青春と読書
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対談
対談 ジョイス・ナボコフ・ポートレート 丸谷才一×若島正
このたび、丸谷才一さんが訳された「若い藝術家の肖像」は、ジェイムズ・ジョイスが書いた最初の長編小説です。丸谷さんは、初訳からこれまでに二度の改訳をされていますが、今回は新訳決定版。巻末には百枚を超す解説「空を飛ぶのは血筋のせいさ」も収められ、まさに丸谷さんのジョイス研究・翻訳の集大成となる記念碑的作品です。対談のお相手は、ナボコフの「ロリータ」の新訳で話題を呼んだ若島正さん。若島さんは英米文学者であるとともに、詰将棋作家、チェイス・プロブレム作家としても高名で、その緻密な読解力には定評があります。さまざまな仕掛けが施されている「若い藝術家の肖像」について、稀代の読み手お二人に読み解いていただきました。


●読みに七十年、研究に六十年

若島 丸谷さんがジョイスに出会われたのは、「少年時代」だと解説に書かれていましたが、具体的にはいつごろですか。
丸谷 中学生時代ですね。名原廣三郎訳の岩波文庫の『若き日の藝術家の自畫像』(『若い藝術家の肖像』、A Portrait of the Artist as a Young Man 以下『ポートレート』)。
若島 『ダブリナーズ』(『ダブリンの市民』、以下『ダブリナーズ』)とかではなく、まず『ポートレート』から入って、その後、どういう順にジョイスを読んでいったのですか。
丸谷 その次が『ユリシーズ』で、『ダブリナーズ』はその後で読んだんですね。それがよかった。『ダブリナーズ』が最初だったら、ぼくはこんなにジョイスに夢中にならなかったと思いますよ。なにしろ、ぼくは自然主義小説というのは苦手でしょう。『ダブリナーズ』のよさはそれなりに認めますけど、熱中の度合がまるで違います。『ポートレート』で世界が変わったような感じでした。
若島 私は、大学の英文科にいるときに、まず『ダブリナーズ』を読んで、その次が『ユリシーズ』で、『ポートレート』は一番最後なんです。その順番で読んだものですから、『ポートレート』が苦手だったんですね。
丸谷 その順序でお読みになればそうでしょう。 だって 『ポートレート』 が前置きみたいな仕掛けになっているんですもの。
若島 お話を伺って、若いときに『ポートレート』を読んでおけばよかったという気がします。
 ところで、東大の卒論はジョイスでしたね。
丸谷 そう。『ポートレート』論です。あのときの卒論は出来がいまひとつ良くなくて、今度、解説で『ポートレート』論を書くことができて、これなら大学生の卒論としても、まあいいかしらと思った(笑)。
若島 第一評論集『梨のつぶて』(一九六六)に「若いダイダロスの悩み」という『ポートレート』論がありますよね。
丸谷 あれが、卒論のにちょっと手を入れたものです。
若島 その後、講談社の世界文学全集の一冊として『ポートレート』の翻訳をされて(一九六九)、そこで比較的短い解説をお書きになってますね。そうして今回、「空を飛ぶのは血筋のせいさ」を書かれた。つまり、『ポートレート』を読む歴史が七十年、研究する歴史が六十年ぐらいあったということですね。それだけで、もうびっくりです(笑)。
 とくにこの小説のなかに出てくるヴィラネル(十九行二韻詩。三行五連と二つの反復句で特徴づけられた結びの四行から成る)の扱いに、丸谷さんの読みの遍歴が象徴的にあらわれていると思います。最初は名原訳を文庫で読んで感激して、その後研究社の復刊本を借りて夢中で筆写した、と。少年のときにあの詩を熱中して読まれたというのは、やはりロマンチックなものとして読めたわけですか。
丸谷 まだ子供だから、ほかに詩なんて知らないし、日本のいわゆる詩というものとまるでちがうでしょう。まして、同じ文句が何度もぐるぐる出てくるなんていうあの仕掛けにはびっくりする。とにかく、それやこれやいろいろあって感動するわけですね。さらに原文を読むと、また感動新たなるものがあって、すごいわけですよ(笑)。
 ところがその後、エリオット、エズラ・パウンド、ディラン・トマスといった人の詩を読んだりして生意気になってくると、あのヴィラネルはそう大したものではないと思うようになった。それに、ひと昔前の英文の学生だったらシェリー、キーツ、バイロン、コールリッジといったロマン派の詩人のものはひと通り丁寧に読むのが当たり前だったのですが、ぼくなんかは一人あたり十篇も読んでいない、いわゆるアンソロジー・ピースだけですませるという、極めていい加減な英文科学生だったんですよ。なにしろぼくにとっての英文学というのは、現代イギリス小説を読むためだけのものだったから(笑)。
 ともかく、そうして読んだロマン派と比べても、ジョイスのヴィラネルはちょっと格が落ちるなという感じが徐々にわかってきたんですね。だから、一回目の翻訳をやるときには、何という甘ったるい詩なんだろうという感じだったなあ(笑)。
若島 それが今回は、アイロニカルな部分とロマンチックな部分をバランスよくとらえられている。『ポートレート』という作品を読むにあたって、このヴィラネルをどう読むかで解釈も変わってくる。その意味でも、このヴィラネルはいい試金石のような気がしますね。
丸谷 そう。今度は以前と違って、やっぱりうっとりする感じがかなりありました(笑)。同じものを長いこと読んでいくとこういうことがあるんですね。
若島 いったんは回り道をして、もう一度原点に返ったという感じですかね。
(続きは本誌でお楽しみください)
プロフィール
丸谷才一
まるや・さいいち●作家。
1925年山形県鶴岡市生まれ。著書に『エホバの顔を避けて』『年の残り』(芥川賞)『たった一人の反乱』(谷崎潤一郎賞)『後鳥羽院』(読売文学賞)『笹まくら』『横しぐれ』(インディペンデント外国小説賞特別賞)『裏声で歌へ君が代』『忠臣藏とは何か』(野間文芸賞)『樹影譚』(川端康成賞)『女ざかり』『輝く日の宮』(朝日賞、泉鏡花文学賞)等。訳書に『ユリシーズ』(共訳)等。
若島 正
わかしま・ただし●京都大学大学院文学研究科教授(英米文学)、詰将棋作家、チェス・プロブレム作家。
1952年京都市生まれ。著書に『乱視読者の帰還』(本格ミステリ大賞)『乱視読者の英米短篇講義』(読売文学賞)『ロリータ、ロリータ、ロリータ』等。訳書に『ディフェンス』『ナボコフ短篇全集』(共訳)『ガラティア2.2』『透明な対象』『ナボコフ=ウィルソン往復書簡集』(共訳)『ロリータ』等。
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