青春と読書
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浅田次郎『終わらざる夏』刊行記念特集
インタビュー いまだからこそ書く「終わってから始まった戦争」 浅田次郎
第二次世界大戦末期の日本。
ポツダム宣言を受諾した後に北端の島・占守島で起きた「知られざる戦い」。
この史実をもとに、そこに巻き込まれていく人々の人生を描いた感動巨編、『終わらざる夏』(上・下巻)が刊行されます。
本特集では、著者の浅田次郎さんへのインタビュー、そして舞台となっている北千島(クリル諸島)の占守島の歴史と、同島に缶詰工場のあった日魯漁業(現マルハニチロ食品)の秘話もご紹介します。

『終わらざる夏』には、戦争に翻弄されていく様々な立場、階層の人々が登場します。それら登場人物へ込めた思いとともに、この作品を書かれるに至った経緯を語っていただきました。



◆国家総力戦の悲劇◆

――今回の作品は、一九四五年八月十五日以降、つまりポツダム宣言を受諾し、戦争が終わってから日ソ間で始まった「占守(シュムシュ)島の戦い」が主要な舞台になっています。あまり知られていない史実ですが、なぜこれを書こうと思われたのでしょうか。

 第二次世界大戦は、いわば人類史上最大の戦争でした。つまり終結時も相当数の軍隊が世界中で活動しているわけで、ポツダム宣言を受諾したからといって、その瞬間にすべての軍隊が同時に戦争を終えられるかといったら、それは難しいことです。終戦前に始まって八月十五日以降も続いた旧満洲(中国東北部)に攻め込んだソ連軍と関東軍との戦闘はよく知られていますが、樺太(サハリン)、そして占守島を含む北千島(クリル諸島)では、終戦後に日ソ間で激烈な戦闘が始まりました。止めようとして止まらなかった戦争と、終わってから始まった戦争とでは、天と地との開きがあるんですね。現在まで尾を引いている北方領土問題とも関わりがある史実ですが、僕としては、政治的なテーマからはまったく離れたところで、あくまでも日本、ソ連両方の兵士の視点から、この不思議な戦いの姿と矛盾を書きたいと思いました。

――いま「兵士の視点」という言葉が出ましたが、これまでも様々な作品のなかで、戦争の理不尽さ、戦争がいかに人の心や人生を壊していくか、様々な形で繰り返し書いておられます。

 戦争とは何かという議論をしたときに、クラウゼヴィッツの「戦争とは究極の外交手段である」という有名な言葉を引きあいに出して、戦争を肯定しようとする人たちがよくいますね。しかしそれは十八、十九世紀を生きたクラウゼヴィッツの時代の常識であって、それをいまも信じている人たちがいるというのが、僕には不思議でならない。戦争は、人の命がかかっているのだから、外交手段と同列に論じていいわけがありません。おそらく樺太・北千島の戦闘もある外交手段として行われたものという側面があるのは確かですけど、それだけでこの戦いを見てしまうのは間違いであるという提起をしたつもりです。

――本書もそうですが、浅田作品を通して感じるのは、一兵卒など「駒」として動かされる人間の視点をいつも大切にしていらっしゃることです。

 僕は、人間の幸福は「自由」によって保証されると思っています。もちろん様々な形の幸福があるだろうけれども、ある制約された状態の中での幸福は、本物の幸福ではないのではないか、と思います。
 その意味で、あの戦争は、日本が世界を相手に戦ってしまったために、どの国にも増して「総力戦」になってしまって、戦争を遂行するためのあらゆるシステムの中に、すべての国民を組み込んでしまった。つまり社会の自由、個人の自由、自由という自由をすべて国家が管理し、束縛して戦力としていったんですね。この国家総力戦が体現しているあの戦争の悲劇性を描くうえで、兵役義務年限ぎりぎりの四十五歳、片岡直哉(かたおかなおや)という一市民を戦場に引っぱり出す経緯からストーリーを考えたわけです。当時としては相当な老兵で、現在の感覚だと六十代くらいですかね。戦争も末期になって兵役義務年限が四十五歳に引き上げられ、大人の男はそれこそ根こそぎ戦争に連れていかれてしまった。話に聞くと、終戦の頃はひと目見てわかるくらい働きざかりの男がいなくなってしまったそうですよ。

◆「名前のある個人」の苦悩を知る◆

――「根こそぎ」という言葉が出ましたが、片岡に召集令状が届く過程を通して、日本のあらゆる場所で男たちが戦争に奪われていく状況、そして召集に関わる様様な立場の人々の苦悩が胸に迫りました。

 どのような過程を経てある個人に召集令状が届けられるのか、今回詳しく調べたのですが、例えばある作戦を遂行するのに必要な兵隊数の概数が最初にあって、それが段階を踏んで具体的な数字になり、個人の名前に特定されていく。終戦当時、一番はじめの概数を作っていたのは陸士(陸軍士官学校)、陸大(陸軍大学校)を出た二十代のエリート将校です。しかし数字だけを扱うからといって、彼らがその数字に国民個々の命を意識していなかったかといえば、そうではない。若くて知性があるということは、それだけ想像力も分析力もあるわけですから、必ず意識していたはずですよ。自分は大変な罪を犯している、と。
 しかしそうは言っても、やはり一番つらいのは、召集令状そのものを自分の知っている人に届ける役目の人だったと思いますね。片岡の召集令状は本籍のある盛岡の実家に届けられる。盛岡といえば、当時は人口十万人程度の小さな県庁所在地ですから、おそらく戦争末期には、召集令状を書くにしても届けるにしても、知り合いだらけだったことでしょう。ここに出てくる人々はむろん架空の人物ですけど、名簿を見ながら数字を個人の名前に特定していく佐々木曹長、働き手を持って行かれた村人の恨みを一身に背負っている佐藤金次(きんじ)、召集令状を届ける勇(いさむ)。名前こそ違っていても、彼らは間違いなくあの当時いた人たちです。彼らの苦悩を通して、これが戦争だと提示しようと考えたんです。

――召集ひとつとってもそうですが、具体的なことを知らなければ、戦争の実態は見えてこない、わからないのだと再認識しました。

 僕自身も調べる前は知らなかったことです。もともと僕たち戦後生まれの世代の戦争の知識というのは、戦艦大和がどのくらい大きかったとか、零戦がどんなに速かったのかといった外形的なことに偏りがちなんですね。たしかに戦艦大和も零戦も戦争の舞台であったことには違いない。しかし、僕たちが本当に知らなくてはならないのは、戦艦大和に乗っていた人、零戦に乗っていた人、つまり名前のある個人、一人ひとりが体現している戦争の正体なんですよ。
(続きは本誌でお楽しみください)
【浅田次郎 著】
『終わらざる夏』上・下
7月5日発売・単行本
定価(各)1,785円
プロフィール
浅田次郎
あさだ・じろう●作家。
1951年東京都生まれ。著書に『地下鉄(メトロ)に乗って』(吉川英治文学新人賞)『鉄道員(ぽっぽや)』(直木賞)『壬生義士伝』(柴田錬三郎賞)『お腹召しませ』(中央公論文芸賞・司馬遼太郎賞)『中原の虹』(吉川英治文学賞)等。
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