もしホントにそうだったとしても、それは表に出さないだろうと。とりあえず家族はいるけれど、妙に親が出てくるというのは、あまりリアリティーがないんじゃないかと思ったんです。

――最初の方で、健吾が「恋なんかしない子供だっているのだ」「オモシロイことは幾らでもある。女子にかまけている暇なんぞない」というのも、小学校六年生の男の子のリアリティーなわけですね。

 男の子は子どもっぽいとか言いますけどね、それも人によるでしょう。一方で男は誰でもモテたいはずだというのを大前提にしますよね。それだって人によりますよ。ぼく自身は別に嫌われたいとは思わないけれど、異性にモテたいと思ったことは一回もないです。男女がいれば必ず恋愛が発生するという理屈はおかしいですよ。まあ、恋愛自体は別に悪いものではないだろうから、モテたいと思ったからといって悪いわけじゃないんでしょうけど、モテたいと思わないからといって、怒られる筋合いはない。
 性や恋愛に関しては、世の中の風潮も創作も、もうあからさまに一方的な決めつけが多いわけです。男は発情してて、既婚者は浮気願望があって当然で、老人はバイアグラを飲んでて、ご婦人は欲求不満でホストクラブに通って……それが当たり前な世の中なんてごめんだし、大体、リアリティーがまったくない。もちろん実際にそういう人たちもいるとは思うけれど、全部がそうだという前提で語られることがあまりにも多い。そんなことは断じてないです。男はこうだ、女はこうだろうという決めつけも、差別的ですらあると思う。
 そうじゃない人の方が多いはずなんだけど、みんな「そうかもな」と他人事のように思ってるんですね。で、そういうタイプは娯楽小説においてはおおむね「凡庸」の一言で片づけられてしまうわけです。でも、凡庸の方が圧倒的に多いわけですね。まあ、数が多いから目立たない。格別につらい思いをしているわけでもない。人生で一番大変な事件はどぶに落っこちたことだみたいなやつはごろごろいる。それを凡庸で片づけない小説を書きたくて。恋だの愛だの、そういうわかりやすいもんを排除しても、充分人はおもしろいですから。

聞き手・構成=増子信一
(続きは本誌でお楽しみください)
【京極夏彦 著】
『虚言少年』
(単行本)集英社刊・7月26日発売
定価1,785円(税込)
プロフィール
京極夏彦
きょうごく・なつひこ●
1963年北海道生まれ。小説家、意匠家。
94年『姑獲鳥の夏』でデビュー。著書に『魍魎の匣』(日本推理作家協会賞長編部門)「嗤う伊右衛門」(泉鏡花賞)『覘き小平次』(山本周五郎賞)『後巷説百物語』(直木賞)『死ねばいいのに』『南極(廉)』『オジいサン』等。
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