青春と読書
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巻頭インタビュー
インタビュー 『いねむり先生』敬愛の念をシンプルに描く 伊集院静
伊集院静さんの新刊『いねむり先生』は、色川武大=阿佐田哲也との二年間の交流をもとに書かれた小説。
色川武大の名で『百』や『狂人日記』などの純文学小説を書き、阿佐田哲也の名で『麻雀放浪記』などの大衆小説を書き、"雀聖"としても崇められたこの小説家は、ナルコレプシーという睡眠障害を持病としており、麻雀の最中にも居眠りをして順番が来ると、その都度起こされたという逸話をもつ。
その幅広い交友関係でも有名だった。伊集院さんはその最晩年に親しく付き合い、ともに競輪の「旅打ち」にも出かけた。
主人公のサブローは、一年前に女優の妻を失い、心身ともに荒み、周囲が小説執筆の再開を促しても、頑として書くことを拒否し続けていた。
そんなときに「いねむり先生」と出会ったサブローは、その不思議な魅力に惹かれていく……。



とらえ難い作家の“第三の部分”

――色川武大=阿佐田哲也さんが亡くなられて、この本の奥付発行日である四月十日で、ちょうど二十二年になります。色川さんとのことは、いつか書いてみようと思われていたのでしょうか。

 もし書く機会があれば、書くことがあるかもしれないくらいの、やわらかいニュアンスでしたね。まあ、人間というのは誰でもとらえどころは難しいんだけれども、先生の場合、特別に難しい感じなんです。純文学の小説を書く色川武大と、大衆小説を書く阿佐田哲也、それに加えて、長い間、裏社会の中で生きてきたもう一人の人間がいる。そこには阿佐田哲也だけではなくて、いわば裏返しにされた色川武大もいる。わかりやすくいえば、「坊や哲」とか「イロちゃん」とかいわれる世界の人間がいるわけです。
 だから、この何ともとらえ難い人間のことを書くのであれば、その第三のところに焦点を当てることによって、色川武大も阿佐田哲也も、両方とも浮き上がってくるのではないか。そういう方法があるかもしれない。そうして、私が同行した競輪の旅打ちをしているときの先生が、その第三の部分なのではないか、そう思ったわけですね。
 つまり、ギャンブルの旅の最中でも「先生」は小説を書いている。それは純文学でも、大衆小説でも、どちらでもいいんですけれど、ともかく小説の仕事を抱えながらギャンブルをしているのは、色川武大でもなく、阿佐田哲也でもない。普段は現れることのない、もう一人の人間なんです。そういう解き方をすれば、このサブローがとらえる先生の像が出やすいんじゃないか、という感触があった。
 そこへ、たまたま編集者から色川さんのことを書いてみませんかといわれて、おぼろだったものが少しずつかたちになっていったんですね。また、その編集者が、色川武大のほうに寄っていたこともよかったのかもしれません。阿佐田哲也寄りにもっていくと、ギャンブルや裏世界のほうに傾いてしまうし、おまけに、サブローと亡くなった女優の妻との関係も出てくるから、ともするとスキャンダル話に陥ってしまう危険性がある。その点、純文学の色川武大を敬愛し、そちらに軸を置いている編集者であれば、ぼくがあまり違う方向へ行ったときには、修正してくれるだろうと。
 もう一点大事なのは、書く時期を迷うことがなくなったということです。三十半ばで小説を書き始めて、これまでは、何か書きたいと思ったときに、今はまだこれを書く時期ではないんじゃないかと思うことが多かった。しかし、今ならできるというものだけを選ぶのは、結果的によくない。書きたいと思ったら、今すぐやらなければだめなんですね。
『いねむり先生』が、終章までこぎ着けられた最大の理由というのは、「今が時期だ」という作家の個人的な事情を全部のけて、今やっておかなければだめだという思いで書いたからだと思います。これが五年、いや三年遅くても、この小説は書くことができなかったと思いますね。
 それからもう一つ、その作家が旬のときに書けたかどうかという問題がある。私は還暦を過ぎましたが、今こそが旬だと思っているから(笑)、それなら、今やっておこうと思ったわけですね。まあ、傍からどう見られようとも、作家自身がそう思って書くことが大事なんです。
生きる場所を探す青年と思い迷う老人

――この作品には、小説ならではの虚と実が見事な具合に入り交じっています。近松門左衛門の「芸というものは実と虚の皮膜(ひにく)の間にある」という言葉が、思い浮かびました。

 小説だから大半はつくりごとなんだけれど、それと同時に、大半は事実なんです。小説的なおもしろさと事実の強さの両方があって、はじめて小説的な真実が出てくるのかもしれない。たとえば事実の方でいうと、先生が上野のアメ横で千鳥格子の柄のジャケットを買うところが出てくる。先生が「もう少し大きい柄はない?」と訊くと、店員が「これ以上大きいと柄じゃなくなっちゃいますよ」と応える。あれなどは想像では書けない。その場で見ていた私が、まさかあんな大きい千鳥は選ばないだろうと思って、びっくりしましたからね。また、それを平気ですっと選んで、「少し派手かな?」っていえるのが、あの人の格みたいなものなんですね。
 サブローにしても、半分くらいの真実がある。サブローは一度は小説を書くことを目指す。しかしこのときのサブローは、自分はもう小説が書けないという結論を出していた。先生の作品に接することで余計に自分の才能を思い知らされたところもあるし、小説そのものに意味を見出せない、小説の否定のような気持ちもあった。実際、私自身、今振り返ってみると、小説を書けなかったあの時期というのはいい時期だったんですよ。もしあの頃の精神状態で、頭の先から足の先まで小説のことを考えていたら、だめになっていたと思う。

――そうしたときに「先生」と出会ったことは幸運だったわけですね。

 最初から考えたものではなかったけれど、ともに精神的な悩みを持つ二人――生きる場所を探している青年と、場所はあるけれども、このままでいいのかと思い迷う老人――という構図が、事実を思い出しながら書いていくうちに、だんだんと見えてきた。その意味では、大体の道が見えてきたところで書き始めるという、これまでの書き方とはちがって、私としては実験的な書き方だったけれど、結果的には、しっかりした構図の小説になっているような気がして、自分でも少し驚いています。
 それから、今までの自分の小説と違うところがあるとしたら、シンプルな話でいいと思えたことです。最後の方で、サブローが幻覚に襲われたときに、先生が「大丈夫だよ」といって手を握る場面がある。正直、私はあんなことを書きたかったわけじゃない。もっと違うことを書きたかったんですよ。でもあれを書いたとき、「あっ、サブローは救われた」と思った。そうか、これは先生がサブローを救う話なんだ、そういうシンプルな話でいいんだと。
 というのは、『お父やんとオジさん』などで書いたように、戦後という時代とか、在日の問題とか、そういうバックボーンがある小説とはまったくちがう、極めてシンプルなかたちで書けたことがよかったと思うからです。その意味でも今度の本は、自分にとって大事な作品になる気がします。

――小説のエピグラフに、「その人が/眠むっているところを見かけたら/どうか やさしくしてほしい/その人は ボクらの大切な先生だから」とあります。

 あの四行の言葉が出たときに、これでいけるんじゃないか、この精神だなというのはありました。要するに、先生に対する敬愛です。連載が始まってまだ一、二回のときに、これをおもしろいといってくれた人が何人かいて、その人たちが共通していったのは、こういうふうに人が人を敬愛することが小説になっているものが、今はないんだということでした。それを聞いたときに、「敬愛」ということが、やはりこの小説の芯になっていると思った。
 川上弘美さんに『センセイの鞄』という小説がありましたね、あれを読んだときに、これは非常に幸せな小説だなと思ったんですよ。先生に対する敬愛の念が素直に出ていて、きっと作者も幸せに思った小説だろうと。そのときにふっと、これが色川武大だとどうなるのかと思ったところがある。あそこに出てくるような要素を色川さんはすべてもっているんです。
 非常に温かみのあるユーモアを持っていた人であり、決して徒党を組まず、他人に対して優しかった色川さんを、最後まで敬愛の念をもって書くことができた。私はこれを書けて幸せだったと思います。もちろん、実際には非常に苦しい作業であったけれども、書き終えてみて、幸せだったなと思うし、この小説が、色川武大=阿佐田哲也という人が生きていた証の一つになればいいと思いますね。

聞き手・構成=増子信一
【伊集院 静 著】
『いねむり先生』
(単行本)集英社刊・4月5日発売
定価1,680円
プロフィール
伊集院静
いじゅういん・しずか●作家。
1950年山口県生まれ。
著書に『乳房』(吉川英治文学新人賞)『受け月』(直木賞)『機関車先生』(柴田錬三郎賞)『ごろごろ』(吉川英治文学賞)『浅草のおんな』『お父やんとオジさん』等。
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