青春と読書
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特別企画
「母の思い出」 結果発表 ――姜尚中 『母―オモニ―』 特別企画 選考委員=姜尚中 落合恵子
主催=株式会社集英社
最優秀作品
 長坂隆雄 「廃屋の故郷」

優秀作品(二作品)
 石川孝四郎 「母の思い出」
 拓野茂樹  「母の思い出」

姜尚中賞
 嶋 吉太郎 無題

落合恵子賞
 川和文子  「母の思い出」

姜尚中さんの『母―オモニ―』(本誌連載)刊行以来、読者の方々から本の感想とともに、それぞれの「母」の思い出も多数寄せられました。この反響に、集英社では、あらためて読者の方々の母親にまつわる貴重なお話を広く募集し、共に思い出を分かちあえるよう発表の場を設けることにいたしました。
宣伝部「母の思い出」係では、一四九一通の応募作品のなかから慎重に検討し、昨年十二月八日、選考委員のお二人・姜尚中さんと落合恵子さんに選考していただき、上記の受賞作が決定いたしました。
また、最終候補作は下記の通りです。


最終候補二十七名(順不同・敬称略)

上坂由佳  (北海道) 戸辺美都子 (青森) 青木考躬  (東京)
金剛三枝子 (東京) 染谷靖夫  (東京) 鈴木幸江  (千葉)
長坂隆雄  (千葉) 尾高達彦  (埼玉) 山田清一郎 (埼玉)
川和文子  (神奈川) 高橋弘子  (神奈川) 拓野茂樹  (神奈川)
森谷江津子 (神奈川) 森山 勉  (新潟) 新森洋子  (富山)
竹野伸博  (岐阜) 江康慧   (滋賀) 岩城吉蔵  (奈良)
佐古志保美 (大阪) 嶋 吉太朗 (兵庫) 神中 香  (岡山)
川井康之  (広島) 原田 彰  (広島) 安井靖子  (山口)
經 みさを (愛知) 平川蒼生子 (福岡) 石川孝四郎 (大分)


「母の思い出」作品選考会抄録

姜尚中
落合恵子

 師走の夕刻の神保町、会場となった集英社の会議室には最終候補作とともに、応募されたすべての封筒が持ち込まれた。応募総数一四九一通、北は北海道から南は沖縄、年齢も十代から九十代という幅広い応募となった。選考委員の姜尚中さんと落合恵子さんは膨大な封筒の山に目を丸くしながら席に着かれると、さっそく目の前の最終候補作に手を伸ばし、応募規定の八百字に込められた思い出を一通ずつ丹念に、真剣な眼差しで時間をかけて読み進めていった。
 落合さんは封筒を手にしたまま「これらの作品に順序をつけることの罪深さを、今感じています。本当に選んでいいのかな」、姜さんはゆっくりと感慨深げに「母を語るときの文章はどれもが印象深いね。天秤にかけて比べられるものではない。さっきから涙腺が緩みっぱなしです」と、口にされた。一人ひとり異なる、かけがえのない人生が書かれた作品を読み、充足感に満たされた反面、ためらわれている様子。とても一つには絞れないということから急遽、賞を五つに増設。なおも迷われるお二人が呻吟の末、いよいよ授賞作決定となった。姜さんと落合さんに、全体の印象とそれぞれの作品について感想をうかがった。


――まずは全体の印象からうかがえますか。

落合 どの応募作にも、「ありがとうございます」とお伝えしたい。いい時間をいただきました。『母―オモニ―』が一つの原動力となりそれぞれの母が語られる、この広がりに感動しました。
姜  今さらながら、昭和を生きた人たちの背負う悲しみやさまざまな思いがよく伝わりました。長い歳月が、ようやくみなさんに母のことを書かせているのかもしれない。

――最優秀作品の長坂隆雄さん「廃屋の故郷」について。

落合 私が母を介護していたときに、小さい頃に母から教わった球根の名前を今度は私が母に教え直したことがありました。認知症がはじまっていましたので。「うんうん」と聞いていた母ですが、突然球根を握りしめて食べようとしたんですね。「何やっているのお母さん!」と手首を押さえたら、母の手が球根を握ったそのまま宙に浮いた、そのとき訪れた重く悲しい静寂が今でも忘れられない。場面や細部は異なりますが、腕力が衰える母と見ているしかない子どもの姿に、どこかその情景が重なって、とてもとても心に響きました。
 僕の母はずっとお餅を杵で搗(つ)いて作っていたんですが、ある時からは電気製品の力を借りるようになり、やがてそれですらできなくなった。そのときになって初めて意識した、母親の老化が思い起こされました。子供にとって食と母の記憶は大きく、みなさんに通じる普遍的なテーマですね。

――優秀作品の石川孝四郎さんと柘野茂樹さんの「母の思い出」。

 まず、石川さんが書かれた作品。認知症のお母様が末っ子の孝四郎さんを前に「小さい孝ちゃんがいなくなった」という。友達のところで遊んでいるよと答えてあげると、「よかった」とお母様は微笑む。孝四郎さんを育てていた時代がとても好きで、きっと当時に戻っていたんじゃないかな。
落合 柘野さんの「母の思い出」は、人にとって和解というものは決して容易(たやす)いものではないけれど、辿り着いた和解が持つやわらかさのようなもの、一人の子どもとして柘野さんが続けた旅路、心の放浪がとてもよく伝わってきました。

――姜尚中賞の嶋吉太郎さんの作品。

 字を読むのが得意でないお母様が息子に内緒で学校の先生にローマ字を習う話ですね。僕の母も字が読めませんでしたから、このエピソードには思い入れが強いんです。先生が息子さんに手渡したあの便箋、あれは泣かせるよ。それに、お母様の熱意に応える先生がいたというのがまたいいんです。

――落合恵子賞の川和文子さんの「母の思い出」。

落合 お母様が遺言に込めた亡き夫への思い、その遺言を実行する川和さんのお母様への思い、そして、反抗期で口をきかないでいた息子さんと川和さんの双方を繋いだ思い。三世代の“思い”が作品となり、とてもせつないけれども、とても深い。人の命の連続性のようなものを語ってくださった作品で心に残りました。

――最後に一言ずつ。

 コメントしたい作品はいっぱいあるんです。
落合 ほんとうにそうでしたね。全部に触れたくなります。
 ええ、捨てがたいお話がいっぱいあったということを最後に強く申し上げておきたい。どれもすばらしかった。


最優秀作品
「廃屋の故郷」 長坂隆雄さん

 都会に住む私の家に移る事を拒み、ただ一人で故郷の家を守りつづけた母が亡くなり、住む人もなく放置されたままの田舎の家を訪れた。
 屋内に入ると、停滞した空気の中に、子供時代からの慣れ親しんだ歴史の香りが充満していた。薄暗い台所に入ると、一瞬、酢っぱい香りが私の鼻をついた。母の得意だった寿司の香りである。
 帰郷する度に、嬉しそうに、いそいそと食事の準備に精を出す母の姿が思い浮かんだ。
 幾つになっても、母にとって私は子供であった。精一杯の食事をさせる事が一種の生き甲斐であったのかも知れない。
 帰りには、必ず子供の時からの好物である手巻きの寿司を作ってくれ、その甘酸っぱい絶妙な酢の調味加減に舌つづみをうったものである。
 八十五歳を過ぎた頃からであろうか、寿司の堅さが妙に気になるようになった。今まで堅く巻かれていた寿司が年毎に緩くなり、粗くなってきたように感じられた。帰りの車中で、手にした寿司が時にポロポロとこぼれる事があり、改めて年毎に老い行く母を寂しく感じるようになった。ただ絶妙な酢加減だけは変わらないのが救いであった。
 九十歳を前にして母が言った。
「お前の好きなお寿司がなあ、もう巻けんようになってしもうたんや。力がのうなって堅う巻けんのよ。お米がぼろぼろとこぼれてしもうてなあ  ――」と寂しそうに言った。
「もう良いんだよ。長い間、充分に堪能させてもらったよ。本当に有り難う」と言いたかった。併(しか)し、胸が一杯で、どうしても口にだして言えなかった。母が亡くなったのは、その翌年である。
 酢の香の残る廃屋に佇み、母への思いが蘇り涙が落ちた。


優秀作品
「母の思い出」 石川孝四郎さん

「また、小さい孝ちゃんがいなくなった。探してきておくれ」八十歳を過ぎて痴呆を患った母は、私が末っ子であるにもかかわらず私の下に小さな息子がいると言ってきかなかった。その子の名を、小さい孝ちゃんと呼んでいた。「小さい孝ちゃんを生んだ時の事はよーく憶えているよ」と言っては、私が生まれた当初のことを、綿々と語るのだった。
 老年の母は、私の懐しい幼児の思い出を紡ぎとるように、自らの瞼の奥に、再現させたのではないだろうか。その幻の幼児は、不意に母の前に現われ、暫くたったのち、忽然と姿を消すのだった。その日も夕の食事どき突然いなくなった我が子を探してくれと母はせがむ。おざなりに黙視もできず、私はいつものように「それじゃあ、ちょっと探してくるよ」と言い置いて、散歩がてら、おもむろに腰を上げた。私が七つの折、父が、急逝して大黒柱を喪った母は、子供の成長だけを命として生きてきた。その母が老境に至って、認知症を発病し、私の子供の頃の幻影を見るようになった。それはひとえに、私の子供の頃の分身を身内に育むことで、子育てに翻弄され、日々の慌しさに充実した生活感を見出していた若かりし頃への切なる回帰を夢みていたのではないだろうか。小さい孝ちゃんの存在はきっと、年老いた母の心の拠り所だったに相違ない ……。
 しばらくして、散歩から帰った私は、こう言い繕った。「母ちゃん、小さい孝ちゃんは今友達の所に遊びに行っているから心配せんでいいよ」「あゝそうね、よかった」
 安堵に胸をなでおろした母は、微笑を浮かべ、安心しきったように再び食事にとりかかった。この頑是なくも、ほとんど童話的な思い出は、母が亡くなって三年たった今でも母への鎮魂歌(レクイエム)として、いつまでも、私の心から離れることはない。


優秀作品
「母の思い出」 柘野茂樹さん

 六十六年生きてきた今、私には母への「思い」はあるが、「思い出」は無い。私が生まれて六十日後、父は病で亡くなった。母は実家に帰り他家へ嫁いだと聞かされた。母と祖父母との間で何が話されたのか私は知らない。祖父母が私の育ての親だ。小学生の頃の父兄参観日、友人達には若い母親が、私には年老いた祖母、恥ずかしく思った記憶がある。なぜ母は私をおいて行ったのか、私は捨てられたのだとの思いが心に刷り込まれた。ただ、父が母の事をどう思っていたのかを考えた事はなかった。高校生の頃には、「母親になれない女はいるものだ」と友人達に言っていた。大学生の頃、初めて母から手紙が来た。何日にある駅前で待っていると。迷った。祖父母に話した。「お前が会いたいなら行けば ……」と言い乍(なが)ら泣き笑いの顔。その顔を見て、祖父母に何という事を言ったのかと大いに反省。「会いには行かないから、会いたくもないし」と答えた。祖父母のほっとした顔に申し訳なさが募った。以来四十数年、母からの連絡はない。一年程前、六十数年前の父の日記を見つけた。すごい達筆に感動、一気に読了。初めて父の、母への思いを知り、その思いに涙が溢れた。
「神々の思し召しなるか 我と君 かく結ばれしを誰の心と言わん」、「新妻の声美しき あしたなり 妻となりたる 我妻となる」、「すまん 結婚して僅か一ヶ月で病床につき 看取りの一年間であった お前の新婚生活を考え あわれなり」 ……涙が溢れる。母は父のこの思いを知っていただろうか。妻が背中を押してくれた事もあり戸籍謄本で追いかけた。思い切って手紙を出した。「あなたの事を思い続けていた。手紙嬉しかった」と返事が来た。父の日記のコピーも送った。「お父さんは本当に優しい人でした」と。母も「父の思い」や、「私の手紙」を喜んでくれた。永年の母への淀んだ思いが流された気がした。私には、母への「思い」はあるが、「思い出」はない。母に「生んでくれて有難う、どうか健康で幸せな日々を」と今は思っている。


姜尚中賞
無題 嶋 吉太郎さん

 昭和最初の年に生まれた母の話です。
 母の子ども時代は恐慌の時代であり、とりわけ家が貧しかった母は生活の為、賃金をあてにした子守や近所の手伝いで小学校に満足に行けなかったようです。その為、ひらがなや易しい漢字は何とか読めるものの、それらを書くことができませんでした。父と結婚してからも貧しさから抜け出すことができず、子どもの成長だけが楽しみといった生活ぶりでした。
「今日から日々の作文はローマ字で書くこと」
 四年生のときの私の担任教師が言いました。この先生は綴り方教育に熱心で、私たちに毎日、作文を書かせていましたが、学習したばかりのローマ字を私たちに定着させるために、そうしたのでしょう。
 その日、私はローマ字を使い、作文をノートに書きあげ、先生に提出しました。そして、先生の返事を書いてもらい返却してもらいました。
「これ、英語で書いてんのぉ? ちっとも分かれへんわ」
 いつものように私の鞄から取り出したノートを開き、母は呟きました。
「英語とちゃう。ローマ字やで」
「ふーん。難しい勉強してんのやなぁ」
 母は溜息まじりの声をあげました。
「これ、先生に忘れんと渡すんやで」
 と、母に言われ、茶封筒を受け取ったのは二、三日あとのことでした。先生に渡すと、
「ふーん。ええお母ちゃんやな」
 と、私の頭を撫でてくれました。
 放課後、下校する私に、
「六十九ページや言うて、お母ちゃんにこれを渡しといてくれ」
 と、先生は古びた国語の教科書を渡してくれました。そして、怪訝な顔の私に「お前もしっかり勉強せなあかんで」と付け加えました。
 その夜、私は尿意をもよおし、布団から抜け出しました。そして、少し襖を開けたとき、裸電球の下に母の姿が浮かびあがりました。それは、卓袱台に古い教科書とチラシを広げ、鉛筆片手に頭をかかえ、アルファベットと格闘する姿でした。私はなぜか見てはならないものを見たような気がして、そのまま布団に潜り込みました。そして、このことを心の中に仕舞い込むことにしました。
 そして、小学校の卒業式の日、担任教師は、
「勉強が厭(いや)になったら、これを読んでみぃ」
 と、古びた便箋を私に手渡してくれました。そこには、歪(いびつ)なひらがなでこう書かれていた。
「むすこのさくぶんと せんせいのへんじがまいにちのたのしみです。むすこにはないしよで ろおまじお べんきようしたいのです。よろしくおねがいします」と。


落合恵子賞
「母の思い出」 川和文子さん

「死後は献体をし、骨が戻ってきたらフィリピンに散骨して下さい」
 肺気腫で長患いの末、七十六歳で逝った母の遺言である。
 私の父は昭和二十年六月フィリピン・ミンダナオ島で戦死。当時一歳の私を抱え、ご近所の編物などをして生計を立てていたが、私が小学生に上がると、進駐軍の食堂で働き始めた。始発に乗り午後帰宅する早出と、午後から深夜までの二部制で、常にひとりで留守番をする私は寂しい以外の、何ものでもなかったが、今思うと、子供をひとり残して家を出る母の方が辛かったに違いない。
 深夜に帰宅する時は決まってお土産があった。といってもパーティの残り物で、当時としては珍しいアイスクリームや鳥の空揚げなど、眠っている私を起こし食べさせた。親つばめが腹を空かしてピーピー鳴いている子つばめに餌をやる感覚だったに違いない。多めに持ち帰った日は、隣に住む二十歳の肺結核を病んでいた娘さんにも届けていた。
 進駐軍が去った後、母は銀行の清掃業務に携わり、六十歳の停年まで勤めあげた。
 間もなくして母は、フィリピンの戦場跡地を見にひとりでツアーに参加した。白木の箱に入った紙切れ一枚で「戦死」と言われても納得していなかったのであろう。
「あれでは生きていられる訳、無いね!」と沢山の戦禍の跡の写真を見せながらポツリと言った。
 大学病院から母の骨が戻って来た時、おばあちゃん子だった息子は高二。反抗期で十ヶ月も口を利いていなかった。私はひとりでフィリピンに散骨に行くことをメモに記し、息子の部屋の前に置いた。すると
「僕も行く!」
とメモに返事が ……。
 夏休みを利用して一週間、息子と二人の初めての旅になった。その息子も三十二歳。昨年結婚した。
 母は餓死したかもしれない父を思い、生前贅沢な物を多くは口にしなかった。肋膜(ろくまく)を患っても働き続けた母。そんな母の背中を見てきた私は、未だに怠ける事ができない。動ける限り仕事をしていこうと思っている。
 
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