待望の佐藤賢一さんの『小説フランス革命』(全十巻予定)の刊行がいよいよ今月から始まります(第I巻『革命のライオン』、第II巻『バスティーユの陥落』同時発売)。ヨーロッパのみならず全世界に衝撃を与え、近代社会に画期をなしたフランス革命に真正面から取り組んだこの作品は、佐藤さんが満を持して開始した大河歴史小説です。この畢生(ひつせい)の大作の刊行にあたって、最近、歴史に関心を寄せ、フランス革命にも非常に興味をお持ちだという脳科学者の茂木健一郎さんをゲストに、この歴史的大事件について大いに語っていただきました。
●歴史学と歴史小説のちがい
茂木 大変おもしろく拝読いたしました。歴史というのはやはり、小説仕立てにしないとわからないことがたくさんあると改めて強く感じさせられました。
ぼくは出身が自然科学畑なので、歴史について専門的に研究したことがないのですが、最近歴史に興味が出てきて、歴史についてのエッセイもいくつか書いたりしています。その過程でフランス革命について考えてみると、自由、平等、友愛という理念がアンシャンレジームに打ち勝って開明の時代を開いた、みたいな単純な図式じゃとても扱えないような複雑な波瀾があり、しかも第三共和制に至るまでに七十年ぐらいの年月を要している。これは、実に大変な出来事だと思いました。
一人一人の人間の意志や力を超えた歴史の法則の、ある意味では残酷さみたいなものも感じて、それが人間の脳を考える上でもいろいろな問題を提起してくれる。そうした興味を持ってこの小説を読ませていただいたのですが、佐藤さんはもともとは学問としての歴史をやられていたわけですね。それがどうして歴史小説を書こうと思われたんですか。
佐藤 歴史学というのは時代を書くのが第一の仕事であって、つまるところ、今と昔でいかに違っているかを明らかにすることが目的なんです。たとえば、社会システムなり政治制度なりを通してその違いを明らかにしていく。しかし、実際に歴史に触れていると、そこに今と変わらない人間というものも感じてしまう。自分たちと同じように生きて、ものを考えて、ご飯を食べて、そういう生きた人間の躍動感みたいなもの。それらは、歴史学の上では処理できなかった。
学問とはそういうものだと割り切ることが前提になっているわけですが、ぼくはそれをほうっておけなかったんですね。ならば、どうやって消化するかといったときに見つけたのが、小説という手段だったのだと思います。
茂木 今回の最初の二巻では、ミラボーが興味深いですね。怪物的なところもあるけれど、今の時代でもああいう人はいそうな気がするし、またいてほしいと思わせるくらい魅力的に描かれている。三部会が開かれたとか、バスティーユが襲撃されたといった年表的な動きを追うだけでは、どこか遠い国の出来事と思いがちですけれど、ミラボーのような人物が狂言回しとして出てくると、いきなり距離が縮まりますね。自分がもしこの時代に生きていたら、どういう生き方を選択しただろうか、みたいなことまで考えさせられる。
逆にいうと、どうも我々現代日本人は、歴史をどこか他人事(ひとごと)のように思っているところがあって、自分たちが生きているこの時代がやがては歴史の一部になるんだという意識が希薄なように思うんです。
佐藤 それは歴史学の問題もあると思います。近代科学として歴史学を輸入したときに、厳密な学問とするために理屈で理解できるものだけを相手にしようという方向が強くなって、反対に、個々の人間の感性に対する評価が低くなってしまった。
極端にいえば、すぐれた歴史学の成果とは、ある事件が起きたのはいかに必然的であったかということを明らかにすることなんです。たとえば、ミラボーという人物がいなくてもフランス革命は起きた。あるいは、カエサルがいなくても古代ローマ帝国が成立するのは必然であった、と。その必然性を明らかにするものがすぐれた論文とされる。そうすると、個人の動きに対する評価がどうしても小さくなっていく。そういう傾向があります。
茂木 非常に興味深い話ですね。我々、科学畑の人間からすると、複雑系の科学が出てきて以来、すごく小さなスケールの出来事が大きなスケールのマクロの変化を引き起こすというのは、ほぼ常識のようになっています。有名な「バタフライ・エフェクト」というのがありますね。中国でチョウが羽ばたくと、非線形ダイナミクスを通して、巡り巡ってメキシコ湾でハリケーンが起こるという。
ですから、フランス革命でも民衆一人一人の振る舞いが全体に影響を与える可能性があると思うし、ましてやミラボーのような強烈な個性の人物なら、当然マクロな事象にもかなり影響を与えただろうと思いますけどね。
佐藤 個人を切り捨てるというのは、マルクスの唯物史観の影響もあるし、それからナチス・ドイツに対する反省というのも大きいですね。ナチス・ドイツには英雄崇拝的な傾向があるし、ダーウィンの『種の起源』を援用しながらアーリア民族至上主義を唱え、ユダヤ人を排除しようとしたわけですね。歴史の動きを個人に帰すると、すべて成功したのはすぐれた遺伝子を持った人たち、民族の勝利ということになってしまう。その反省の上で、個人の英雄を否定するという方向が強くなったんです。
茂木 自然科学においても、ダーウィンの『種の起源』のように、種というものを単位にして自然を記述するという科学主義的な残照みたいなものがいまだにあります。たとえば脳の研究をしていると、十人のうち九人は同じ傾向だけれど、一人だけ違うということがよくある。このとき、この一人をどう考えるかというのは大問題なんです。科学論文として書きやすいのは、その例外的な少数派の人のことは書かない、あるいはノイズとして切り捨ててしまう。個人を扱えないというのは、我々がやっている科学の大きな欠陥なんですが、歴史学でも同じようにその毒が回っているというのは問題ですね。
佐藤 フランス革命でも、議会の議員を調べて八割が第三身分からの選出となると、この議会はブルジョアによって運営されたのだろうという結論が出る。しかし、議員個々を具体的に調べてみると、ミラボーのように貴族(第二身分)でありながら第三身分の議員として名を連ねている人もいるし、シェイエスのように、聖職者(第一身分)で第三身分の人もいる。そういう例外の人がむしろ活躍して、時代を前に動かしている。それをどう理解するかというのは、やはりすごく難しい話になりますね。
茂木 ミラボーと並んで、この一、二巻のもう一人の主役がロベスピエールですね。彼はこれ以後どんどん頭角を現して、ある意味では革命の性格を決定づける役割を果たしていく。その辺を佐藤さんがどう書いていくのか、すごく楽しみなんですけど、やはり、フランス革命を描くときには、ロベスピエールという人物は避けて通れないですよね。
佐藤 小説を書いていくほどにそう思います。
茂木 ふつう、優柔不断で無能のようにいわれているルイ十六世にしても、この本ではすごく実在感のある人物として描かれている。ルイ十六世がもし別の振る舞いをしていたら、革命の方向は違っていたかもしれない。
佐藤 フランス革命が起こるのは一七八九年ですけれども、それまでの歴史でも、王様が亡命を強いられた危機は何度かあります。十七世紀のフロンドの乱などは社会構造も似ていて、なかった要素といえば、自由、平等、博愛の精神ぐらいです。そのほかの要素はいつ革命が起きても不思議でないぐらい揃っていた。それでも、王ないしは王の側近に優秀な人がいたために、廃位までには至らなかったという例はあるわけです。
茂木 歴史や人間の振る舞いに規則性がまったくないわけではなく、ある程度の予測可能性、規則性はあると思います。しかし一方で、偶然の要素なり、別の道筋でもありえた可能性は常にある。規則性とランダム性、必然性と偶然性が入り交じっているような状態を我々は偶有性と呼んでいます。
佐藤さんの小説を拝読してると、フランス革命はまさに偶有性の産物で、人々が何か理想を信じて動いたときに、それが実現できるかどうかは理想の強さだけで決まるのではなく、偶然の出来事で決まってしまうことがある。歴史の残酷さとおもしろさを強く感じます。
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(続きは本誌でお楽しみください) |
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【佐藤賢一さんの本】
I『革命のライオン』
II『バスティーユの陥落』
11月26日同時発売
定価1,575円
単行本 |
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茂木健一郎
もぎ・けんいちろう●脳科学者、理学博士。1962年東京都生まれ。著書に『欲望する脳』『脳とクオリア』『脳と仮想』(第四回小林秀雄賞)『思考の補助線』等。 |
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