青春と読書
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特集 池澤夏樹『セーヌの川辺』
対談 現代日本はどこへ行く?――便利さの陰に潜む不安 池澤夏樹×島村菜津
 現在、フランスのパリの南南東五〇キロほどに位置するフォンテーヌブローに在住する池澤夏樹さん。彼の地で暮らす日々の雑感や、異国からだからこそ見えてくる日本の姿など、文明論的な趣のあるエッセイ集『異国の客』の第二弾『セーヌの川辺』が発売されます。年に数ヶ月はイタリアで暮らしているというゲストの島村菜津さん。「異国暮らし」のお二人に、現代日本はどのような姿に映るのでしょうか。


●日本との違いを考える習慣


島村 今度の『セーヌの川辺』を読んで改めて驚いたのは、池澤さんは今年になるまで一度もイタリアにいらしたことがなかったんですね。
池澤 今年の二月にフィレンツェに行ったのが、初めてのイタリアなんですよ。本にも書きましたが、時間がなくてほとんどドゥオーモを見ただけで帰ってきました。で、日本に来てみたら、例のいたずら書きで大騒ぎになってるでしょう。
島村 そういえば、イタリアでも世間の注目度はとても高くて、新聞の一面を飾っていました。
池澤 聖堂の頂点に造られたランタンという明かり取りを一周する円形のテラスがあるのですが、そのあたりはいたずら書きだらけなんですよ。日本語のものも当然あって、もちろんいい気分ではないけれど、それがこれほどの騒ぎになるとは思わなかった。
 ぼくが考えたのはこういうことです。いたずら書きはみんなするし昔からあった。自分の名前はもちろん書く。でも、あの子たちは学校の名前まで書いてしまった。それであれよという間に大事になって、結局学校が恐縮して謝罪の手紙を送ったり、停学になった学生たちも出たわけですね。
島村 イタリアの新聞で一面になったのは、日本の学校が大袈裟な対応をしたからということです。わたしは、この騒ぎのときにちょうどイタリアにいましたが、地元の人も、イタリアの悪ガキじゃなくて、礼儀正しく規則をきちんと守ると思われていた日本の子供がこういうことをやったことが意外だったようですね。
池澤 日本のイタリア化と見てもいいわけだ。
島村 それは向こうでもいわれていました。
池澤 結局、『異国の客』でもそうでしたけれど、フランスでの暮らしのことを書こうとすると、フランスやヨーロッパのものの考え方や出来事を報告するだけでは足りなくて、「でも日本では」という比較対照がどうしてもついて回る。彼我を比べて、どちらがいいかという価値判断は持ち込みたくないけど、向こうで暮らしていると、日本と違うのはなぜなのかと考えるのが習慣になる。その延長上で今回のことを見ていくと、日本の学校は、あれを「恥」と受け取った、つまり大学の面汚しだと思ったんじゃないですか。
島村 世間に対して恥ずかしいというセンスは向こうはないですよね。
池澤 恥さらしだというので、いわば見せしめに遭ったわけでしょう。普通に考えれば、それは単におばかなことをしただけであって、笑われても仕方がないけれど、それ以上のものではない。それがたまたま話が大袈裟になってしまった。
 六名がまとまって名前を書くというのもあったでしょ、あれも日本的でしたね。いつもグループを作っていたいし、その結束を確認していたい。仲間外れになりたくない。だから、自分たちの結束の象徴として学校名も書いた。それで身元が知れて騒ぎになった。ほめられた話ではないけれど、ある種の典型として興味深い話でしたね。
島村 わたしも一昨日までイタリアに行っていましたが、やはり、何かにつけ日本と比較していますよね。たとえば、小さい町というか、コミュニティーというのがわたしのなかに隠れテーマとしてずっと続いています。これは孫引きで、しかも私の曲解が入っているから元の文章とはだいぶ違いますけど、井上ひさしさんが『ボローニャ紀行』の中で、日本は、地主と国が建造物に大きく関わっているからすごい勢いで日本の景色を壊してしまった、と。ところが、イタリアやフランスでは、町作りの基礎にコムーネ(自治都市共同体)があって、それが中心となって、みんなで町の景観なり形をつくってきた。頼むからこれ以上壊さないでくれと思いますが、やはり日本の町作りとは根本的に出発点が違うんですね。
 池澤さんは、向こうに四年近くお住みになって、その辺りのことについてどういうふうに考えていらっしゃいますか。
池澤 ヨーロッパでいう町というのは、みんなでつくるものであって、コミューンなりコムーネなりの中で形成された意思によって町が運営される。運営の基準なり方針なりはある程度文書化され、共有されている。つまり、共有であるという意識がとても強くて、風景論、都市計画論もそこに含まれるわけです。要は、フランスやイタリアの町がなぜあんなに統一されていてきれいなのかということですね。でも、ここでいう「きれい」というのは、積極的に美しいということではなくて、「醜くない」ということなんです。
島村 醜くしないよう壊さない。
池澤 そう。それだけのことなんですね。共有している風景を壊すものは造らない、それが景観に対する基本姿勢です。だから、町のなかで自分だけ派手な家を建てたいと思ってもそれはできない。
島村 日本でも、わたしの好きな漫画家の先生が、派手な家を造ろうとして近所から文句が出ましたけどね(笑)。
池澤 みんなが見るものである以上、風景、景観は共有財産なんです。その共有財産もただ単に維持するだけじゃなくて、変えるべきところはどんどん変える。ぼくがいま住んでるフォンテーヌブローも、交通法規を大きく変えて、車を制限して走り抜けにくくしたり、自転車優先道路を造ったり、結構変えているんです。見た目の景観としては変わっていなくても、使い方自体がずいぶん変わっている。
島村 それはきっと、法律や特定の組織ではなくて、町の中にそういうふうに考えていくシステムが自然とできているんでしょうね。日本の場合だと、どうしても農水省とか国土交通省とか、お役所が企画を書いて下に下ろすという形になって、さっきもいったように、変わるときには景観までもが一挙に変わってしまう。
 たとえば、風力発電がいっぱい並んでいる光景というと、日本ではエコロジーの象徴のように思われているじゃないですか。ところがイタリアの南の地方では、風力発電の施設を造ろうとして議会に諮(はか)ったら、あれが並んでいる光景は醜いという意見が多くて、造れなかったというんです。それも一つの町だけじゃなくて方々でいわれたということがあって、日本人のわたしはとても驚きました。
池澤 醜いというのは確かにありうる意見だと思います。古い教会などと調和しないから。その一方、景観を大事にして、古いものに手を加えながら暮らしていくのは、現実にはなかなか大変なんですよね。ぼくがいま住んでいる家もそうだけど、雨は漏るし、配管はしょっちゅう不具合になるし、窓枠も壊れてくる。うちの町の大工さんたちの仕事の半分は新築ではなく修理じゃないかな。
島村 基本は“もったいない”文化なんですね。
池澤 丸々新築なんてのはあんまりない。まあ、修理といったって、石の壁を残して内部を全部取りかえるところまでやったら、もう新築みたいなものですけどね。
(続きは本誌でお楽しみください)
(構成・増子信一/撮影・秋元孝夫)

プロフィール
池澤夏樹
いけざわ・なつき●作家、詩人、翻訳者。
著書に『スティル・ライフ』(芥川賞)『言葉の流星群』(宮沢賢治賞)『パレオマニア』(桑原武夫学芸賞)『カイマナヒラの家』『異国の客』等。
島村菜津
しまむら・なつ●ノンフィクション作家。
著書に『エクソシストとの対話』(21世紀国際ノンフィクション大賞優秀賞)『スローフードな人生!』『スローフードな日本!』等。
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